photo: 東間 嶺
“わたしは、写真集を視覚的な小説だと思っている”“今日、写真は、(進化した、視覚的な)言語の一つである”
◆ 《小説》、と断定したことに、わたしは少し驚いた。小説のような写真でもなく、写真のような小説でもない、視覚的な小説。それらをはっきりと同一視する人間には、会ったことが無かったからだ(アラーキーの『写真小説』とかは、あれはブンガクだから)。
◆ スクリーンに映し出された自身のテクストをゆっくりと読み上げるファン・デル・ハイデンvan der Heijden氏の確信に満ちた口調は、啓示的な響きをもって、会場の聴衆を惹きつけていた。
『本の速度とリズム』
REMINDERS PHOTOGRAPHY STRONGHOLD
公開講義『本の速度とリズム』
期間:2015年12月8日(火)午後7時から9時頃まで場所:Reminders Photography Stronghold(東京都墨田区東向島2-38-5)参加費:1,000円(RPSメンバーは無料)ゲスト講師:トゥーン・ファン・デル・ハイデン、サンドラ・ファン・デル・ドゥーレン(Heijdens Karwei)進行役:後藤 由美(RPS) ※日英通訳にて進行。
◆ 上掲の通り、12月8日夜に東向島のオルタナティブ・スペース、Reminders Photography Stronghold(以下、RPS)において、オランダから来日中のグラフィックデザイナーであるトゥーン・ファン・デル・ハイデンおよびサンドラ・ファン・デル・ドゥーレン両氏の公開講義があり、わたしも聴講した。
◆ 講義は、同スペースで実施中のワークショップ『RPS PHOTOBOOK MASTERCLASS』のスピンオフとして行われ、両氏がこれまで手がけた写真集を材に、トゥーン・ファン・デル・ハイデン氏(以下、トゥーン氏)が自身のノートから抜き出した12のメモを用いて、写真集デザインの《核》となる要素をレクチャーをするというものだった。
◆ 取り上げられた写真集と作家は、下記の通り。
#1 Black Passport (Stanley Greene)
#2 Interrogations (Donald Weber)
#3 Via PanAm (Kadir van Lohuizen)
#4 When I Was Six (Phillip Toledano)
#5 Belgian Autumn (Jan Rosseel)
#6 WAR PORN (Christopher Bangert)
#7 Inshallah (Dima Gavrysh)
#8 Carpe Fucking Diem (Elina Brotherus)
◆ そして、トゥーン氏が示す写真集の《核》を考察した#1~12のメモは下記写真の通り。
※ 写真提供:地蔵ゆかり
Photography is the language of today.
◆ 『本の速度とリズム』。講義はそんなふうに銘打たれていたが、実際には《核》となる12のメモや各写真集をめぐるエピソードを通して、単なるテクニカルな解説を超えたもっと本質的な事柄に対するトゥーン氏の考察が語られており、その部分がとりわけ強く印象に残るものだった。
◆ 本質、とは何か。それは、現在のわたしたちを包囲する肥大した情報化社会の映像環境において、『写真』や、その集合である『写真集』とは一体どのような存在として位置づけられ得るのか?ということだ。
◆ トゥーン氏の答えは明快だ。冒頭の言葉、#9のメモをもう一度引こう。
◆ 本質、とは何か。それは、現在のわたしたちを包囲する肥大した情報化社会の映像環境において、『写真』や、その集合である『写真集』とは一体どのような存在として位置づけられ得るのか?ということだ。
◆ トゥーン氏の答えは明快だ。冒頭の言葉、#9のメモをもう一度引こう。
わたしは、写真集を視覚的な小説だと思っている。今日、写真は、(進化した、視覚的な)言語の一つである。
◆ 《小説とは?視覚的言語とは何か?》そのような、ややこしくも無意味な細部の追求を、この場では省略する。小説は小説、言語は言語だ。そして、言語によって記述される小説は物語、ストーリーを持つ。
◆ トゥーン氏は、写真集がストーリーを持たなければならない必要性について、何度も強調していた。(視覚的な言語たる)写真は、情報化社会における進化した意志伝達手段であり、今後ますます重要なコミュニケーションツールとなる。そして、写真集は、その増殖し続けるイメージの断片を集約し、人々が共有可能なものとして意味を与えることができる。写真家が観察し、解釈した世界の姿を他者へ伝え、分かち合うためには、ストーリーが必要なのだ。
