すし4

たしはカリフォルニア州のサンディエゴにいた。珍しく出張があり、同僚たちと出かけたのだった。夜は会食になり、同僚がホテル近くのすしレストランに予約を入れてくれた。予約した時間にあわせて、わたしたちはレストランに行った。テーブルに案内され、飲み物を注文する。テーブルの上には、いろいろな種類のすしの名前をプリントした書式が置いてあった。すしの名前の横に注文する数量を記入する仕組みだ。

て、どれとどれを注文しようか。実をいうと、すしネタに関するわたしの知識は子供並みだ。国外での暮らしも四半世紀になる。日本食へのこだわりはあまりなくて、いつも住んでいる土地のものを食べて暮らしている。だからすしを食べる機会もほとんどなく、すしネタで区別がつくのはイカ、タコ、ウニ、イクラ、玉子焼きくらいのもので、切り身の魚はみんな同じに見える。それでもあてずっぽうにウニ、玉子焼き、甘えび、ホタテなどを注文した。

入のすんだ書式をウェイターに渡す。しばらくすると、いろいろな種類の握りずしの載った大皿が運ばれてきた。その大皿とは別に、小ぶりの四角い皿が運ばれてきた。その上に甘えびのすしがふたつ載っていた。

すし2

えびというのがどういう食材だったか、注文した時点ではきちんとイメージできていなかった。運ばれてきたすしに載っていた甘えびの身は思っていたよりずっと大きくて厚く、りっぱな尻尾がついていた。透明感のある肉は見るからに新鮮そうだ。そして同じ皿の上に甘えびの頭、正確にいうと胸から上の部分が飾ってあった。とがった形の頭、そこから黒いビーズのような目がふたつ飛び出ている。陸上の生物にはあり得ない半透明の水のような身体、そして花火の光の軌跡を固定したみたいな細くて長い触角と足。ちょっと怖いけど前衛的な生け花のようで、なかなかきれいだ。

すし6
写真:"Drunken shrimp" from Wikipedia (デジタル加工、東間 嶺)
 
撃、という感情はいつも瞬間のものとして訪れる。わたしは目を固く閉じて、顔を下に向けた。同席の人たちは、わたしが誤って尋常ではない量のワサビを食べたのだと思ったそうだ。

れは味覚ではなく、視覚情報だった。皿に載った食材が、つまり甘えびの頭が、その触角と前足を激しく振り回した。予期しなかった光景から断末魔の苦しみを連想するのに、1/10秒かからなかったと思う。わたしは、これから食べようとしているものが何なのかを知った。

びはすでに料理として用意されていたが、頭の部分はまだ生きていて、これから死ぬところだったのだ。それは、わたしが注文したものに他ならなかった。すしの種類に疎いわたしは、甘えびというのはもうちょっと小さくて、頭のついていないエビの身が、さりげなくシャリに載って出てくるものだと想像していた。こんな生きものがいきなりテーブルの上に出てくるとは思わなかったのだ。

たしたちはいつも、かつて生きていたものを食べている。動物を食べるのを避けるために、菜食する人もいる。そうする気持ちも、なんとなくわかる。もう何年も前、ブラジルで精肉工場を見学する機会があった。それは「工場」だが、要するに牛を殺して食肉に加工するための施設である。対象が牛ではなく人間だったらとんでもない制度的大量殺戮設備だが、そうしないと牛肉を使った料理なんて食べられない。そんなプロセスにかかわりたくないと願うのは、決して不自然ではない。

だ、厳密に考えれば、肉食を避ければ「殺戮行為」と無縁でいられるわけじゃない。植物だって生きている。動物はダメで植物はOKというのは、人間の感情を満足させるだけで、殺さないという目的を達成することはできない。肉食動物は他の動物を食べ、草食動物は植物を食べる。それじゃ、植物は?彼らこそ穢れのない、清い命なのだろうか?植物だって、栄養素が必要だ。酸素だの、炭素だの、窒素だの。そういったさまざまな物質のなかで、かつて動物の、あるいは他の植物の、身体の一部でなかったものはあるのだろうか?そういった物質は、命を運びながら、さまざまな身体の中を通り抜けていくのではないか?もしそうなら、輪廻転生というのも、空想の産物とはいいきれない。

きているものを無理に死に至らしめるのはよくない。でも、「食べる」ことは切り離して考えたほうがいいのではないか?甘えびは死んでしまうが、その生命はわたしの中で続いていくのかもしれない。そう考えると、わたしの目の前で死んでゆくエビを見つめるという、燃えるような、身を捩るような数分は、甘えびを味わうための試練とすら思えた。身勝手なことだ。そしてそれ以上、頭が回らなかった。

