【SBS】第54回会合概要
1. 日時:2015年8月29日(土) 18時〜20時 
2. 場所:マイスペース新宿区役所横店2号室 
3.テーマ: 多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』を読む
 http://www.amazon.co.jp/dp/4006000197
4. FBイベントページ(当日参加者数9人)
https://www.facebook.com/events/503525506473985/
 


◆ 上記の通り、8月29日土曜日の夕刻にSBS第54回読書会が開かれました。選書された本は多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』です。ベンヤミンの用いる各種のターム、とりわけ、これまで様々な論者からも指摘されてきた〈アウラ〉という言葉のボヤンとした不明瞭さに、やはり多くの疑問が投げかけられました。そして議論は、今この本を読むなら、それらに関してもっと大胆な飛躍を伴った解釈、あるいはメディアごとの細部に分け入った話などをしなければ得るものは少ないだろう、という方向に収束して行ったのでした。

◆ 冒頭のレクチャーは前回に引き続き推薦者の荒木優太。動画は、会場で配布されたA3レジュメ(Google DriveのPDFファイルリンク)か、下記テクスト(内容は同じ)を参照しつつ御覧ください。


"オレたちのアウラ――多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』精読
(作成:荒木優太) 


問い一、最近アウラ感じてる?
 
 ―アウラとは何か?→「時間と空間とが独特に縺れ合ってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ある夏の午後、ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを目で追うこと――これが、その山脈なり枝なりのアウラを、呼吸することにほかならない」(べ、p.144)。「事物の権威、事物に伝えられている重み」、「ある雰囲気」(多、p.46)。
 ―point→「一回限り」の感覚。技術の介入によってアウラ喪失の危機、「複製技術時代の作品において滅びてゆくものは作品のアウラである」(ベ、p.141)。exある夏の風景⇒夏風景の写真。ある夏のコンサートライブ⇒ライブのCD&DVD。ある夏の風景描写の生原稿⇒「ある夏の風景」本出版。
 Q:アウラって概念、よく分からん。時間が不可逆的であり、人生が一回しか生じないなら、すべての現象(経験)は「一回限り」なはず。原理的にはすべての現象にアウラは宿りうる。なぜアウラが生じる現象と生じない現象があるのか? 作品は複製できても生は複製(反復)できない問題。

問い二、複製できないものって何?
 
 ―大複製時代→「ベンヤミンが複製時代というパラダイムをとりあげたことは、その後の複製技術の進展を考えると、軽い驚きを覚える。もちろんベンヤミンはエレクトロニクスや遺伝子の問題は知る由もなかったが、複製はついに生命にまで到達しようとしている」(多、p.37)
 ―point→コンテンツ総コピー時代(旧時代的観念である著作権や商業的営みとバッティング)。それでもなお、「これはコピーできない」と感じるものはなんなのか? 顔はコピーできるか? ガールフレンドはコピーできるか? 子供はコピーできるか?(「また産めばいいじゃん」で西田幾多郎激おこ問題)

問い三、アウラが根絶した世界ってどこ?
 
 ―なぜ複製か?→「ベンヤミンにとっては複製技術を考察するとは、たんにそっくり再現する技術を問題にするというより、制作と受容を同時に包み込んだ世界の全体を考察する水準を発見する」(多、p.35)、「従来の芸術への逆作用」(多、p.39)、「凋落の社会的諸条件を示すこと」(べ、p.143)
 ―アウラは受容に宿る→「アウラを感じうるかどうかは社会的な条件に依存するから、われわれが集団内で芸術に抱く信念という方が妥当である。ここではむしろわれわれが芸術文化に対して抱く一種の共同幻想として考えておこう」(多、p.46)
 ―point→アウラは芸術的対象でなく受容(知覚)の側に宿る。ex1、実物(アウラ有)⇒写真(アウラ無)⇒生写真(アウラ有)。ex2、セックス覗き(アウラ有)⇒AV(アウラ無)⇒テープの劣化したAV(アウラ有)。他の複製技術(ポスター、グラビア、JPEG)の発達によって回帰するアウラ。間-技術環境的偏差(相対的落差)によってアウラが生じる?

問い四、最近どこで映画観る? 
 
 ―写真論から映画論へ→「ベンヤミンは、映画という芸術を、最大限、積極的に捉えようとしていたのである。これまでの芸術が滅んでゆく、美しいものは失われ、人間性ももはや成り立たない――〔中略〕われわれはネガティヴなことばかり言ってないで、(当時もっとも新しかった)映画のなかにどんな可能性が見つかるか、試してみるべきだ」(多、p.102)
 ―point→映画俳優と演劇俳優の比較⇒観客前で演じる(アウラ有)/機械前で演じる(アウラ無)⇒が、編集(モンタージュ)によって可能になるアウラ(?)がある。「アウラが凋落するにともなって、巨大な遊戯空間が獲得される」(ベ、p.195)。
 Q:従来型アウラと遊戯空間の関係は? 遊戯空間にアウラが宿るか? ex初音ミクにはアウラは宿るか?(by遠藤薫『廃墟で歌う天使』) 遊戯空間のアウラは従来のそれとなにが違うのか? 「われわれが日常的に考える「アウラ」に近い感覚を、「ショック」という言葉で語っている」(『廃墟で歌う天使』、p.138)。ショックとはアウラの一種?
 ―pointt→いまや映画館こそアウラ生産装置(閉鎖された時空での集団的鑑賞)。イマココ性、ex『バケモノの子』で泣くやつ。映画館で映画を観ること/パソコンのニコニコ動画で映画を観ること/スマホのYouTubeアプリで映画を観ること、この違いは?

問い五、最近「精神集中」してる?
 
 ―整理→作品の制作の技術的環境から受容の技術的環境の問題へ。新しいタイプの受容の登場。
 ―触覚的受容→「触覚的な受容は、注目という方途よりも、むしろ慣れという方途を辿る。建築においては、慣れをつうじてのこの受容が、視覚的な受容をさえも大幅に規定してくる」(ベ、p.183)
 ―くつろいだ鑑賞→「ベンヤミンは、芸術を鑑賞する態度として「気散じ」とか「くつろぎ」という言葉をよく使う」(多、p.116)、「くつろぎと精神集中とは互いに対極」(ベ、p.182)。
 ―解説→「それは時間をかけての受容なのである。〔中略〕建築の経験、受容のしかたは、世界そのものを経験することに近接している。われわれは世界とか、都市とかを受容するしかたを、無意識のうちに日々、学んでいるのである」(多、p.123‐124)。「たとえばダダの一見、無茶苦茶な作品を、じっと眼をこらして見るなどということが考えられるだろうか? そんなことをしていると作品の方が笑い出してしまうだろう」(多、p.118)
 Q:ポストシネマ時代は前意識的な受容の全面化? exダラダラ見、ナガラ見(鈴木謙介「多孔化」)。ダラナガラ見が新芸術受容のデフォ? 「移り気な読者」問題(大澤聡『批評メディア論』)。「気ばらしは、わたしたちを楽しませ、知らず知らずのうちに死に至らせる」(パスカル『パンセ』)。