凡例
1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録“ Imagination et Invention ” (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(57-62p)である。2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
C 純粋にアプリオリなイメージとしての直観、反省的認識の原理
1、プラトニズムにおける投影図式――直観の役割
アクチュアルな潜在性に由来する増幅的投影の直観は、反省的操作の基礎に役立つ。その操作は、その直観や初発力の継起的な多様化や生成における差異化を直観的に伴うための運動源の単一性に身を置く主体が行う。このような展望は、たとえ概念的構造の力を中継として用いるにしても、少なくとも部分的には、通過儀礼的ないしは神秘的である。〔反省的な〕哲学的思考の原理としての、アプリオリなイメージは、概念conceptではなく理念idéeである。そのイメージは理念以上に純粋に無条件的であり完璧なまでに唯一的でさえある。あるアスペクトでは多様である理念は、増幅的投影においては投影源ではない役割を演じる。理念の裏には、投影の第一の起源として、本質と存在の彼方にあらゆる投影の源が存在する。これは太陽とアナロジカルで、対象を照らし出す、感覚可能なものの世界にあって、太陽は対象の影を与えることで、対象を増幅させ多様化させるが、劣化させもする。
プラトニズムの学説において、多なるものや生成と比べて〈善〉の卓越や優位は本質的公準なしに理解することはできないだろう。〈善〉とは知性の源であり知的なものの世界における分有participationの源である。つまり知的な世界の太陽なのだ。それは原型的-理念idées-archétypesを照らし出す。存在は、知的なものの世界に通じ、知的なものから感覚的なものへと移るときにはデミウルゴス的である、本質の投影である。認識とはデミウルゴス的な投影の模倣に至る道を遡ることだ。洞窟の神話が重要なのは、「生成genésis」と「消滅phtora」の世界の影や中継に、即ち投影の最も多様で最も認識不能なイメージに由来しているからで、並外れた努めで振り返る者がモデルそのものと投影源を見つけることを可能にするからだ。感覚的なもののパラダイムから発することで、アナロジックに使用された転換のこの方法は、いまだに知的なものの世界における認識の道のりに適用できる。浄化と通過儀礼の継起的な段階を経て、〈善〉の玄関で弁証法のひとつの終わりに到着することができる。認識は感覚的に知覚可能な存在を与える継起的段階を通じてその投影を逆方向から登っていくのだ。
純粋な運動の原初的イメージを表現するかのような分有のプラトニズム的理論を検討すると、何よりもまず観想的理論の一例のように現れるために、逆説に陥る。しかしながら、コピーのコピー、中継の中継のように、大なり小なり遠ざかり、モデル〔=イデア〕を表象しかつ、第一の現実から遠ざかれば遠ざかるほど不明確になっていく様々なイメージを通じて起源的モデル(原型)が次第に劣化するという経験、これに由来する認識の理論を把握する必要がある。影の投影(奇術)において、影をもたらすモデルから遠ざかれば遠ざかるほど影は大きくなっていくが、比例する三角形の原理に従って、光源から投影が行われるからぼやけてもいく。古代人は一点性ponctualitéを得た光学システムを知らなかったのだろう。彼らは幾何学的な点のように取り扱うことのできるかなり小さな光源、拡大に関係なく鮮明にさせるものも知らなかったのだろう。モデルとコピーの関係は分有の基礎だ。この関係は、存在と生成の関係、〈一なるもの〉と多なるものとの関係、最終的には感覚的なものにおける存在と〔感覚不能な〕本質との関係に比較できる。モデルが統一性の単位と知的な本質の完成を握っているとき、感覚的なもの、不明確なもの、多なるものはコピーの側にある。