生きてきたあかし

 ソポクレスに「コロノスのオイディプス」という作品がある。死を目前にした偉大な作家が書き上げた悲劇は、歿後、孫の手によって上演された。これはソポクレスの最高傑作「オイディプス王」の後日譚で、実父殺しに気付いたテーバイ王オイディプスは両目をえぐり国を追われるが、長い放浪の末、アテナイ郊外コロノスの森にたどり着いたところから、物語ははじまる。悲劇はオイディプスが得たアポロンの神託を中心にして繰り広げられる。その神託とは、彼が死ぬことになった土地に恵みがもたらされるというものだ。彼の二人の息子は対立し、戦争によって結着をつけるべく準備を進めている。それぞれの息子が、神託の力を自らのものとしようと、オイディプスに自分の方に味方して欲しいと頼みにくるのだ。そんな息子らを追い返し、オイディプスはコロノスの森で死ぬことで、アテナイに祝福をもたらす道を選ぶ。
 神々に運命を呪われたオイディプスは、父殺しが発覚した後、人々から忌み嫌われた存在となったわけだが、彼に用意された和解の手段とは死であった。死ぬことでオイディプスは人々から尊厳を取り戻したのだ。死の場面は直接的には描かれず、彼がどのように死んだのかは定かではない。ただ死を覚悟して自らの意志で森のなかに歩んでいったあと死が与えられたのであり、死を選び取ったのだといえよう。結局、オイディプスは生きているうちに不幸から解放されることはなかった。自らの死だけが困難の解決手段であり、死を期待されていた。困難な運命を課された者に最後まで救済は訪れず、死だけが希望として輝いている様は本当に悲劇だ。けれど、彼の死は決して敗北ではない。物事を解決する手段であり、栄光を得るための死。その死を受け取る覚悟があったなら、死を怖れることはない。
 それは死を美化している、実際は死ねばすべてが終わりになるのであり、死は避けるべきではないか。通常の道徳からはそのような批判があるだろう。確かに多くの人々にとって、死は何ももたらさない。しかし、困難にある者にとっては、現実を冷静に見れば見るほど、死しか不幸と和解する手段がない現実は存在しうるだろう。死より深刻な不幸は現にある。オイディプスは死後の栄光が用意されていただけまだ救われているほうで、死によって得られる尊厳すらなくとも、死に恋するしか現実をやり過ごせない過酷に見舞われた人が死を選んだとしても、いったい誰に批判の権利があるだろうか。生きていくことは難しい。一歩手前でなんとか踏み止まっている人であっても、ふとした切っ掛けで自殺することがある。昨日までは死に打ち勝つための祈りを持っていた。朝起きたら雨だった。なぜだか分からないが、もう奇蹟を待つことはできないと思った。死がただそこにあった。
 オイディプスの死が、よくある困難者の自殺と違うのは、彼が選ばれてあることだ。不幸にある者は、不幸に選ばれてあるのだとの選民意識を持つことが多いが、それはうぬぼれにすぎないのがほとんどである。だが、不幸に選ばれてある人は実際にいる。小林美代子もそのひとりだろう。自らの不幸について世界に晒すことで栄誉を得た。数少ない不幸の選民として、美代子もまた死の魅力について考えざるを得なかった。
 小林美代子は新人賞受賞の二年後、自ら死を選び取った。一九七三年九月二日付の新聞によると、一日午後三時ごろ、小林宅から異様な臭いがすると近所の人が警察に通報、署員が駆けつけドアをこじ開けて入ってみると、ワンピース姿で布団の上に仰向けになっている死体が発見された。新聞受けには先月十九日消印の手紙が入っていたことから、そのころに自殺したものと思われる。
 枕元には睡眠薬の空き瓶と遺書が残されていた。美代子は新人賞の受賞後、精神病院に入院していた経歴と、その小説の内容から、特異な経験を持った作家として一躍注目を浴び、新聞や週刊誌のインタビューはもとより、昼過ぎに放送されるテレビのワイドショーにも小学校時代の恩師とともに出演している。生涯独身で一人暮らしをしていた美代子のところには、受賞後、新聞に掲載された美代子の住所をたよりに、同病の者やその家族が、病気や生活の相談にひっきりなしに訪ねてきていた。取材への対応や、病気についての相談事に忙しい毎日が続き、受賞してからもいくつかの短編小説を書いていたようではあるが、生前に公となったのは、受賞作と受賞前『文芸首都』に発表していた作品を纏めた小説集『髪の花』を除けば、自伝の長編小説『繭となった女』一冊だけである。
 美代子の死が明らかになってから約一ヶ月後、十月七日発売の『群像』十一月号に遺稿「蝕まれた虹」が発表され、月末には新聞の文芸時評欄においていくつかの評が出た。新人賞選考会で美代子を強く推し、一九七一年の小説ベスト・スリーに、大岡昇平「レイテ戦記」、開高健「夏の闇」と並んで小林美代子の「髪の花」をあげた江藤淳は美代子の死をこう悼んだ。


