FullSizeRender (1)
画像:後ろから新津保建秀、安瀬英雄、藤崎了一の展覧会ポストカード(撮影:東間 嶺)



GROUP EXHIBITION
「記録と記憶|transcripts/memories」
■参加作家   
新津保建秀 | 田附勝×KYOTARO|吉楽洋平|安瀬英雄 |藤崎了一
 ■会場   
KANA KAWANISHI GALLERY
東京都港区南麻布3-9-11
 ■会期              
2015年 03月27日(金)〜 05月02日(土) 
12:00-19:00  |  日・月・祝祭日休廊


※ 上記展覧会データ引用:KANA KAWANISHI GALLERY 
http://www.kanakawanishi.com/#!news/c21kq


* 「記録と記憶|transcripts/memories」 *

◆ いつのまにか連休さえ終わってしまって5月はもう半ば、どころか6月めがけて突入という状態なのだけど、4月後半のある週末、この春オープンしたばかりのKANA KAWANISHI GALLERYへと出かけて、同ギャラリーのこけら落とし展である『「記録と記憶 | transcripts/memories」』を見た。

◆ 既に会期はとっくに終了(~5月2日)してしまっており、「今さらなに?なんなの?」という出遅れ感がけっこう半端ないぞと自分でもひしひし感じているが、とはいえ同展に出品されていた幾つかの作品から、制作上の示唆?というか気付き?(書いてて自分で恥ずかしいが)みたいなものを小さくないレベルで受けたこともあり、ごく短くそれらについてのメモ書きを残しておく。


 藤崎了一 『colored oil』

◆ 無数のクリスタルガラスを貼り付けたビッカビカの剥製作品で知られる美術家、名和晃平の運営するスタジオ『SANDWICH』のメンバーであり、初期から作品の技術責任者を務めていたという藤崎の『写真』は、冒頭に載せたDM最手前のものだ(詳細は上記ギャラリーのサイトで確認してほしい)。

◆ 【作家の身近にあるものを混ぜ合わせることで起きる色調の変化の様子を、記録した(引用:展覧会ステイトメント)】そのオールオーバーな画面は、デジタルtype Cによって艶やかな光沢を持ち、泡や波のような質感を伴った色彩のうねりは、容易に名和のビッカビカを連想させる(…のはわたしだけかもしれないが)。

◆ 『混ぜ合わせ』に選択される素材は、例えば醤油のように画面の色彩からするとおよそ想像し難いものも用いられ、スポイトなどで混交させたそれらをフラッシュ光と共に超マクロ接写することで、幻想的ともサイケデリックとも表せる独特の効果を得ているという。

◆ 物質の細部や意図的に起こした偶然性へ着目し、クローズアップによって抽象性を高めた表現を志向すること自体は、オーセンティックな絵画においても色々な写真においても特に目新しいものではない。「拡大しよう!」なんて誰でも一度は考えるので(当然、わたしも考えた)、面白いと呼べるものは多くない(当然、わたしも失敗した)。

◆ 『colored oil』は、少なくとも、そういう次元ではない、高級な(値段が、ではなく!)ことをやっている。テクノロジーによる寄与が画面へ与える影響という点で、メディウムとしての『写真』、というかデジタル画像は、いわゆる『絵画』よりまだ発展性、可能性があるのではないか。…と思わせるぐらいには。


 新津保建秀 『Archive_2011-2013』

◆ 新津保建秀の写真って、一般的には松井玲奈だったりももクロだったり早見あかりだったり多部未華子だったりという広告系の仕事が有名なのだろうけど、わたしにとって新津保は『ゲンロン』の企画で福島の避難区域やチェルノブイリを撮影していたカメラマンであり、写真家としては『\風景』という非常に刺激的な『写真集』を作った人物であり、なんというか、「いろいろ凄いっすね」というか超リスペクト!という感じであり、今回の展示も、そもそもはかれの映像作品(つまりこの『Archive_2011-2013』)を目当てにやってきたのだった。

◆ 『Archive_2011-2013』は、またもギャラリーのサイトからステイトメントを引くと、以下の如く要約できる作品だ。

2011年の震災直後から3年間に渡り雑誌『思想地図β』(ゲンロン社刊)との取材過程で撮影された、数千枚の画像データを4分間に圧縮した映像作品

◆ 会場に設置されたモニタには、新津保が撮影してきた震災をめぐる【数千枚の画像データ】が早回しとコマ送りの中間ぐらいの、どころどころ変化の加わる速さで次々と表示され、4分のループで再生が繰り返される(俗っぽく言えば、走馬灯のように)。

