考えてみると、あれはもう15年近くも前の事になる。タイの首都バンコクにあるチュワタナジムの周辺をジムメイト達と走っていた早朝の事だ。ポツポツと落ちだした雨は十五分程経った頃には本降りといった様相で、その間にジムメイト達は、一人また一人とランニングコースを外れていく。けれども試合の近かった僕はどうしてもノルマをこなしたかった。
一人きりでロードワークを続けていると、ジムまでの帰り道で足を止めて待ってくれているジムメイトが居る事に気付いた。彼は雨粒に顔をしかめながら、両手で肩を抱いて身をすくめる、恐らくは万国共通の、あの震えるようなジェスチャーをして僕を心配そうに見詰めていた。勿論――雨で体が冷えるぞ――の意味だが、彼の気遣いに感謝しながらも「大丈夫だ」と手で示して、「ありがとう」の意味で笑顔を返した。
※ ネットでヨドシンを観ることができる、西岡との一戦。この試合も痛烈なKO負けだった。
ジムメイトはヨドシンという名のボクサーで(彼はタイのボクサーの御多分に漏れず、かつてはムエタイ選手として活動していたようだ)、ラジャダムナンスタジアムのバンタム級チャンピオンだった(このタイトルは日本ではボクシングのタイ国内タイトルとして認められている)。タイではリングネームにジムやスポンサーの名前を付ける事が慣習になっているから、彼は「ヨドシン・チュワタナ」の名前でリングに上がっていた。
最初に彼を見た時は中々良い選手だと思った。ガッツがあってボクシングの基本も出来ているし、何より攻防のバランスが良い。僕はタイに住んでいる時も最低限しか言葉を覚えようとしなかったので、ヨドシンとも特別に親しくしていたわけではない。ただ彼は他のタイ人と違って物静かだし、優しくて思慮深い好人物という印象だった。スパーリングをした記憶は殆どないが、とりわけ鮮明に覚えているシーンがある。
僕はそのスパーリングで、練習していたパンチを試そうと度々深く踏み込んでチャンスを伺っていた。そしてサウスポー同士の僕とヨドシンの踏み込みが重なるタイミングで、仕掛けたパンチが狙い通りに顎の側面に見事にヒットした。それはサウスポースタイルからの右アッパーをフェイントしてそのまま右フックに切り換えるというものだ。まともにヒットしたのでリングサイドで見ていたジムメイトから驚きの声が上がったが、ヨドシンはグラついて目を白黒させながらも遮二無二パンチを出しきて、僕は逆にロープに追い込まれてしまった。数階級上の僕の方が有利な筈だったが、実際にはヨドシンのガッツに気圧されたという印象が強い。
ヨドシンは、眼を傷めたと言って一度田舎に帰っている。そのスパーリングは、田舎から戻って来て以降の事だった。目を傷めてからのヨドシンのボクシングは、タフネスとスタミナを前面に出す攻撃偏重のスタイルに変化していったように思う。
彼がジムに戻ってきた時は驚いたものだった。
ある日ジムに行くと、当たり前のように拳にバンテージを巻いてジムワークの準備を始めているヨドシンがいた。目の事を聞くと、「マイペンライ、マイペンライ」と言って笑う。〝マイペンライ〟とはタイ語で「問題ない」、「気にしない」という程度の意味だ。彼の「マイペンライ」が眼の問題が解消・改善しての「マイペンライ」だったのか、それとも傷めていることなど気にしない、大事には至らないだろうという意味の「マイペンライ」だったのかは分からない。
彼がジムに戻ってきた時は驚いたものだった。
ある日ジムに行くと、当たり前のように拳にバンテージを巻いてジムワークの準備を始めているヨドシンがいた。目の事を聞くと、「マイペンライ、マイペンライ」と言って笑う。〝マイペンライ〟とはタイ語で「問題ない」、「気にしない」という程度の意味だ。彼の「マイペンライ」が眼の問題が解消・改善しての「マイペンライ」だったのか、それとも傷めていることなど気にしない、大事には至らないだろうという意味の「マイペンライ」だったのかは分からない。
心優しい彼の事だから、ジムメイトの心配を少しでも和らげようという意味もあったのだろう。
タイから帰国して随分と経ったが、それでも時折――あいつは今頃どうしているだろうか?――とチュワタナジムのジムメイト達の事を思い出す。ヨドシンの事は誰よりも頻繁に思い出すが、ヨドシンの場合は――あいつは今頃……――とは思わない。彼はもうこの世には居ないからだ。
ヨドシン・チュワタナは、2002年の12月14日に亡くなっている。日本で試合を行い、KO負けしてから帰国して、試合の五日後に普段の住まいでもあるジムでシャワーを浴びている最中に倒れ、再び立ち上がる事は無かった。リングでの死亡事故は、一般に「リング禍(か)」と呼ばれる。頭部への打撃が引き金となる事が殆どだが、ヨドシンの場合もそうだったのだろう。
彼が亡くなった頃の事を思い出そうとすると、僕の記憶は曖昧になる。当時のどんよりと沈み切ったジムの雰囲気を覚えているような気がしたが、パスポートを見ると僕はその二か月前に日本に帰国している。彼には美人の奥さんと可愛い息子が居た。息子はヨドシンを思わせる、優しく、賢そうな目付きをしていた。ヨドシンの葬式の際には、まだ「死」というものが理解出来ないのか、同じ年頃の子供と遊んでいたそうだ。
眼を傷めて上位進出に希望が持てなくなったボクサーがカムバックして噛ませ犬となり、短い準備期間で日本に輸出され、望まれた形で消費された。その結果として死に至った事を加えても、概略すればありきたりのストーリーに過ぎない。けれども彼と過ごした時間を大切に思っている人間からすると、ありきたりのストーリーに収まっている一つの人生について何か記しておきたくなる。
ヨドシンの事を振り返る時、まず真っ先に思い出すのはあのロードワークの際の、雨の中で僕を気遣う優しい眼差しだ。あれが、あれこそがヨドシンなのだと思う。
(了)
※ 日本へと輸出されるタイ人ボクサーの状況については、拙論【ボクシングを打ち倒す者ー9(最終回)】でも一部紹介しています。ここで紹介しているのは十年以上前の例ですが、同時に噛ませ犬を輸出するプロモーターの経営するジムの選手でもあります。仲介者の経営ジム以外のボクサーについては、準備期間など更に不利な状況だったのではないでしょうか。