◆ 加えて、それはあくまでも三次元上の物体、オブジェクトであるという点を強く意識しなければならない。コンセプト、サイズ、紙、綴じ、プリント。本としての諸要素を綿密に検討する事で、写真集はオリジナルの『アウラ(aura)』を持つようになる(メモ#11)。
◆ トゥーン氏がベンヤミンをどう読んでいるのかは知らないが、ここでの『アウラ(aura)』は、シンプルにその写真集のコンセプトやデザインの独自性全体のことを指しているのだろう。
◆ 当日紹介された写真集はどれも興味深く美しいものだったが、トゥーン氏の語る《視覚的な小説》、《視覚的な言語》の具現化としてもっともふさわしく、ラディカルな内容を持っていたのは、氏も「非常に良いサンプル」と認めていた、ヤン・ラッセル(Jan Rosseel)の《Belgian Autumn》だと言える。
◆ ラッセルの同書は今年の6月、RPSで《ヤン・ラッセル写真展「ベルギーの秋、作られた歴史」》として個展も開催されている(YouTubeの映像は普及版ではなく、オリジナルの限定版)。
◆ 《Belgian Autumn》は、写真集でしか扱いえないストーリーの提示方法を試みている。すなわち1980年代に《ブラバントの「殺人鬼」》が巻き起こした一連の未解決虐殺を調査したインデックス付きテクストと、紙面に挟み込まれる再編集された資料、事件を構成するさまざまなイメージや写真(地図、犯行に使用された武器、薬莢、車、現場=スーパーマーケット、監視カメラ映像のキャプチャ、モンタージュ写真、そして森)の複雑な組み合わせ。
◆ 虚実のあわいを行きつ戻りつする緻密で大胆な構成は、単純なドキュメントやルポでも無ければ完成されたピースがただ順番に並んでゆく図版集でも無い。まさに視覚の小説、イメージによるナラティブとでも呼ぶべき独自性を持っているのだ。
◆ 講義の終盤、ラッセルの《Belgian Autumn》について紹介しながら、トゥーン氏はきっぱりとそう言った。近年の《Heijdens Karwei》は、以前とは違って大手出版との仕事が減り、セルフパブリッシングで写真集を作る人々との仕事が増えているとのことだが、そうなると、ときには「400~500部しか作られない本になんの意味があるのか」と問われる状況にも遭遇してしまう。
◆ 問い自体は典型的で凡庸なメジャー/マイナー批判に過ぎないが、氏も、以前は答えに窮するときがあったという。しかし、現在は以下のように確信している、とのこと。「優れた本であれば、刷り数とは別の回路で、ストーリーは自然と広がる」(※ 28部しか作られなかったオリジナルの《Belgian Autumn》がインターネットで話題を呼んだことは、それに大きな裏付けを与えることになった。)
◆ 《Belgian Autumn》のように、商業出版のフォーマットから外れた各種セルフ-パブリッシングは、今後、もっと盛んになるだろう(実際、トゥーン氏はRPSでワークショップ中だ)。ブロードバンドが一般化し、高いレベルでのオンデマンド・プリントが普及しはじめ、AdobeのCCに代表されるアプリケーションも廉価になったことで、個別の編集環境は劇的に向上した。
◆ そしてさらに、トゥーン氏の主張するように、写真が、《視覚的な言語》であり、写真集が《小説=ストーリー》であるならば、それはもはや本やプリントに限らず、あらゆるデバイス、あらゆるメディアに展開することで、さらに多様性を発揮する可能性も秘めている。各々は、最終的な状態として、主従がある関係性ではなく相互に補完しあうものになるのかもしれない。
◆ “A photobook will outlive you” 写真集はあなたより長く生きる、とトゥーン氏は最後のメモに書いたが、生きる、のは何も具体物とは限らない。
◆ この些細なテクストだって、わたしより長く生きる……かもしれないのだから。多分。
(了)
◆ トゥーン氏は、写真集がストーリーを持たなければならない必要性について、何度も強調していた。(視覚的な言語たる)写真は、情報化社会における進化した意志伝達手段であり、今後ますます重要なコミュニケーションツールとなる。そして、写真集は、その増殖し続けるイメージの断片を集約し、人々が共有可能なものとして意味を与えることができる。写真家が観察し、解釈した世界の姿を他者へ伝え、分かち合うためには、ストーリーが必要なのだ。