発生と腐敗に従う完璧な知的本質から存在へ移行することは、デミウルゴス的コピーとして、劣化し遠ざかる投影とアナロジカルである。たとえば観客が、奇術師とスクリーンの間に留まることなしに影をもたらす壁に目を向け、影をもたらすシルエットを振り回す奇術師は光源と演壇の間にいるのならば、知的なものに向けて登っていく哲学的弁証法は、存在を投影するデミウルゴスを目撃できる。哲学的な知は、生成にあってコピーと諸存在の間には最早おらず、けれどもその単位での光線を発する源にも至近している、なされつつある投影、完成されつつあるデミウルゴスと共にある眼差しである。哲学的観想とはデミウルゴス的アクティヴィティへの分有ではなく、投影される光線の運動の直観である。観想はまるで〈善〉が言ったかのように本質と存在の彼方で精神を落ち着かせる。即ちもたらされた影(存在)の手前であり同じくモデル(本質)の手前にある源に落ち着かせるということだ。啓蒙思潮において、観想的な眼差しは存在を投影する光線の方向へ向かう。眼差しの主体は光線を発する源の統一性と一致する。
もっとも高度な哲学とはモデル(〈イデア〉)の認識ではなく、形態と諸存在の絶対的源と共にある哲学者と存在のモードとを一致させることだ。つまり、完全に無条件的な原理への遡行のなかで探された純粋状態の予測の直観こそ、完璧無比でもっとも根本的な、存在のどんなモードにも先立つアプリオリなのだ。これは運動ではなく、存在と多なるものへのあらゆる投影の直観である。
2、発出と転換
第二の道は予測の直観を利用することのなかで可能になる。つまり、どんなどんな実体hypostaseよりも優位である、〈一者〉に向かって遡るためにプロティノスが使った道だ。鍛錬(テクストを読むこと、会話)によって準備された観想は、内省と沈黙のなかでなされる。あたかも恍惚であるかのような観想を経て、精神は観たものを言葉や言説で表現する。プロティノスが比較するのは、ちょうど探求を経て幾何学者が観た観想だ。つまり、幾何学者は観ることを経て、解答のすがたを書き、線引きする。別言すれば、天啓的観想とは言説、説明、コミュニケーションの身振りの出発点なのだ。認識とは〈一者〉に由来する諸存在を組織する発出processionの把握を可能にする点を導く転換convertionである。この学説においてもなお、直観が認識を与える。なぜならば認識が実行されるのは、感覚的経験と世俗的存在のあらゆる広がりに比べ完璧な「アプリオリ」の状態において、絶対的予測を見出し、発出に従った世界把握ができる遡行の終わりでなされるからだ。
3、動くものの直観と創造的進化の認識
3、動くものの直観と創造的進化の認識
ベルクソンに従えば、動くものの純粋な直観は、便利で実用的な役割をもってはいるものの現実的なものをばらばらにし不動なものにしてしまう概念の障害に躓かず、深い本性において生命を把握することができる。論理的概念的思考は、量的かつ静的な秩序に従った「部分対部分partes extra partes」であるものの認識に対応している。自己そのものへのねじれた桁違いの努力をする哲学者は、自由であり統一性である深層の自己の質的かつ動的な連続性を直観で把握するため、言語の習慣と概念的思考の機械化された従属から離れることができる。この意味で、ベルクソンにおける二元論的な態度は、プラトンとプロティノスのそれをかなり反映している。けれども、すべての存在、すべての時間性は、直観と分有によって知られる唯一の源のために投げ返されているのではない。ベルクソンにおいてはもう、哲学者にその起源における統一性の観想に留まることを義務づける劣化は、分有と発出の等価物ではない。原初的噴出の統一性は物質を通じて多様化していく生の運動の連続性に保存されているからだ。つまり物質それ自体が解体する運動のようなものだ。動くものの直観は「アプリオリ」で創造的な身振りの純粋な予測で使い果たされることをもはや強制されない。エラン・ヴィタルは永続的な「アプリオリ」であり、存在を通じて源はあり続けるのだから、直観は源を離れても発達の中の進化に後続する流れを通じて大河と共にある。