Nov. 11. 2015 "security guard" Futaba, Fukushima(撮影:東間嶺)
"えんがちょ"を蒸し返す
◆ 朝、半年ほどチェックしていなかった小田嶋隆の『ア・ピース・オブ・警句』 をまとめて読んでいたら、2月のある日の更新で、オダジマがまた、【原発のお話を蒸し返さねばならない。】と言っていた。Google Calendarの日付をみる。ああ、そういえば今日は11日で、震災から5年と三ヶ月を迎える日なのだった、と思う。
◆ 蒸し返すには、おあつらえ向きの日かもしれない。
正しいとか正しくないとか、良いとか悪いとか、論理的だとか感情的だとか、そういう真正面からの議論を展開する以前の段階で、われわれは、そもそも、異なった見解を持つ人間と対話を持つことそのものに気後れを感じるように育てられている。だから、ある臨界点を超えて論争的になってしまった問題に関しては、それについて自分がどういう考えを持っているのかとは別に、はじめからその問題に関与すること自体を避ける。原発は、そういうものになっている。
◆ まともな人は触ってはいけないもの、狂信者同士の咬み合わない罵り合いのようなもの、つまり『えんがちょ』としての原発論争という捉え方をオダジマは4年以上前からしていて、そのような認識は同連載の『レッテルとしてのフクシマ』において挑発的に表明されている。4年の時間が経過したのち、また『それ』を言い直さねばならなくなる、ということを当時のかれは予想していただろうか?
その話題が出ると、必ずギスギスしたやりとりになることは、既に何度も経験済みでよくわかっている。議論が平行線をたどることも知っている。事実の検証だったはずの話がいつしか人格攻撃の応酬に移行するであろうことも、議論が深まれば深まるほど党派的な思惑が先行した断定的なスローガンが連呼されるに決まっていることも承知している。で、時間が浪費され、何の結論も合意も得られない中で、互いの憎しみと軽蔑だけが増幅される結果に終わることもあらかじめ予測がついている。だとしたら、誰がいまさら原発の話なんか持ち出すだろう。
叫ぶ人たち
◆ 一週間ほど前、カンニング竹山の福島第一原発視察報告ツイートへ寄せられた反原発派からの激しい批判に対する反論のエントリを赤木智弘がBLOGOSにUPしていて、多くの肯定的な感想が寄せられているのを見かけた(引用:『カンニング竹山のツイートは、まっすぐに最も重要な事を伝えている』)
◆ 竹山の、福島第一原発の作業環境改善を喜ぶ報告と、それを評価する赤木のテクスト自体は、いずれも内容において収束作業の現状認識を深めるために妥当なものだったと思う。一部で言われる、「東電は来訪者を広報として利用しようとしている」との指摘もある程度は正しいだろうが、それとこれとはまた別の話だ。
◆ だが、ウェブ上で彼らに群がる人々(夥しい関連ツイートやコメント欄のコメント主)が発する言葉の大半は、批判や賞賛を問わず、そこに漲る攻撃的な負の感情という点において、オダジマの言う『えんがちょ』を強めるものでしかなかった。
◆ 故中島忠幸(カンニング)を持ちだしてまで竹山を誹謗する人々に関しては今さら何をか言わんやだが、逆に二人を英雄のように褒めそやす人々も、その言葉の実態は紋切りの題目(福島の人が…風評被害が…)で覆った醜悪な感情ーー「ざまあブサヨ反原発wwww」「放射脳うぜぇぇぇぇ」ーーを『敵』へと投げつけているに過ぎない。
原発関連の話題が避けられるもうひとつの理由として、反原発派の中の極端な一部の人々が金切り声を上げることとは別に、原発を推進しようとしている人々の極端な一部の人の言いざまが、あまりにも醜いことがある。こういう議論を見ていると、根気の無い人はもちろん、普通の人は関わろうとする気力を失う。で、結果として、強力な意思を持った人間だけが声を上げ続けることになり、議論は、ますます近寄りがたいものになる。
◆ 強力な意思を持った人間たちの叫びだけが響き渡り、外部者を遠ざける光景は3.11以前から原発をめぐる対立ではおなじみのものではあった。事故以降、そうした状況に変化は起きたが(さすがに原発が如何様なものか、知らない人間は消えた)、対立の構図自体は変わらず、ばかりか、さらに極端なものへと『進化(退化?)』した。
◆ オダジマが最初に『えんがちょ』へ言及した4年前の時点では、金切り声の暴力的凄まじさが人間の品性を崩し貶める姿(もう、いちいちを上げたりはしないが)ばかり目立ったが、時間の経過と事態の改善に伴って、いまはそれらのアンチとして怒鳴られる罵声のおぞましさが勝ってきているように見える。
◆ 【原発を推進しようとしている人々の極端な一部】だって?違う。声の主たちの殆どは、原発の有用性に関心などないし、国や電力会社を本当に信頼している訳でもない。かれらは、ただただ、「ざまあみろ」と勝ち誇りたいだけなのだ。根底には、震災以後、極限まで膨らんだ金切り声たち(とそれが象徴するもの)への不信と強い復讐心がある。『福島の復興』だの『安定供給』だのは、繰り返すが空虚な題目、敵にツバを吐きかけるためのひとつの口実に過ぎない。
