凡例1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録“ Imagination et Invention ” (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(67-73p)である。2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
3、種に従った本能的知覚でのイメージの独自の性格。社会的アスペクト
学習期間の事実は人間の振る舞いで隠れた役割を演じるため、動物行動学は人間の振る舞いよりも動物の振る舞いでの《解発因》をよりよく分析した。それぞれの種に支配された意味に従って形figurationの型は変化する。鳥にとっては明らかに、外被のかたちで、同種の変種間での交配を避けることを保証するため、視覚的刺激のグループ分けがしばしば問題となる(アヒルの翼の下にある旗状に並んだ綺麗な羽毛の場合、雄の取り巻きは羽毛のそのグループ分けを見せつける羽ばたきをする)。また鳴き声や、動きが、行動の刺激-鍵の役割を演じることもある。無数の種にとって、捕食者、獲物、パートナーは、内部-知覚的なイメージに対応している。ティンバーゲンは、本能的振る舞いにとって有意味なある種の挙動や形態を知覚する機能が、人間に存在すると想定した。だからこそ、両親には知覚した子供の特徴的形態がある(まるい顔、目立たない顎)。このイメージは本能的満足の欲求を埋めるための動物〔ペット〕という代用品のなかに見いだせる。つまり、子供のない女性が、動物を溺愛するとき、彼女は子供のイメージの性格をもったものを選択しているのだ。また、大人たちによって製造された人形は、子供の代用品である。映画産業の欲求のために選択された、最適化された子供(かつてのシャーリー・テンプル)は、本能的振る舞いの《解発因》であるイメージを具現している〔=受肉している〕。先の尖った長い嘴の鳥は、スズメやコマドリが母のように取り扱われるのとは違って、母の感情を喚起しない。映画産業が知覚的形態のグループ分けや凝結をときおり実現させることも注意していい(たとえば、一方では性的《解発因》に対応する性格、他方では子供の特色をもつ少女のままの女la femme-enfantのイメージ)。その凝結が可能なのは、決定的な対象ではなく特色のグループ分け、つまりたんなる形態である個々のイメージが、排中律principe du tiers excluをまったく立てないからだ。シャーリー・テンプルは、最適化された赤子の挙動のほか、ダンス、歌、成人男性のパートナーがいたことによって、性化されていた。ブリジッド・バルドーは、最適化された女性の挙動に対応していたが、彼女のいくつかの役は、子供でないとしても、少なくとも《お転婆》であった。最終的に、ある種の集団的事態は、守るべき子供であると同時に雄々しいヒーローでもあるという小さな兵士、即ち《兵隊さん》のような別のグループ分けを実現させたのだ。
時を経ても本能的振る舞いに対応した生物学的イメージは同一種にとって恒常的なものだろうか? その問いは、とりわけ人間という種にとって微妙なものである。キクラデス文化やミノス文明の《図式的な偶像》は、現代ヨーロッパ社会の標準と合致しない女性の歩き方を明らかにしている。有史以前の臀部の大きい立像はさらに驚くべきものだ。知覚のなかで介入するイメージは、それが芸術の形式や魔術的宗教的表象に介入するとき、進化に従順であるか、或いは様々な公式化formulationsを受け取るのにはかなり不確定であると想定されてきた。