直観が創造的であるような進化を把握できるため、創造は起源に局所化されず、生成の諸段階を通じて留まり続ける。自動運動と閉じたものの諸アスペクトは、進化の歩みのなかで沈殿させるその唯一的運動〔エラン・ヴィタル、大河〕に従って配置される。たとえば、本能と閉じた社会は、大河の水の正面がその歩みに追いつこうとしている間にぐるぐる回ってる水のようなものだ。劣化がないのだから、起源は常に留まり、運動は起源から遠ざからず、その過去から決して切り離されない。このような学説に従えば、直観とは進化の創造的運動への分有である。〔プラトンなどと違って〕主体がエラン・ヴィタルの保管者であるがために認識は可能になる。外部に存在するものを主体において取り戻す。主体におけるそれは主体を通じて引き伸ばされた起源的エランと別物ではない。ずいぶん前から始まっていただろうユニークなフレーズ、挿入節のすべての句切りのように、持続しながらも常に同じものであるだろう。発達のどの段階であれ、運動は常に起動している。つまり動くものは起源自体の不変の予測を引き伸ばす永続的起源だといえる。同じく、イメージもまた、この場合、たんなるメタファーではない。直観はもはやたんなる主観性ではないのだ。分有の仕方を見つけた主体は、己の分有を伸ばして続けていく。進化し続け、予測する。テイヤール・ド・シャルダンは集合的なものの次元を創造する生成にこの分有の個体的ないし個人的な次元を付け加えた。というのも、個人の成熟の行き着く先は、文明化の或るアスペクトを反映した恣意的な制限のように彼には現れるからだ。
もし規範的理念に執着するなら時代によって様々な直観の哲学的学説が分かれる。プラトンの学説は増幅的投影がたんに多数化し存在させるだけの役割を担う固定的構造を提示する。プロティノスの学説は発出の原理で、〈一者〉の神秘的把握での恍惚へといざなう。哲学者を、定まった法、多数のイメージの都市の司法官にさせたかったプラトンがそうであったように、転換は必ずしも世俗的存在への下降を伴うとは限らない。反対に、ベルクソンやさらにはテイヤール・ド・シャルダンは直観を人間性を通じた生の生成での現実的な分有の出発点にする。しかしながら、「アプリオリ」な予測のイメージすべてのなかでの運動的内容の原初的性格は、原型の固定性にも拘らず、プラトンにおいて潜伏している。つまり哲学者とは、多くの理念の哲学的な測定術métrétiqueに従い、不確定の対関係dyadeと、「存在への生成génésis eis ousian」の、混合した認識でもあるということだ。同様に、「アプリオリ」のイメージの豊かなこの哲学的学説は、極めて自然に、古代世界の政治哲学の最高の学派のインスピレーションを与えるもの、改革者の大胆なモデルに成ることができた。哲学的思考の長い道筋――遠き十の道ten makran hodon――を経て、長期的予測のように世界に再挿入されるときにとりわけ、「アプリオリ」なイメージは豊かなものである。
【訳註】
・分有――プラトンの哲学において、感覚可能な現実の諸対象はイデア(理念)のコピーにすぎない。その主従関係を指す。・デミウルゴス――プラトン『ティマイオス』に登場する世界の創造主。イデアを下に現実世界を作り出した。元々は職人や工匠というような意味がある。・洞窟の神話――プラトンは『国家』のなかで善のイデアを太陽に喩えた。そして、人間は洞窟の奥に顔を向けて縛りつけられた囚人であり、人間たちは洞窟の壁に照らし出された影を実在であると勘違いする。けれども哲学者は、洞窟からの脱出を試み、強烈な太陽(善のイデア)を目の当たりにすることができる。・プロティノス――新プラトン主義を代表する哲学者。プラトンを受け継ぎつつ、万物は神に等しい一者から流出したものであり、忘我(エクスタシー)によって一者に帰ることができると説いた。プラトンのイデア説とキリスト教の三位一体とを橋渡しした。・発出――一者の流出を指す。・テイヤール・ド・シャルダン――フランスの古生物学者・地質学者、カトリック思想家(Teilhard de Chardin, 1881‐1955)。主著『現象としての人間』で、キリスト教的進化論を提唱する。