 
いったい作品とは、文壇生活者の書くものであろうか、それとも人間が書くものであろうか。『夏目漱石』を書いて以来十八年間そう思いくらして来た私は、ためらうことなく小林氏の『髪の花』を「群像」新人賞に推した。そして、氏が受賞したことを心から喜ぶと同時に、この受賞に果たして氏が耐えられるかどうかを、ひそかに危ぶんでも来た。いま氏の遺稿に接して、私は自責と痛恨の念が胸を噛むのを、とどめることができない。
           
江藤淳「学芸」『毎日新聞』一九七三年十月二十九日
 


 新人賞を受賞する前、美代子は保高徳蔵が主宰する同人誌『文芸首都』で小説をいくつか発表していて、遺稿「蝕まれた虹」が掲載された『群像』十一月号には、夫と共に同人誌『文芸首都』の運営にあたった保高みさ子による追悼文が載っており、小林美代子の人となりが偲ばれている。彼女には間の抜けたところがあって、受賞の祝いに貰ったウイスキーを、仕事を頼みに来た編集者に、ビールのコップになみなみ注いでそれだけ出した話だとか、週刊誌の取材が午後三時まで続いたのでお腹が空いて困ったと言う美代子に、保高が「そんな時にはおそばでもとって、二人で一緒に食べればいいのに」と教えてあげると、美代子は、まるで素晴らしい答案でも見せられたように大喜びした話などが回想されている。中上健次も彼女のそういう欠落を愛したひとりであった。
 中上健次も小林美代子と同様に創作活動のはじまりは『文芸首都』で、美代子と同時期に『文芸首都』で文学修行し、その同人活動を通じて美代子とは交流があった。美代子の死に際しての追悼文で中上は次のように思い出を語る。



ぼくの家へくると言うので、国立の駅までむかえにいくと、顔よりもおおきい大きな帽子のようなかつらをかぶり、黒のエナメルの手さげをもって、上等のかっこうでやってきた。ぼくはそんな小林さんをむしょうに好きだった。
 