ティンバーゲンは結局、具体的な知覚の状況のなかでしか本能的振る舞いの起動装置は作動しないと評する。とりわけ、具体的で完全な状況がもたらす形態の変化を通じて介入する振る舞いの調整がある。たとえばもし敵対者のヴィジョンから闘争が刺激されたとしても、反対に敵対者が地を這い、傷つき、血を流すのを見ると途端にブレーキがかけられる。流れる血液の知覚は攻撃性をとても強く抑制する。これは本能的なイメージに対応しているのだ(実際、動物のあいだの戦闘のなかには、完全に傷つく前でさえ、敵対者の攻撃性を抑制する降伏や闘いの放棄の態度があることは注意されていい)。ティンバーゲンは同時代の戦争が極めて凄惨なものになったのは、武力の増大からだけでなく、傷つき死んだ敵のイメージをもつことなしに、遠くから武器で砲撃するからだと評する。攻撃的振る舞い発揮の本能的ブレーキ――死体のイメージ――はもはや存在しないのに、同時的あるいは先行的な敵対者のイメージによって攻撃的振る舞いの刺激が発生することで、状況はぐらつくからだ。ときおり、戦場ジャーナリストや戦場カメラマンは抑制的イメージの捕獲者capteurの役割を演じる。朝鮮戦争の時、全世界の新聞は混沌とした土地の真ん中にたった一人、両親の死を戦場で泣いている、四歳か五歳の朝鮮人の子供の写真を掲載した。同じことは、隣にいたテロリストに殺されたデルフィネという名の少女のときにもフランスで生じた。
個々の個体の発達に応じて、一定の意味を伴って実在の知覚を可能にする、基本的な内部-知覚的イメージは次から次へと現れる。これを個体の《可能的意識》と名づけることができる。ここで問題なのは包括する知覚的ないし知的発達ではなく、状況の意味を知覚的に把握する能力だ。たとえば、まだ性的に覚醒していない子供は、動物の性的な誇示を戦いとして知覚するだろう。古典的戯曲の上演では、愛の感情に関する状況を悪いものだと知覚する。それら場面は子供にとって構造がなく、空虚なのだ。反対に、ル・シッドの冒頭部にある口論などは、被った不正のモチーフに向かい、競争の状況は子供と環境との関係に対応しているから、完璧に理解される。
可能的意識の観念は原初的モードに従った状況の知覚にこそ関わるものだが、しかし、それは集団的アスペクトを含んでいるのだから、動物行動学による一定のゲシュタルト化の観念から説明することは難しい。一定のグループにとって他の状況では意味をもたないにも拘らず、ある時代の決定づけられた状況のなかでは、ある状況の意味を把握できることができる。例えば、ロシア革命の時、農民は大地の所有権の変化を直接に把握したが、政治的権威が〈皇帝〉によってはもはや維持されないという事実は把握しなかった。可能的意識は、ある特徴を受け入れ、別の特徴を拒否することで、偶発的情報のセレクターのように作動する。神話の発生や小説の歪曲、噂の伝播において、可能的意識は最重要の役割を演じる。たとえば、ローマでのキリスト教では、幼い子供を人身御供にする通過儀礼的宗教が見られたが、その発想は遠い国々のいくつかの宗教の現実的な通過儀礼的崇拝の表象に対応しているのだ。ここでの可能的意識は異国的で未開的であるもの全てが混ざっている、《非-ローマ的》な意識だ。当然、偏見によって文化的内容に属す意識的表象が問題になれば、その知覚の仕方に生物学的なものは一切ないと言われる。しかしながら、集団的な第一次産業が問題とはいえ、その仕方は第一次的〔生物学的〕なものである。集団的条件(危険の感情、画一性の感覚での圧力)に従って知覚の仕方は変化し、社会心理的調整の基礎を構成する。異邦人や異常者の表象は事実、真の知覚である。「仲間socius」はパートナーや養育に関わる両親と同じように第一次でゲシュタルト化された仕方で、直接的に知覚されている。社会的現実の領域が学習期間のカテゴリーであるという理念は、本能に従う直接に生物学的なカテゴリーが自然発生的であろうことに反して、空論である。〔社会的現実の領域にも生物学的なカテゴリーがある。〕現象の面では、社会心理的状況にとって意味のある内部-知覚的なイメージがある。そのイメージは、両親ないし年下の者との関係や、危険の状況での最重要の適合を可能にするものに劣らず、自然発生的であり第一次的である。家族としてであれ見知らぬ者としてであれ、正面から見た人間の顔は、間違いなく子供が最初にゲシュタルト化した知覚の一つだ。捕食者や獲物の誘発性のように、親しさや余所余所しさの誘発性は知覚的把握のなかに含みこまれている。これは対応する反応を伴う文化的ステレオタイプ(クリシェ)の知覚的かつ第一次的な性格の重要性を、予見させる。〈人間〉とは「政治的動物zoon politikon」なのだ。
