凡例

1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録 Imagination et Invention ” (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(65-67p)である。 
2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。
3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
 


2、対象同定における直接的予測としてのイメージ。イメージと概念

 環境との関連で位置を獲得しても完璧だろう情報しか期待できない第一次的知覚的タイプの振る舞いを、実験と観察を用いて、動物行動学者は明確に定義した。個体の行動のシステムに適用されるところのカテゴリーの一つに属すかのような対象の可能な本性についての真の作戦的推測というものについて話さなければならない。即ち、〔生物が〕働きかけを始め、積極的な態度で接近すること。たとえば、飼い慣らされたミツバチを狩るドロバチには、獲物へと飛び込み始める前に情報の獲得全体を集結させるのに必要な、感覚的総合の能力や距離を隔てて獲得された情報の統合能力が十分にあるわけではない。もし確実な攻撃のために情報を十分に結合させるのを待つにしても、機会そのものがない。ここでの振る舞いは、有機体と環境の関係を変化させる情報獲得と運動的反応の継起的な波でできているという意味で、知覚的-運動的である。その波によってミツバチに近づき先行するものの様々な意味を活用することをドロバチはできる。感覚的与件の波の一つひとつは、他の意味によって豊富になる情報の新しい波を受け取る一定の反応の《解発因releaser》(起動装置)だ。行動の最後で、もし感覚的総合が観察の原初的位置から可能だったとしたら、対象同定のために同じくらいの情報が収集されるが、最初の諸段階、とりわけ最初の一感覚的情報の不足は、たとえば十のうち九、誤りの大きな機会を残すために、その前進的な知覚的-運動的振る舞いは誤りを避けることができない。しかしながら、この振る舞いは、回避された誤りに応じて次第に拘束的になる誤りや試みの論理に従えば可能的であり多産的だ。なぜならば、最初の試みは相対的に少しのアクテヴィティーを拘束し、完璧に逆転可能であるからだ。可能な獲物に無駄に近づくこと、最小の警戒で自分の穴に無駄に身を隠すこと、これらは作戦の終わりで介入する仕上げの行動の違いで、また集結された知覚ないしは接近の振る舞いの継起的諸段階を経てからの対象の直接的接触で、それが出来上がると同じくらい早くに解体する振る舞いだ。
 
 ところで、前進的な知覚的-運動的な振る舞いにおいて、知覚-内部的イメージは最重要のものだ。仕上げのとき、知覚がアクテヴィティーの終端でしか与えられないように、先行する諸段階は明らかにイメージである知覚の下書きに基礎づけられる。イメージは同定された対象の把握よりもずっと豊かな潜在的性格を介した対象の予測である。ドロバチの接近を始動する飛行の対象は、ミツバチ、マルハナバチ、野生ミツバチ……である。全体的な類こそ追跡を始動する。その後では、他の意味の寄与は、応答の効果的態度が糸口を与え接近を構成することを許すために必要な最重要の両立可能性compatibilitéを前提とする、可能事の豊かなその予測を縮小させる。人間の場合での、広い両立可能性を前提にし一定の態度を導くそれらイメージの例を挙げることができる。見るのに先立って、怖しいなにか、脅迫的ななにかは、広い両立可能性を含み、逃げたり、防御したり、慎重に迂回された情報を獲得したりする態度を導く。なにかが通りすぎた印象、重要な出来事がやって来る印象、これはいっさい情報的正確さを含まないにも拘らず、あらゆる印象のなかでもっとも豊かなものだ。用心の高い水準を導く新しさへのこの関心は、次いで一定のカテゴリーに従って多様化していく。親しい人か敵対的な人かがやって来る、良いニュースか悪いニュース、責務の浮上……。継起的な波により、状況が純粋に心的なアクテヴィティーを開始するのに伴い、対象同定は閉じていく。事故をとりまく人だかり、暴動、逃げまどう人々の雑踏など、感覚的与件が新しくかつ予見できない仕方でやって来るところの状況に主体があるときは、人間でさえ、最初は原初的なやり方で知覚する。
 
 かくして、個体的対象よりも一般的であるかのように、潜在性の知覚的予測のかたちでイメージは現れる。イメージを概念の、また概念の基礎として考察すべきだろうか? イメージとは帰納的な経験の結果、つまりは経験に要約される「アポステリオリ」な構築物ではなく、生物を環境に挿入させる「アプリオリ」である、というところが概念と違う。けれども、実際には一度だけの経験(「刷り込み」)によって豊かになり明確になるイメージであるある種の概念の基礎のようには考えていい。実際、知覚の「アプリオリ」なそのカテゴリーは知覚の後に介入する自発的な連想や喚起の基礎の一つだ。たとえ動機づけmotivationが自己表現できる完璧に前-知覚的なイメージの動機づけよりも弱かったとしても、そのカテゴリーは長期的な予測のイメージを引き伸ばして環境に関係を挿入する。家畜の鳥による捕食者の知覚について動物行動学派の実験が示したように、類のイメージはゲシュタルト化〔=形態化〕されている。つまり、警戒の反応が介入するためには、おとりが《すぼまる首》という刺激を見せるだけでなく、移動する方向の前方に嘴が向かう必要があろう。その形態configurationに、形と運動の「アプリオリ」な結びつきがある。たとえばEumenis Semeleという蝶の雄の性的な追跡の反応のように、別の形態には、運動の《パターン》と色の「アプリオリ」な結びつきがある。周囲のものの振る舞いの特徴的な泳ぎを導く雄に対する雌のトゲウオの「アプリオリ」で知覚的なイメージである、体勢(胸を張る)、体形(膨れた腹)、色(赤ではなく灰色)のゲシュタルト化された組み合わせも引用できよう。次のシークエンスへの信号である性的な誇示のような振る舞いのなかでは、このゲシュタルト化された「アプリオリ」は大なり小なり複雑な連鎖、個々の形態において習慣的に組織化されている。けれども、重要なのは、行動のシークエンスを許すイメージの一つひとつの「アプリオリ」でゲシュタルト化された性格である。感覚的与件を受け入れるものこそ、その形態なのだ。それは反応の神経生理学的な要所を構成する。もしちょっとした刺激がイメージに対応する性格をもたないのなら、反応は生じない。イメージが概念でないのなら、それら安定的形態は、個体に差し向けられるだけでなく必要な性格を提示する種の代理人に向けられるときでさえ、選択的行動が効果的かつ一貫的であることを知覚に許すのである(1964~1965年の〈本能〉についての講義を見よ)。本能的な振る舞いにとって、その形態はつまり、学習期間に基礎づけられよく準備された振る舞いのための概念の類似物なのだ。


【訳註】

解発因releaser――英語でそのままリリーサーまたはレリーサとも呼ぶ。動物が社会行動をするとき、同じ仲間の特定の性質が、生れながらにしてある反応のもととなるような要因。たとえばある鳥の雛が、親鳥の黄色い嘴の下嘴にある赤い斑紋を見て口を開くような場合、この赤い斑紋が、この雛の餌をとる行動の解発因をなしている。
〈本能〉についての講義――原註に、Le cours sur L'Instinct a paru dans le tom ⅩⅧ(1964-1965)du Bulletin de Psychologie.(N. D. E.)。