中上健次「方位」『日本読書新聞』一九七三年九月十七日
 


 「十九歳の地図」は一九七三年六月に『文藝』に発表された小説で、新聞配達店で住み込みとして働く十九歳の予備校生がいたずら電話をあちらこちらに掛けて沸き上がる鬱憤を抱えこむ話であり、主人公と同室の男にだまされ金を巻き上げられる老婆として「かさぶただらけのマリアさま」が登場する。このモデルとなったのが小林美代子で、作中には「うじ虫のように生きてそれをうりものにしてるのならさっさと首でもくくって死んでしまったらどうだよ」との表現もあった。もちろん中上に美代子を貶める意図はなく、小説をよく読めば美代子への逆説的な愛情表現であると分かるのだが、この小説を読んだ彼女は中上と喧嘩し、音信が途絶えたという。美代子は小学校の恩師への手紙でこの件について、「文学のことで口惜しいことをされ、お互い世間に名を知られているので泥仕合もできず、誰にもぶちまけようもなくて、(中略)その口惜しさを文学に生かすことで、相手に感謝しようと考え心を静めるべく努力しております」(小林澪子『歴訪の作家たち』)と綴っている。中上は前掲の追悼文で「作家小林美代子氏ではなく、小説を書く小林美代子さんということを考えると、つらくてしょうがない。小説など書かないほうがよかった」と彼女の死を嘆き、「髪の花」について「戦後の小説の中で数少い傑作であることはたしかだ。(中略)いまあらためて、諸文芸誌を読み、「髪の花」を読み比べてみると、月々出る幾多の小説など五年もたてばばかばかしくなるだろうと感じる。「髪の花」は、小林さんの体が腐乱するようには腐りはしない」と美代子の作品を讃えた。
 そんな中上も受賞後に唯一発表された長編小説『繭となった女』については追悼文中で、「ぼくにはいやな部分の多い小説だった。「関係」をこんなふうに書くもんじゃない、人を裁く資格などあるものか、と思った」と厳しい評価を下した。
『繭となった女』は一九七二年に出版された長編小説で、自身の生誕から群像新人文学賞を受賞するまでの半生が綴られた自伝的小説である。小説中では男との恋愛と堕胎が描かれる箇所があるが、美代子は複数のインタビューで、「私は一度も恋を経験していません」「私は女のよろこびを知らないできた。かつえるように恋を求めたときもあったが、いつも片思いに終って」などと答えており、作中の出来事との齟齬もある。けれども大部分は事実に沿っているものと思われる。『繭となった女』で書かれた内容を中心に小林美代子の人生を振り返ってみよう。
 一九一七年に岩手県釜石で生まれた。家は使用人が何人もいるほどの繁盛した茶舗であったが、七歳の時、店を切り盛りしていた母が癌を病む。これが転落の切っ掛けで、母の希望で母の故郷の福島県保原に一家は引っ越した。そこでも茶を売って生計を立てようとするが、寒村での商売は上手くいかず、以後一家は食う物にも困る生活が続く。そんな貧困から逃げ出すように、美代子は十二歳の時、尋常高等科を中退して上京する。上の兄弟がすでに東京に来ていたものの、学歴も伝手もない美代子は、子守、喫茶ガール、女給などの不安定な仕事を転々とする。けれど戦争が大きくなり軍需工場で働きだしたことが人生の転機となった。初めは女工の身分だったが、事務員に抜擢されたのを切っ掛けにして、終業後の夜、速記者養成の塾に通うことにする。二百人のうち卒業試験に合格したのはたった五人だったそうだが、難関を突破して速記者の資格を得た美代子は、一九四四年二十九歳で大日本鉱業の速記者募集の求人に応募した。この時の求人では学歴として高等女学校卒が求められていたので、尋常高等科中退の美代子は福島高女卒と学歴を偽った。「私たち階級からはこうでもしないかぎり、したい仕事に絶対つけない社会のしくみになっている。そんな壁はこちらから破って進むしかない」、そんな覚悟で採用試験に挑んだ。専門職として高給取りの速記者になった後は、東京大空襲で住んでいた貸間が全焼し九死に一生を得るものの、会社の寮に疎開し、戦後も同じ会社で働きつづけ、東京三鷹に家を買った。いっけん人生は順調に思えたが、頼れる人もない寂しさもあり、会社でも孤立しがちだった。影を落としていたのは身内のことで、一家は離散状態にあり、きょうだい二人が精神病院で死をむかえている。三十代の終わり頃からメニエール病を患うようになり数度入院、病気が原因で四十過ぎで会社を退職してしまう。生活費を稼ごうと、平屋の自宅を二階建てに改築し間貸しをする計画を立てた。ところが近所の家はみな平屋だったので、日照の問題から二階建てへの改築に対して、猛烈な抗議を受けてしまう。それでも美代子は工事を強行するが、改築完成後も近所との軋轢はつづき、持病のメニエール病でのめまいも相まって、精神的負担から美代子は精神を病んでしまった。この辺の経緯と発病時の病状は、短編小説「幻境」に詳しい。
「幻境」は、『文芸首都』一九六六年九月号に発表された処女作「精神病院」を加筆し改題の上、単行本『髪の花』に収録された小説で、美代子が入院中に自らが「正常」であることを証明するために書いたものである。主に描かれるのは病院での生活で、数回にわたる主人公と医師との会話が記述の中心となっており、「髪の花」に見られた告発の趣きはない。小説によると、発病前後の様子はこのようなものだ。二階建て改築工事に反対する近所の人たちから、私道に垣根をしてふさがれたり、留守の間に剝がされた板が玄関に立てかけてあったりする嫌がらせを受け、斜面に立つ家なので雨水が隣りの家に流れ込まないように、夜になると近所の人が垣根を超えて忍び込み庭の土を削ってゆく。嫌がらせはだんだんと過激になり、電流のようなものをベッドの側の壁から流されたり、間借人から鍵を預かった近所の人が交代で泊まり込んできて、上下三方の部屋から電流を流される。嫌がらせのため不眠と緊張の毎日が続き、ある日、家で寝ていると近所の人から覗かれているような気がして、「今のうちに殺してしまえ」と声が聞こえた。驚いて寝巻の上にオーバー二枚を重ね着して台所から飛び出し弟の家に向かう。道すがら狂人と思われているのではないかと心配になり、いったん家に帰って身なりを整え、再び弟を訪れた。弟家族は異変に気付き、精神病院へ入院する手筈を整えてくれ、入院生活が始まった。
 いったいどこまでが実際にあったことで、どこからが病気による妄想なのかはっきりしないのだが、持病のメニエール病と近所との軋轢で参ってしまい、精神を病んだことはよく分かる。美代子は結局、精神病院に五年間も入院することになってしまった。退院後は『文芸首都』の同人活動に積極的に取り組み、四篇の小説を発表する。主宰者保高徳蔵が病に伏し『文芸首都』は終刊。一九七〇年一月発行の終刊記念号に美代子は次のような文章を寄せている。



