某お笑い芸人が、女子高生の制服をたくさん盗んだようだが、そういう趣味っていまだにピンとこない(いや、ピンと来たらダメだろ……っていうか、たとえピンと来てもここに書かないけど)。
私が疑問に思うのは、彼等は女子学生の個体認識をしてから制服を盗むのか、それともランダムに盗むのかということだ。
大量に盗む人は後者の可能性が高いようにみえるのだが、後者ならば、彼は自分のタイプとなる女性個体への欲望よりも、〈女子高生〉というカテゴリを欲望していることになる。
そう、第一に私が理解できないのは、(大量の下着ドロもふくめて)別に選好してもいもない異性の衣服を収集したところで性的な満足を得られるだろうか? ということだ。個体を離れて性的欲望を維持することは一見、難しいようにみえる。もし依然として維持できるのなら、それは個体よりもカテゴリへの欲望が先行していることの証となるだろう。そしてたぶん、私には〈女子高生〉カテゴリへの欲望がないのだろう。
ならば、〈女子高生〉はまぁいい(……別に良くもないか?)。で、その場合、更なる疑問として浮上するのが、わざわざ盗む必要があるのか? つまり、買えばよくね? ということだ。
制服を盗んでも、その中身になる身体はどちらにせよ存在しないのだから、盗難or購入の差異なんてほとんどないじゃないかと思えてしまう。「コスプレ」への欲望はまだ分かりやすい。そこに身体が存在しているのだから。おそらく、推測でいえば、使用済の制服(着られた制服)は、女子高生の身体の表象/代行として機能しているのだろう。つまり、女子高生の身体の現前(présence)が得られない代わりに、身体が一度通過した制服がその表象(représentation)として機能するのだ。
ここで私が躓いてしまうのが、この中途半端な身体への欲望である。もし純粋なカテゴリ欲望(=イメージ消費)ならば、制服は身体の代行である必要がなく、倒錯者は単に制服を購入し私的に満足を得ればよい。しかし、多くの盗難者はそうではない(ようにみえる)。
「使用済み」が切り拓く特有の性的地平とはなんなのだろうか。別言すれば、どのような条件で純粋なカテゴリ欲望(盗難しない倒錯者)は成立して、どんな仕方で転落=不純化(身体性の伝染)してしまうのだろうか。ここに私は学問的な興味を感じる。
私は、木のウロや変な形の野菜に身体イメージを見出せる性的想像力こそ、人間だけが授かった素晴らしい宝であると思う。とりわけ、身体から離れれば離れるほど、その反生物学的力能は輝く(ちなみに、私は人間が人間を産むことは反対だ)。果して、制服を盗む者と制服を購入する者、どちらが《変態》なのだろうか? どちらが困難な道のりなのだろうか?
「制服は購入せよ、盗みたいと思う者はまだまだ《変態》への修行が足らないのだ、re/présenceから解き放たれよ」、女子高生よりも制服の方を愛せることが人間の人間たる所以であると信じる私は、そんなふうに言ってみたい衝動に駆られる。女体よりも女体的な非女体的なものへ(女体を男体に変えてもよい、そんな漢字はないけれども)。
そんなことをこの年末に考えた。
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女子高生の制服を盗みたいという欲望について
- 2015年12月27日 12:52
- エッセイ