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横山裕一『ルーム』、ハモニカブックス、2013年 (画像:版元HPより)
 



「真の対話に言語が必要とは限らない」 

横山裕一『ルーム』より


 今更ながら、最近になってようやくiOSの音声アシスタント機能Siriの精度の高さに驚いている。IT音痴なりに、音声を認知して質問に答えてくれるアプリの存在だけは知っていたのだが、性能的にもっとちぐはぐな回答しか出来ないものだと思いこんでいたのだ。Siriに「疲れた」と言うと、「疲れたり眠くなったりするのは自然なことですよ」と返してくれるそうだ。これほど気の利いた返しを咄嗟にできる自信は、私にはない。ときにはこちらの情緒をくすぐるような返答もしてくれるのだから、人間相手には打ち明けにくい内容もSiriになら言える、という人が続出したとしても不思議ではない。言葉の背後にある本心を勘繰る必要がないぶん、精神衛生的にも健やかな対話が楽しめそうだ。

 私たちはふだん、言葉の背後にある本心を探ったりあえて無視したりしながら日常のコミュニケーションを遣り過ごしている。見方を変えればそれは、私たちが言葉の背後にある「人間的な何か」にいかに左右されやすいかを物語っている。言葉の背後に人間の「心」もしくは「主体」があってほしいと願うのが素朴な態度であったとしても、たとえば「心」のこもった(かのように聴こえる)言葉に気持ちを揺り動かされることは日常に多々あるわけだし、言葉を通じて「心」を交換しあうといったコミュニケーションへの幻想を、人はそう簡単には捨てきれないだろう。高度に発達した音声認識アプリはコミュニケーションへの幻想を代理的に満足させてくれるかもしれないが、それでもなお割り切れず余る言葉への期待があるのだとしたら、それは一体何だろうか?
 
 想像のなかで、言葉から「心」や「主体」といった手垢まみれの概念をひとつずつ剥がしてみる。すると、コミュニケーションへの幻想を祓うかのように、呪文めいたひとつの言葉が脳裏に浮かぶのだ。冒頭に引いた、横山裕一の漫画『ルーム』に出て来るキャラクターの台詞である。

* * *

 「ネオ漫画家」を自称する横山裕一が2013年に発表した短編集『ルーム』は、作者初の「ギャグ漫画」であり、「言葉の面白さに興味がありセリフを主体にした漫画を描きたい」という動機から描かれた(同書巻末の「横山裕一インタビュー」より)。それまでの横山作品を彩ってきた、人間とも何ともつかない異形のキャラクターたちは本作でも健在で、「真の対話に言語が必要とは限らない」と嘯きながらも彼らは実に饒舌だ。通常の漫画に見られる起承転結のストーリーは、『ルーム』にはない。代わりに、キャラたちの間断なきお喋りと、小競り合いと付和雷同を繰り返す目的なき集団行動こそが、漫画世界の時間軸を進行させる唯一の駆動力となっている。例えば、「かれは」と題した話では、落葉の掃き掃除をしている男たちがいつのまにか集めた葉っぱの枚数を競いはじめ、最後には火をつけて燃やしてしまう。「ひっこし」では、引越しの荷造り作業を行う男たちが協働しながらも好き放題に遊び出す様子が笑いを誘う。

 『ルーム』の根底に流れるあの奇妙な力は、「蓄積の否定」に由来するのではないか。誰かの発言や行動は直ちに咎められ(「だめだ」「やめなさい」)、キャラクターに名前は無く(「人間どうしのつきあいに名前など不要」)、あらゆる物事はすぐさま忘却される(「私などは山のことも海のこともおもい出せません」)。集団行動が建設的な何かにフィードバックすることはないし、対話はどこまでも横滑りして深まらない。キャラクターたちが「TVで流れる動物番組や料理番組」「みたことのないめずらしい鳥」等々にテンポラルな関心を示すことはあっても、その関心はすぐさま移ろって脱線してゆく。彼らにとって大事なのは、時間が淀みなく進行していくこと、そして目の前に生起するナンセンスな事象とひたすらに戯れることだけなのだ。
 
 とある精神科医は、いわゆるサイコパスと呼ばれる凶悪犯罪者を過去に何人か面談した経験から、サイコパスの共通点に「びっくりするほどさわやか」という特徴を挙げている。人を殺しても反省せず、特別な出来事と捉えずに淡々と通り過ぎていくから、過去に執着がないぶん、風通しが良くて非常にさわやかな印象をまとうのだそうだ。不断の現在だけを相手にする『ルーム』の世界もまた、サイコパス的な風通しの良さがある、といったら言い過ぎになるだろうか。