決定的かつ不変的な仕方で主張される以前、知覚の原初的カテゴリーを構成するイメージの存在は、より正確な研究に値していた。実際、本能的カテゴリーに従った刺激のグループ分けが一挙に性格づけられる可能性が数多くの種において、とりわけ個々の種の支配的な感覚域のなかに存在することはほとんど疑うべきところがない。たとえば、ヒメハヤには、そのグループ内の一個体が傷つくと水中に広がっていく血液中の物質がある。この物質はグループ全体に恐怖をもたらすのだ。様々な個体は水の中でその気配を察知すると、即座に逃走の反応をとる。これは、調教や学習期間の問題ではない。霊長類においては視覚的意味が支配的で、心理学者(特にゲシュタルト学派の学者)は警戒の信号の役割を演じたり、呼びかけの力を持ったりする視覚的構造を見出そうと努めた。幼いチンパンジーは金壷眼をした人形に怯える。これは《猿人恐怖症》という視覚的構造だろう。しかしこの解釈をグイローは批判し、人形が幼い猿を怯えさせるのはそれが自身の経験において新しいもの、思いがけないものだったからだと主張した。グイローに従えば、知覚の基礎として役立つ先天的な構造は、それが存在しているのならば選択性と明確さの点で同じような度合いに到達することはできないはずだ。実際、第一次的知覚を孕んだ一般性の度合い(つまり共可能的な形での潜在性の豊かさ)があることをどう言えばいいのか極めて難しいことだ。怯えや危険の第一次的知覚が現実にあるのか? それとも二つの第一次的カテゴリーだけが嫌悪や呼びかけのカテゴリーなのか? しかし新しさは嫌悪的なのか魅惑的なのか? 新しさは起こりうる捕食者の前だと、可能的危険として嫌悪的であるが、獲物やパートナーになりうるなんらかの対象の可能的な現前としては魅惑的でもあるため、新しさそれ自体で嫌悪的か魅惑的かどうか主張することはかなり難しいようにみえる。新しいものとは反応の可能性全てを内におさめるカテゴリーだ。反応の準備された運動化は興奮した警戒状態である。この状態は、情報獲得の最初の波を経て、逃走か接近かと、行動のシステムを働かせる方に向かうことができるだろう。けれども、この絶対的な第一次の状態は、逃走か接近という反応の二分法にとって情報の到来が余りに弱い場合にのみ存在する。不完全な感覚的適合をもつことは、子供の場合よくある。故にその応答は、警戒であり、好奇心だ。反応が方向づけられたいくつかの場合、有機体には直接有意味な刺激の構造が押し付けられているようにみえる。いつも檻の中で生活しているキジバトは蛇を目の前にすると、警戒や好奇心といった準備的反応なしに、〔即座に〕逃走の反応をとる。幼い猿は幽霊のイメージの対応する黒い布生地をまとった人間を眼の前にすると怯えた反応する。たとえば、逃走か接近かという態度の二分法的計画に従った自己二重化や、完遂-実行のアクティヴィティまでの構成のため、新しさの反応といった極めて一般的な諸段階を通じてあらゆる知覚が始まるのか、それとも、自動的な働きのなかでのように、一定の適切な反応を引き起こして、学習期間なしに選択的に受け取る、既に強く方向づけられた信号の受容を通じて一挙にある種の知覚がはじまるか。この条件の中では、述べることが難しい。おそらくは、刺激-鍵でステレオタイプ化された応答は前進的ではないために適合性と可塑性plasticitéを欠いているから、〔生物学的な〕種に従う様々な重要性と共に、また学習期間の導入に向かう様々な帰結と共に、二つの知覚的モード性が存在しているのだろう。
【訳註】
・ティンバーゲン――ニコラース・ティンバーゲン(Nikolaas Tinbergen, 1907- 1988)は、オランダ人の動物行動学者。動物の行動が環境刺激への単なる反応ではなく、より複雑な動物の内面の情動に起因すると考え、行動の生理的、現象的な側面だけでなく、進化的な側面の研究の重要性を強調した。・シャーリー・テンプル――アメリカ合衆国のハリウッド女優(1928-2014)。アメリカを象徴する1930年代のスター俳優、六歳で天才子役と呼ばれた。・ブリジッド・バルドー――「フランスのマリリン・モンロー」とも形容されるフランスの女優(1934-)。・デルフィネという名の少女――詳細不明。・ル・シッド――フランスの劇作家コルネイユの戯曲。主人公ロドリーグが愛と家門の名誉のあいだでゆらぎつつ、名誉を汚した恋人の父を決闘で倒すという筋。・政治的動物zoon politikon――アリストテレス『政治学』による人間の定義。・グイロー――詳細不明。