んなに長い時間ではなかったのだと思う。最初のショックから回復し、顔を上げて目を開けた。同席の人々が、一体どうしたのかと私に尋ねた。

食の席だということを、わたしは忘れていなかった。座がしらけるようなことを言うわけにいかない。甘えびがかわいそうだ、なんて言えば、みんなすしを食べる気をなくすだろう。独りよがりで偽善的な発言は慎むべきだ。二十歳くらいの女性ならいざ知らず、半世紀も生きているわたしが「えびかわいそう」などと言ったら、頭の悪い女だという印象を与えるのが関の山だ。その程度の判断はついた。

「甘えびの頭が動いたんで、びっくりしちゃって」

とわたしは言った。同席の人々は納得し、談笑しながらすしを食べ続けた。わたしも大皿に載ったすしを食べた。そして、甘えびの頭を観察し続けた。活発だった触角や足の動きが、だんだん少なくなっていく。えび、ありがとう。おかげで自分が何を食べているのか、どうして生きているのか、わかった。

すし1

びの頭が動かなくなった頃、甘えびのすしを食べた。身は厚くて、さっきまで生きていたのだから当然だが、新鮮で心地よい歯応えがあった。味のほうはどういうふうに美味しいのかよくわからなかったが、ありがたいものをいただいたという実感があった。勧められて、えびの頭は味噌汁にしてもらった。どんとした重量感のある出汁の風味を味わった。半袖シャツを着ただけだったので少し寒かったのだが、味噌汁をいただいたら身体が温まった。

すし3

事が終わり外に出ると、すでに夜の空気が肌寒かった。ホテルに戻り自分の部屋に落ち着いた。サンディエゴのコンベンションセンターで開催されていたComic-Conが終ったばかりで、宿泊客が少ないタイミングだったのか、わたしに用意されたのは上層階の眺めのよい部屋だった。窓から外を見ると、海沿いに広がる小奇麗なショッピングセンターが見えた。その向こうは細長いサンディエゴ湾、そのさらに向こうにコロナド半島が見える。海岸線に沿って意匠を凝らした高層建築のホテルが並び、サンディエゴとコロナド半島を結ぶ背の高い橋が美しい弧を描いて伸びているのも見える。海軍基地から飛んでくるのか、この時間でもヘリコプターがパタパタと湾の上空でホバリングしている。まったく、おとぎの国の景色みたいだ。

しい一日だったので疲れていたが、適当にお腹がいっぱいになり落ち着いた気分だった。いつまでも景色を眺めていたい気がしたが、本当に疲れて動けなくなってしまう前にメールだけチェックしておこうと思った。うっかりすると忘れてしまいそうだが、サンディエゴには出張で来ているのだ。といっても職場の人間はほとんど全員ここに来ていて、さっきまで一緒に食事していたのだから、彼らからメールが入っているわけはないのだが。仕事メールのチェックがすむと、私用のメールをチェックした。返信が必要なメールが一通あった。落ち着いて考えて、誠実な返事を書かないといけない。

「返信」ボタンをクリックして、書き始めた。が、まったく書けない。気持ちは落ち着いてリラックスしているのだが、考えが全然まとまらないのだ。まるで度の合っていないメガネをかけて歩いているようだ。重要なこととそうでないものが区別できない。ものごとの因果関係も把握できない。一瞬のあいだ思考の焦点が合っても、それを言葉に固定する前にイメージが消え去ってしまい、もう思い出すことができなかった。でも、メールは今夜のうちに出したほうがいい。しょうがないので、言い訳のメールを書いた。
 
...too many things come together, and make my mind very distracted.  I feel calm, but also feel having no good focus on anything.  I may be tired.  I think, when I'm back to my home tomorrow, I may recover sharpness to write you.
 
んな文面のメール、もらった方だって困るだろうが、考えるのも面倒くさくてとりあえず出した。私の頭、どうしちゃったんだ?頭が働くなるほど食べたとは思えないし、アルコールを飲んだわけでもない。脳みそが溶けていくような気がしたが、溶けきる前に思った。

イノチだ。さっき食べたすしだ。

分前、あるいは数時間前まで生きていたようなものをたくさん食べたのだ。普段の食生活ではこんなことはありえない。身体が混乱するのも無理はない。わたしのひ弱な命は、すしネタの強烈な命に圧倒されてしまったのだろう。食事は楽しむためのものだ。いいことや悪いことを深く考えてたくさんルールを作るのは、わたしは好きじゃない。でも、命をいただく時には、節度を守るべきなのかもしれない。

れ切って身体が動かなくなるのも時間の問題と思えた。パソコンの電源を落とし、シャワーを浴び、いつものパジャマに着替えた。そしてまるで、薬物を盛られたかのように、眠りに落ちたのだった。
 
 (編集、構成、撮影およびデジタル現像、東間 嶺)