◆ 十数年前、『核論』で、原発を受容する日本を戦後の異なる俯瞰図として描き直すという離れ業を実行した武田徹は、4月のブログで現在の原発をめぐる対立に【象徴の戦争】という語を使った。
◆ だが、現実に発生している出来事はそのように【おふらんすっぽい】ものではなく、もっと圧倒的に根腐れていている。それは論争ではない。最近の宮台真司がしきりに繰り返すところの『感情の劣化』を引き起こした愚者たちが、ただただ互いへの憎悪を叫びながら殴り合いを続ける、救い難い無惨の有様でしかない。
◆ とすれば、同ブログで武田が示す徹底したリアリズムという対処は、残念ながら別路としての力を持たないだろう。議論など、既に誰も行う気がなく、もはや原発が危険か安全かも、さして重要なことがらではない。憎悪の言葉を振り回す当事者たちは、ただただ、「ざまあみろ」と叫ぶ自分の声が辺りに響けば、それで満足するのである。
◆ 【原発を推進しようとしている人々の極端な一部】だって?違う。声の主たちの殆どは、原発の有用性に関心などないし、国や電力会社を本当に信頼している訳でもない。かれらは、ただただ、「ざまあみろ」と勝ち誇りたいだけなのだ。根底には、震災以後、極限まで膨らんだ金切り声たち(とそれが象徴するもの)への不信と強い復讐心がある。『福島の復興』だの『安定供給』だのは、繰り返すが空虚な題目、敵にツバを吐きかけるためのひとつの口実に過ぎない。
◆ 以前から表明している通り、親戚に避難者がいてさえ、わたしは今後も日本が一定数の原発を維持できるならそれが望ましいと考えているし、金切り声の人々の一部を心の底から軽蔑しているが、同時に「ざまあみろ」をエネルギーに言葉をドライブさせる人々の醜さからも、どこまでも遠ざかりたいと思っている。
【象徴の戦争】
◆ 十数年前、『核論』で、原発を受容する日本を戦後の異なる俯瞰図として描き直すという離れ業を実行した武田徹は、4月のブログで現在の原発をめぐる対立に【象徴の戦争】という語を使った。
◆ だが、現実に発生している出来事はそのように【おふらんすっぽい】ものではなく、もっと圧倒的に根腐れていている。それは論争ではない。最近の宮台真司がしきりに繰り返すところの『感情の劣化』を引き起こした愚者たちが、ただただ互いへの憎悪を叫びながら殴り合いを続ける、救い難い無惨の有様でしかない。
◆ とすれば、同ブログで武田が示す徹底したリアリズムという対処は、残念ながら別路としての力を持たないだろう。議論など、既に誰も行う気がなく、もはや原発が危険か安全かも、さして重要なことがらではない。憎悪の言葉を振り回す当事者たちは、ただただ、「ざまあみろ」と叫ぶ自分の声が辺りに響けば、それで満足するのである。
そうした不毛な「象徴の戦い」に与するのが嫌なら、象徴の論争の地平を離れて、たとえば原発に関しては予防原則の適正な幅がどの程度でありえるべきか、徹底してリアリズムで見る必要がある。それはリスクとベネフィットの議論を象徴ゲームの地平から現実の地平に引き下ろすことになるのだろう。
『川内原発をめぐって』(Toru Takeda 2016/04/23)
"うんざりにうんざりしながら、なお、うんざりし続けること"
◆ では、一体何が事態を好転させるというのか?わたしにも、そんなことは分からない。罵声と金切り声の人々をまず適切に意思決定の議論から排除しろ、と言いたくなる誘惑は強いが、民主制の国家にそれは許されないし、すべきでもない。ひとまず、一市民でしかないわたし/たちには、オダジマが自己暗示を試みるかのごとく呟く、下記のような振る舞いに倣うとこくらいしか、処する手段などない。
この話題は、気が重いからこそ、定期的に振り返って、くどくどと蒸し返さなければならない。そして、みんなしてうんざりしつつ、一から同じ議論をたどりなおして、ますますうんざりせねばならない。原子力発電所は、熱水を蒸し返すことでタービンを回している。私たちもそうせねばならない。
◆ 但し、本当のところ原発(核分裂熱発電)は【蒸し返す】のではなく、熱水を沸かし返し続けてタービンを回す。水に熱を与えるエネルギーは、熱源(核燃料)への制御機構でコントロールする。過熱を防ぎつつ沸騰を継続させるには、細心の注意が必要となる。
◆ わたしたちの理性と感情の沸騰も、同じだ。適切なマネジメントに失敗(『うんざり』にうんざりだ!)すれば、たちどころに臨界点を超えて制御不能に陥り、金切り声と罵声の人たちのステージへと堕ちてしまう。
"キレないこと。うんざりすること。期限の定めもなく、それを継続し続けること"
◆ 考えただけで、うんざりするだろうか。"でも、やるんだよ" 大げさに言えば、それが『福島』を体験した日本人の責任であり倫理なのだから。
Nov. 11. 2015 "security guard-2" Futaba, Fukushima(撮影:東間嶺)
(続く、かもしれない)