文芸首都は私に贅沢な遊びを楽しませてくれた。首都は私に、心の中を散歩する道を教えてくれ、その散歩の過程を書いたものを活字にしてくれた。(中略)そんな贅沢な集りも終ったけれど、首都によって得たものを、どのように開花させるか、それが私の今後の課題である。
                                         
小林美代子「贅沢」
 


 この後、小林美代子は「髪の花」を群像新人文学賞に応募し、実際に「開花」させたのだった。

        * * * *
 
 一九七三年四月六日、朝日新聞に一通の投書が掲載された。三十四歳の主婦は「保安処分に患者は団結せよ」という題で、当時議論されていた精神病者を予防的に拘禁する保安処分導入への反対と患者の団結を訴え、同病者から手紙をいただきたいとして投書の最後に連絡先の住所を載せた。これを見た小林美代子はさっそく手紙を出し、主婦は全国から集まった同志で「友の会」を結成する。『鉄格子の中から――精神医療はこれでよいのか――』は友の会が一九七四年に出版した冊子で、精神医療の問題点や保安処分にまつわる議論などがまとめられていて、そこに小林美代子についての章がある。主婦は一九七三年四月から八月までの五ヶ月間の美代子との交流を手紙や電話の内容とともに詳細に述べており、それによると美代子は友の会ができたばかりの頃、「恥を曝してやるのですからね」「負い目を自覚した上で」などと発言していて、彼女の病気への認識が窺われる。また八月五日に美代子は主婦の家に電話をかけるが、なぜか通話中に電話が切れてしまう。それを切っ掛けに美代子は盗聴と警察からの介入を心配しだした。八月九日には差出人が「山田友子」となっている手紙が主婦に届き、開封してみると中身は美代子からのもので、「精神科医が警察の命令によって私を入院させ、ロボトミーをされたらと思うと非常に恐ろしくなりました。(中略)私は警察が精神病院を動かしていると思うようになっております」と怯えた内容が書かれていた。八月十一日の手紙ではロボトミー手術についての恐怖を延々と述べ、手紙の最後には「精神科の薬を飲むと鋭い小説が書けないので、三日前から止めて、睡眠薬で眠っています。再発するかもしれませんが、(中略)精神科の薬を飲むとぼんやりして、書いてもしょうがないような小説にしかならないので、すべてをここで文学に賭けてみようと思っています」と薬も飲まずに執筆に取り組む様子が書かれていた。主婦のもとに最後に届いた美代子の手紙を引用しよう。
 


    やっぱり盗聴でしたね。盗聴されるような素晴らしいショッキングな話もないのですのにね!
    私に友の会から手を引けとでもいうのでしょうか? しばらく友の会の出席を休ませていただきますね。あんまりでしゃばりすぎ、かき廻しすぎ、しゃべり過ぎたようです。
    おとなしく小説ざんまいに過します。私の所にも、友の会の発展をいのる、力添えしてやって欲しいなど、きています。御健闘をかげながら御祈りします。
    なお○○氏の原稿の件かたづきましたのでどうぞ御心配なく。色々御心配をおかけいたしました。
    今何の薬も飲んでなく、気持も澄んで、よく仕事ができます。何の薬でも薬はあまりよくないですね。心臓は驚くほど丈夫で、血圧も低すぎるくらいということで(引用者注……美代子は高血圧の持病があった)、元気に仕事を続けていますので御安心下さいますように。あなた様も、友の会も、前途多難なところにさしかかっているようでございます。充分御身体に御留意の上、友の会の御活動見守らせていただきます。
    なお頭の方も大学病院で診ていただきましたが、入院も薬も必要なし、気楽に小説を書きなさいということで安心致しました。
    今日は出版社の人達と食べ、飲み歩きまわり、楽しく、盗聴のいまいましさは忘れました。
    私は小説の上で、精障者の立場を、人権問題を書いて行くことに致しましょう。
 48・8・16
                                                  小林美代子
 


 前掲の保高みさ子の追悼文によると、美代子は八月十八日の午前に友人に電話をしており、「昨日一日かかって保高さんやあなた達に遺書を書いたの。今日の三時に遠い旅に出ます。出たらもう帰らない。これが最後よ」と伝えていたそうなので、この言葉どおりに十八日に自殺したとすると、手紙は死の二日前に書かれたことになる。
 小林美代子の葬儀では、火葬場に親族三人、東京都精神障害者を守る家族会から四人、友の会四人、計十一人が駆けつけ、寂しく骨を上げたという。遺体発見時、枕元に置かれていた遺書は便箋にサインペンで走り書きしたもので、「笑ってください。死にます。私はほんとうのことを叫び通してきました。私の銀行預金五十万円は精神障害者友の会に寄付して下さい」と書かれていた。
(本郷保長)

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 渇望する魂――小林美代子について【1】
 渇望する魂――小林美代子について【3】