大変ご無沙汰しておりました。

2014年冬に大学へ提出したメモワール(マスター論文)の日本語バージョンを書いていきたいと思います。論題は下記のようなものです。

(邦訳) 『過去を造る―写真的なものについての考察』
(原題) "La fabrique du passé : réflexions sur le photographique"

"Fabrique" という言葉は工場あるいは小さな工房のことを示しますが、製造や拵えることといった意味もあります。しかし製造だとインダストリアルなニュアンスが出てしまいどうもしっくり来ない部分もあり、悩んだ末に動詞にしました。このような感じなので、日本語タイトルは別のものに変更されるかもしれませんが暫定的にこうしておきます。

内容については、そのまま翻訳というわけではなくブログ形式に合わせたり、加筆訂正したりする部分もありますが、大筋に変更はありません。
 
bra_18


 イントロダクションーー【写真的遺書】



結局のところ私が、私を写した写真を通して狙うもの(…)は「死」である。「死」がそうした「写真」のエイドス(本性)なのだ。それゆえ、写真をとられているとき、私ががまんできる唯一のもの、私が愛し、親しみを覚える唯一のものは、奇妙なことに、写真機の音だけである。私にとっては、「写真家」を代表する器官は、眼でなく(眼は私を恐怖させる)指である。つまり、カメラのシャッター音や看板をすべらせる金属音(…)と結びつくものである。私はそうした機械音にほとんど官能的な愛着を感ずる。「写真」に関するもののなかで、それらの音は、まさしく私の欲望が固執するもの ― それも唯一のものであり、その短い衝撃音によって、死をもたらす「ポーズ」の連続を断ち切るのである。私にとっては、「時」を刻む物音は悲しくない。私は鐘や大時計や懐中時計の音が好きだ ― ひるがえって考えてみれば、写真用具は、もとも高級家具や精密機械の技術から生まれてきたものである。写真機は、要するにものを見る時計だったのであり、おそらく私の心のなかには、はるか昔の人間が住んでいて、いまも写真機の音のなかに、生き生きとした木の音を聞き取っているのであろう。

(ロラン・バルト)
 


私は引き伸ばし機のタイマーの音が好きだ。暗室で聞こえる、感光紙に光を当て終わった時の音。それと、露出時間も好きだ。フィルムのネガがレンズによって拡大または縮小され、感光紙に照らされる時間の幅は数秒から数分にまで至る。

暗室には赤いセーフライトが取り付けられている。この光のお蔭で、写真用紙を感光しない程度の光量の下で見ることができる。露出時間の間、セーフライトを消す必要はないのだが、これも消してしまうと、もっといい。そうすることによって、今照らされている像以外には、この世に何も存在しないかのように見えるからだ。厳密にいえば、こうして自分が見ている風景をそれと全く同じように記録することは出来ないのだと思う。その時見えている風景は、ほとんどの場合誰とも共有することがない。だから見えない、見つけることのできない時間なのだ。

写真は、ある時間がもう戻ってこないことを、その存在そのものによって証明している。なぜならそれは時間と光の刻印、過去にあった出来事の痕跡だからだ。バルトが言うように、それは彼にとっての死なのかもしれない。しかしさらに言えば、写真は死についてそのものだ。

引き伸ばし機のタイマーはデジタルよりもつまみ式のアナログのほうが好きだ。アナログのタイマーは時間が終わるとパン!という音が出る。このむき出しの破裂音が聞こえると、時間の断絶について思う。実際聞いたことはないが、ギロチンが首を切り落とす音を思い浮かべる。その後、暗室は本当の真っ暗闇になり、残響と残像だけが、残る。

一枚の写真は、過去にあった出来事を写すだけでなく、ある時間、ある場所における存在を示すものでもある。再びバルトの言葉を借りれば、写真は「存在の証明」なのだ。ならば過去は、ある意味では証明によって造られる概念とも言える、のかもしれない。

次に続くチャプターは記憶や想像の断片、写真の生成過程を通した考察や写真史に関わるエピソードなどである。これらの要素が構成員となり、このメモワール全体を通して、ある存在、亡霊のような何か、そんなイメージを浮かび上がらせるようなものになればいいと思う。

(つづく)
 

引用文献:ロラン・バルト「明るい部屋―写真についての覚書」みすず書房、1985年、花輪光訳、P. 25-26