※ 両書影出典:Amazon
又吉直樹の『火花』(文藝春秋、2015)が芥川賞に値するかどうか、私は知らない。そして、きっと永遠に知ることはないだろう。読んでないし、これから読む気もないからだ。もはや誰もが忘れてしまっている水嶋ヒロ=齋藤智裕『KAGEROU』(ポプラ社、2010)についても同様だ。けれども、マスコミをにぎわす話題作に対して、おそらくは商業主義への批判も多分に含み込んだ不満や非難の反応、つまりは〈期待外れ〉の評をウェブ上で目の当たりにするたびに、今なお――或いは、今だからこそ?――「期待の地平」という概念の重要性を痛感するのである。
・文学は色眼鏡で読むもの
「期待の地平」(Erwartungshorizont, horizon of expectations)という概念は、文学研究ではハンス・ローベルト・ヤウスが『挑発としての文学史』(轡田収訳、岩波現代文庫、2001、原著1970)で提出したものとしてよく知られている。ヤウスは、文学テクストそのものというより、読者の解釈を規定する条件についての研究、すなわち受容理論(受容美学)に貢献した学者で、「期待の地平」もまた読者が文学を受容するプロセスから生じた概念だ。
ヤウスの主張は、簡単にいえば、文学とは色眼鏡で読むものである、ということに尽きる。又吉が芥川賞受賞と聞くとき、批判的な人々は、その評価のなかに〈お笑い芸人〉や〈テレビタレント〉といった文学的価値以外の要素が混入しているのではないか、とかんぐる。そして、その評価は不純なものだと感じる。けれども「期待の地平」論が教えるのは、凡ゆる文学はそもそも不純な仕方で、例外なく色眼鏡を通して評価されている、ということだ。純粋な評価など人間はしたことがない。
ヤウスは次のように述べている。
「文学作品は、新刊であっても、情報の真空の中に絶対的に新しいものとして現われるのではなく、あらかじめその公衆を、広告や、公然非公然の信号や、なじみの指標、あるいは暗黙の指示によって、きわめて確定した受容をする用意をさせている。その作品は、すでに読んだものの記憶を呼びさまし、読者に一定の情緒を起こさせ、すでにその始まりから「中間と終わり」への期待を作り出している」(p.39)
・様々な「期待」のつくり方
文学テクストは、白紙の状態で受け取ることはできない。たとえば、帯文。「○○の集大成」という文句が目に入れば、自然、その作家の過去の作品史を想起しながら読者は読書に臨むことになる。これは「新境地!」の謳い文句が準備する態度とは明らかに異なる。ミステリー小説の「あっ!と驚くラスト」なども、特有の「期待」をつくっている。
或いは、カバー。少し前に集英社が小畑健(『デス・ノート』の作者)や許斐剛(『テニスの王子様』の作者)など、『少年ジャンプ』の人気漫画家が描くキャラクターを、漱石や太宰など、近代文学の文庫のカバー絵にしたことがあった。それら表象は、当然、それぞれの作家の描く漫画のイメージを引きずる読みを促すだろう。
或いはまた、文学史の教科書や便覧。「名作」のみが登記された歴史記述は、読むものに聖典(カノン)としての文学観を覚え込ませ、ことあるごとに、その聖典の参照の下で新作を評価する態度をつくる。これは聖典の文脈に則っているから良いとか、則っていないから悪いとか、或いは、則っていないから逆に新しくて素晴らしい、とか。ポストモダン的文学の評価の多くは、カノン破壊的であれ、という「期待」に支えられているようにみえる。
その他、批評や広告や口コミなど、文学テクストの受容は先行するテクスト、端的にいえば多くの前情報によって予め規定されている。そして、前情報が形成する「期待」は、(反)商業主義的コード、(反)権威主義的コード、(反)教養主義的コード等々に貫かれている。おそらく私たちはテクストそのものを受け取ることができない。
・「期待の地平」と新しい情報環境
〈期待外れ〉の経験は、ある「期待の地平」に属すことで初めて成立する。そして、その地平はある業界のルールや共同体の性質に拘束された先入見を前提にしている(これはフィッシュの「解釈共同体」の議論に受け継がれていく)。
この問題意識の先駆性を認めつつ、しかし、「期待の地平」の議論は今日用に更新する必要性がある。SNSを中心とするウェブサービスに囲まれた情報環境において、マスコミや文壇・論壇など、強力な「期待」形成を先導してきたかにみえる組織体の企図は、常に相対化される、ということが白日の下に晒されるからだ。
大事なのは、白日の下に晒される、という点だ。相対化だけなら、昔から行われてきた。しかし、有象無象によるその細かな「期待」修正がリアルタイムで多方面から行われ、しかも、それがウェブ空間にビッグデータとして公に可視的に開かれたかたちで随時蓄積される状況は、他に思いつかない。
私見によれば、このような情報環境の進化は、「期待の地平」一般に大きな影響をもたらすようにみえる。つまり、〈新しさ〉に対する期待(幻想)の衰退である。