◆ 加えて、それはあくまでも三次元上の物体、オブジェクトであるという点を強く意識しなければならない。コンセプト、サイズ、紙、綴じ、プリント。本としての諸要素を綿密に検討する事で、写真集はオリジナルの『アウラ(aura)』を持つようになる(メモ#11)。
◆ トゥーン氏がベンヤミンをどう読んでいるのかは知らないが、ここでの『アウラ(aura)』は、シンプルにその写真集のコンセプトやデザインの独自性全体のことを指しているのだろう。
イメージのナラティブ、 Belgian Autumn (Jan Rosseel)
◆ 当日紹介された写真集はどれも興味深く美しいものだったが、トゥーン氏の語る《視覚的な小説》、《視覚的な言語》の具現化としてもっともふさわしく、ラディカルな内容を持っていたのは、氏も「非常に良いサンプル」と認めていた、ヤン・ラッセル(Jan Rosseel)の《Belgian Autumn》だと言える。
◆ ラッセルの同書は今年の6月、RPSで《ヤン・ラッセル写真展「ベルギーの秋、作られた歴史」》として個展も開催されている(YouTubeの映像は普及版ではなく、オリジナルの限定版)。
◆ 《Belgian Autumn》は、写真集でしか扱いえないストーリーの提示方法を試みている。すなわち1980年代に《ブラバントの「殺人鬼」》が巻き起こした一連の未解決虐殺を調査したインデックス付きテクストと、紙面に挟み込まれる再編集された資料、事件を構成するさまざまなイメージや写真(地図、犯行に使用された武器、薬莢、車、現場=スーパーマーケット、監視カメラ映像のキャプチャ、モンタージュ写真、そして森)の複雑な組み合わせ。
◆ 虚実のあわいを行きつ戻りつする緻密で大胆な構成は、単純なドキュメントやルポでも無ければ完成されたピースがただ順番に並んでゆく図版集でも無い。まさに視覚の小説、イメージによるナラティブとでも呼ぶべき独自性を持っているのだ。
A photobook is a fly-wheel. 拡散するイメージとストーリー
「たとえ本が限定された数しか作られなくとも、それが特別なオブジェクトであれば、インターネットなどを介して、予想外の規模でストーリーは広まっていくものです」
◆ 講義の終盤、ラッセルの《Belgian Autumn》について紹介しながら、トゥーン氏はきっぱりとそう言った。近年の《Heijdens Karwei》は、以前とは違って大手出版との仕事が減り、セルフパブリッシングで写真集を作る人々との仕事が増えているとのことだが、そうなると、ときには「400~500部しか作られない本になんの意味があるのか」と問われる状況にも遭遇してしまう。
◆ 問い自体は典型的で凡庸なメジャー/マイナー批判に過ぎないが、氏も、以前は答えに窮するときがあったという。しかし、現在は以下のように確信している、とのこと。「優れた本であれば、刷り数とは別の回路で、ストーリーは自然と広がる」(※ 28部しか作られなかったオリジナルの《Belgian Autumn》がインターネットで話題を呼んだことは、それに大きな裏付けを与えることになった。)
◆ 《Belgian Autumn》のように、商業出版のフォーマットから外れた各種セルフ-パブリッシングは、今後、もっと盛んになるだろう(実際、トゥーン氏はRPSでワークショップ中だ)。ブロードバンドが一般化し、高いレベルでのオンデマンド・プリントが普及しはじめ、AdobeのCCに代表されるアプリケーションも廉価になったことで、個別の編集環境は劇的に向上した。
◆ そしてさらに、トゥーン氏の主張するように、写真が、《視覚的な言語》であり、写真集が《小説=ストーリー》であるならば、それはもはや本やプリントに限らず、あらゆるデバイス、あらゆるメディアに展開することで、さらに多様性を発揮する可能性も秘めている。各々は、最終的な状態として、主従がある関係性ではなく相互に補完しあうものになるのかもしれない。
◆ “A photobook will outlive you” 写真集はあなたより長く生きる、とトゥーン氏は最後のメモに書いたが、生きる、のは何も具体物とは限らない。
◆ この些細なテクストだって、わたしより長く生きる……かもしれないのだから。多分。
(了)