 
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「ひっこし」の一場面より。
横山裕一の漫画を見ているとルイジ・ピランデルロの小説タイトル『ひとりは誰でもなく、また十万人』をなぜか思いだす。


 改めて、『ルーム』の特筆すべき点として、作中の「言葉」に注目したい。本作では、無駄なものが常識的尺度や容量を超えて大量にある、といった状況がしばしば描かれる。たとえば無尽蔵に缶ジュースを蔵する自販機、塩や水道水といったどうでもいいものがぎっしり詰まった冷蔵庫、トランクルームにゴミを整然と並べ詰めた自動車、膨大な数の競技者が参加するオリンピックなど。尺度や容量を超え出ようとする志向は、キャラクターの台詞、すなわち言葉自体の次元でも見られる。「宇宙的スケールのお顔」「ビッグニュースにサイズは無関係」といった奇妙なレトリック表現がそうだ。

 言葉の常識的な使用を守っている限り、絶対に突き破ることのできない壁というものがある。『ルーム』のキャラクターたちは、ときに対話のなかで、限界を与える壁を軽々と突破する。「社交後編」では、世界中の人と面識があると豪語する男と、いつも行動を共にする謎の3人組との珍妙な押し問答が見どころだ。漫画なので台詞だけを引用しても面白味は伝わりにくいかもしれないが、「言葉」に焦点を当てるためにあえて長めに引用してみよう(そもそも『ルーム』は台詞先にありきの作品なのだから、キャラクターを言葉に従属する下位クラスの存在とみなすこともできるはずだ)。
 


男「私は全世界の全ての人と面識があるのです」
3人組「そのようなことが可能なのか」「ごじょうだんでしょう」
男「いや事実なのだ」
3人組「つまりあなたは世界一周旅行をされたわけですね?」
男「してきた」
(略)
3人組「地球上のあらゆる辺境地にもいかれたわけだ」
男「もちろんだ」
3人組「最近は北極や南極にも人間がいる」
男「北極人にも南極人にも会ってきた」
(略)
3人組「世間には無口なやつや、人に会いたがらない者もいる」「そういう人にはどうします?」
男「大声でかたりかけるのだ」
(略)
3人組「耳の遠い方や意識のない人にはどのように?」「人の話を聞かないやつなどもいる」
男「何度もくりかえし語りかけるのだ」
(略)
3人組「しかし全世界には数千の言語が存在する」「あなたがいくらおしゃべりでも数千語を使いこなせるのか」
男「真の対話に言語が必要とは限らない」

(引用:131~133頁)
 


 それまでの遣り取りを一挙に覆す最後のひとことはともかく、男にとって全世界の人と知り合いになるための鍵は、やはり「言葉」である。それも「大声で」「何度もくりかえし語りかける」といった、もはや意味内容を放棄して力技へと転換させられた「言葉」だ。ここでも尺度・容量の超出志向は明らかである。男の全能感は「大言壮語」として発動し、有無を言わさず言葉の不能を飲み込んでいく。このような豪語が可能となるのは、男の言葉の背後に「主体」が微塵もないからだろう。「主体のなさ」は、『ルーム』のキャラクター全員に共通する要素である。彼らはなんだかんだ言いながらも集団行動に流されやすく、お喋りの内容に一貫性を欠いていて、確固たる主体がない(なかには顔が刻一刻と変化するキャラクターまで存在する)。背後に主体を持たない言葉に内実など求めても無駄だ。むしろ、内実がないからこそ、「大言壮語」「大法螺」「屁理屈」「無駄話」といったかたちを借りて、言葉はより自由度を獲得して横柄に振る舞えるのである。

* * *

 饒舌だが言葉に背後を持たない『ルーム』の世界は愉悦的ですらあり、コミュニケーションへの幻想から人間を解き放ってくれる。個性的な外見のキャラたちが不協和音を奏でながら共存する様態も魅力的だ。空気を読むことばかりが強いられる不寛容な人間社会と比べ、どれほど活き活きしているだろう。私はここに、一種のユートピアの実現を見てしまう。
 
 それは、Siriのように人間の期待に沿う返しなど絶対にしない、異形のキャラクターたちが跋扈する酷薄な言語遊戯のユートピアである。