当然、この世のほとんどの創作物は〈無カラノ創造〉ではなく、先行するものの合成や分離、アレンジメントによって成り立っている。しかしながら、受容者が無知であれば、その創作物は完全に新しい創造物として経験することができる。玄人やインテリからすれば素人的な反応にすぎないが、経験としての〈新しさ〉は、彼自身にとってみれば固有の新鮮さをもつに違いない
しかし、今日の情報環境は、検索エンジンの予測検索や履歴に基づいたリコメンドなどもふくめて、ある創作物の来歴、その構成素をすべて解き明かしてしまう、と信憑させる。大事なのは、正確にすべて解き明かしてしまっているかどうか、またその解き明かしを受容者が一つひとつをきちんと吟味しているかどうかではなく、「信憑させる」ということだ。
全知の印象が先行すれば、実際のところはどうであれ、出会ったこともないような〈新しさ〉への期待は維持できなくなる。「あるものはある。あらぬものはあらぬ」(パルメニデス)。すべてが焼き直しにみえる。そして、誰もが通(ツウ)ぶれる世界が到来する。ここにこそ、ウェブ時代特有の「期待の地平」があるように思える。
・期待の空白と動機づけ
「期待の地平」にとって、〈新しさ〉への期待は、一見矛盾的な事態であるようにみえる。〈新しさ〉への期待とは、予見できないものへの期待であるからだ。漠然とした期待など、期待と呼べるだろうか? 呼べる。というよりも、むしろそれは地平の緊張を維持するために必須な空白であるように思える。
ところで、「期待の地平」は決してヤウス発案のタームではなかった。先行の使用者がいる。その一人は、ヤウスも名前を挙げている、社会学者のカール・マンハイムだ。マンハイムの『変革期における人間と社会』(1935)は、社会の大きな変革期において、旧原理と新原理とが共存(衝突)する端境期特有の現象を理論的に考察したものであるが、その道具立てで用いられたのが「期待の地平」であり、マンハイムはそこで予見できないものへの期待を語っている。
「人間はだれでも、可能的な事件を期待しながら生活している。この意味において、現在および将来の生活はすべて、期待の地平線によって取り囲まれている。〔中略〕しかし、そこではまた、予見できない多数の事実も考慮に入れられる。われわれが新しいことを知りたいと思って新聞を手にするとき、われわれの期待地平線の予期しうる部分に属していないという理由のゆえにこそ、われわれの興味を惹くような特定の事件が起こりうることを、最初から覚悟しているのである」(『マンハイム全集』第5巻、杉之原寿一訳、潮出版、1976、p.145‐146)
新聞に取り上げられる記事は、いわゆる〈社会問題〉がそうであるように、簡単にいくつかのタイプやパターンに分類できる。社説など、その新聞社のカラーを知っていれば読まなくても想像ができる。けれども、そこに〈新しさ〉がないかといえば、そうではなく、記事の選択と内容に宿るディテールやニュアンスは既知の「期待の地平」を突破して、「新しいこと」を与えてくれる。そして、もしその契機がないのならば、彼は新聞を手に取るという動機づけ(motivation)そのものを失ってしまうだろう。
「期待の地平」は、〈新しさ〉への期待、つまりは期待の空白と共に構成される。そして、その空白は、受容するかどうか、即ち〈期待通り/期待外れ〉の経験の機会そのものを提供する動機づけを生むのに必須の余白であるのだ。
・新しい航海術、人文系流体力学
〈新しさ〉への幻想を追い払う、情報環境のパルメニデス的世界が、「期待の地平」にとってどんなに危機的なものかが直観できるだろう。リアルタイムで無限に期待を供給する技術的環境の常設は、期待そのものを劣化させ、最終的には受容への動機づけを奪ってしまう。
新しい技術を呪っているのではない。技術を効果的に使いこなすことで、前時代よりもずっと魅力的な〈新しさ〉へのアクセス方法を体得するには、「期待の地平」を始めとする学問的道具をいまいちど考え直す必要があると言いたいのだ。たとえばそこに、私たちの生活に直接役立つ、人文系研究者の役割を「期待」できるのかもしれない。
アランは海には記憶がないと言った。どんな大時化で荒れようとも、海は一日も経てば、陸地のように痕跡を残さずに、いつもの海に戻るからだ。「嵐の過ぎ去った後の海は、相変わらずの、しかもつねに新しい海である」。だから、海を眺めていると、「すべてを新しく考え、すべてを新しくやり直したくなる」(『四季をめぐる51のプロポ』、神谷幹夫訳、岩波文庫、2002、p.40)。
アラン流の流体力学の教えがここにある。陸地や岩場や砂浜、ソリッドなものは、アト(跡=後)を残す。それは、〈新しさ〉を禁じ、現在を過去に従属させる。リキッドなものは、過去を刻むことができない。すべてが流れていく。インターネットの海とはソリッドの海である。履歴の海だ。いま、求められているのは、そんなネット海をモチベーティブに渡っていくための新しい航海術であり、人文系流体力学の構築である。