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(↑有島にも泡鳴にも全く関係ないですけど、『野火』良かったですよ)。

 有島武郎×岩野泡鳴という危ないBLを予感させるカップリング論、「泡鳴に応答する――有島武郎『動かぬ時計』の「伝統」の問題」を書いた。有島のマイナーな短篇小説『動かぬ時計』、その主人公であるR教授の「伝統」主義から、二度の論争を繰り広げた岩野泡鳴への有島なりの応答を読み取る。文字数は14370字、原稿用紙だと36枚。目次は以下。


一、学問と生活
二、有島武郎と岩野泡鳴(明治四三=一九一〇年)
三、有島武郎と岩野泡鳴(大正六=一九一七年)
四、〈学問‐伝統〉から脱落する〈生〉
五、「伝統」から「ミリウ」へ
 


・岩野泡鳴入門

 近いうちに、有島武郎×三木清という別のカップリング論考(来年2月刊行予定)が出るはずなので、今回はそれの姉妹篇というべきものだろうか。そういえば、『骨』論なんてのも書いていたな。

 岩野泡鳴については漠然とでしか知らなかったので――元々自然主義が好きではないのだ――、今回改めて五部作や主要評論を読んだ。小説は余り好きではないが、評論はいい味出してると思う。といっても、多くの論者が指摘する通り、泡鳴の評論は飛躍ばかりで全く論理的ではない。けれども、評論は学術論文でないのだからハチャメチャでもよい。「おれは宇宙の帝王だ、否、宇宙その物だ」(『憑き物』)とか言う人に、論理性など期待する方がおかしい。

 しかし、泡鳴自身は一時、学術を志していたことがあったようだ。舟橋聖一によれば、大正四年、泡鳴は「日本音律の研究」という論文を文部省に提出することで学位を得ようと画策していた。「世間がとかく文士を異端者扱いにし、学者や教育者の方を数等上に置き、蔑視と冷視を以てのぞんでいるのに、業をにやしていたのである」(『岩野泡鳴伝』、213頁、角川書店、昭和46年)。

 この論文は文学博士のあいだに回されたものの、泡鳴の身辺上の問題によってあえなく否決された。泡鳴にそのような学問的志向があったとは、少しばかり驚きだ。いつか「在野研究のススメ」で取り扱おうかしらん。

 関係ないが、泡鳴の先行研究として読んだ河上徹太郎『日本のアウトサイダー』で、河上がホワイトヘッドなんか読んでいたのが結構意外だった(178頁、新潮文庫、昭和40年)。白頭さんってスゲー名前だよな。


・「負荷なき自我」批判?

 有島と泡鳴は明治末期と大正期に二度論争を繰り広げている。私なりに要約してみると、それはどちらも有島が措定する「自己」や「個性」の無条件性に対して、いやいや主体の成立の以前には「主義」とか「伝統」とか「国籍」があるでしょ? と泡鳴が苛立っているということだ。

 これとよく似た話に、ロールズvsサンデルの論争があった。ご存知のとおり、アメリカの政治哲学者ジョン・ロールズは「無知のヴェール」と呼ばれる目隠しの道具立てによって、己を構成する属性を知ることのできない抽象主体を介することで、普遍的な正義の原理を導出した。

 これに対し、コミュ二タリアンを自称するマイケル・サンデルは、そのような主体は絵空事にすぎない「負荷なき自我」で、個々の主体はそれに先立つコミュニティに帰属し、普遍的正義よりもコミュニティによって異なる善を優先しなければならないと説いた。

 有島vs泡鳴も要するにそういう話だ。有島がロールズで泡鳴がサンデルである。

 私は、サンデルのこの有名な批判が、単なるナンクセにすぎないと思うが(ロールズは思考実験として原初状態を仮構してるの分かってやってるんだから)、ややもすると有島の「自己」や「個性」は重力を失い、空疎に弄ばれてる感がないではないのは事実かもしれない。それ故、彼の評論に「ミリウ」のような「伝統」の変形概念が登場することを私は喜ばしく思うのである――ちなみに、中村星湖が「ミリウ」と使っている説がある――。次はその辺りを課題に取り組みたい。


・『実験室』と『解剖学者』

 そういえば、本論のなかではさりげなく、有島武郎の短篇『実験室』は泡鳴の戯曲『解剖学者』を意識しているのでは、という仮説を提起してみた。細部は当然異なるとはいえ、〈学問的関心によって肉親を実験材料として解剖しようとする隻眼の医師〉という表象は同じだ。ぜひ、専門家の意見を伺いたい。

 それにしても、白人種優勢の社会を変えるために自身の父親を解剖しようとする『解剖学者』のプロットは、ぶっとびすぎていて全く共感できない。いったいどういうつもりで泡鳴はこれを書いたのだろうか?

 今月は、第58回有島武郎研究大会が二松学舎大学で開催される(11/21)。研究発表が中々面白そうだ。

 今後も有島魂とともにあらんことを。