◆ 被災地の、原発の、津波の、地震の(あとゲンロンに関わる人々とか、そうじゃない人とか、色々の)、2011年3月以降に生きる日本人なら誰もが一度は見たことがある(かのような)光景/イメージの断片が、「あ」と思うまもなく眼前で切断され、宙吊りのまま、「あ」は、さらなる「あ」や「お」や「えーっ」と次々に展開し、気が付けば最初の「あ」にまた戻り、一ところへ落ち着く瞬間を与えない。

◆ 数千枚の画像の奔流は、観者がそれぞれに有するであろうカタストロフの記憶や思考を刺激し、再生させると共に、震災を記録した単体のスチルや映像からは発生し得ない新たなイメージ、ブツ切りにされた過去で作られた映像のコラージュとでもいうべきものを現前させている。

◆ 『\風景』発表後の個展である『\風景+』に併せて行われたトークショー、『「風景を記述する試み」』で展覧会キュレーターの四方幸子が、【以前から、写真をアーカイブとして見た時に新たに見えてくるものがあると新津保さんは言っていましたね。新津保さんというフィルターを通して、アーカイブの中から何かが見えてくる。】と語っていたが、『Archive_2011-2013』は、その名の通り、新津保自身のアーカイブから『記述』される何かであり、それは即ち3.11以後の『風景』と呼び得るものだろう。ストレートな『写真』の領域で高度な仕事をしながら、同時にメディウムとしての『写真』をメタレヴェルで捉え直す、極めて批評的な試みを続けてきた写真家だからこそ可能なものがそこには、ある。(発言引用:リンク先サイト参照)

◆ 上記『「風景を記述する試み」』において、新津保は【漢字をじっと見つめるとそれが何だかわからなくなるゲシュタルト崩壊のような作品が作れたらいいなと思っていて】と発言をしている(引用、同上)。ループ再生される大量のイメージ(コラージュ)は、それ自体、人為的にゲシュタルト崩壊(のようなもの)を起こそうとする試みとも言えるだろう。繰り返し見続けるうち、映し出される光景の意味も連続性も希薄化し、『震災』は『解体』される。

◆ 発災以後、メディアに繰り返し繰り返し繰り返し繰り返しの√何乗?というぐらい大量に流された悲劇の光景は、もちろん今でもわたしたちの感情へ強く訴える力を持っているし、これからも持ち続ける、のだけれども、表現者としてそこに何らかのリアクションを起こすのであれば、ただ悲劇を悲劇としてなぞったところで、力無き受難のステレオタイプにしかなり得ない。芸術の力(みたいなものが仮にあると仮に仮定して)とは、そうした地平とは異なる視線、位相から生まれ得るものだろう。


 安瀬英雄 『Stripe(50Hz)series』

◆ 先月末に買い替えたわたしのケータイというかスマートフォンというかスマホはiPhone6plusで、個人的にApple社の製品とは最小限の関わりあいで生きてゆきたいなと思っているところを、「あのカメラだけは欲しい」という妥協でAndroidから乗り換えたのだけど、さっそくカメラのアイサイトにゴミが入り込むという初期不良に見舞われ、新宿ビックロでレンズ交換(さすがに無料)をするはめになった。

◆ 付け加えておくと、わたしの使っている通信キャリアは中学生のころからもう20年くらいKDDI(当時はDDIセルラー・IDO)で、まだイエデンの子機みたいなアナクロい外観だった機種を母が保険屋からサービスでもらってきて以来ずっと変わっておらず、今後も特に変わる予定はない。

◆ ところで日本におけるiPhoneと言えばソフトバンクだと思うのだけど、数日前から一部界隈でメルトダウン的な勢いで話題になっている東電との業務提携は、iPhoneを使う人々のこれまた一部にKDDIへの転向を促す効果があるのだという。

◆ …というか、正確に言えばわたしがそんな類の流言飛語をネットで見かけただけなのだが、少なくともiPhoneを用いる安瀬英雄の『Stripe(50Hz)series』にとって、ソフトバンクかKDDIか、という選択に意味はあるだろう。

東電 ソフトバンク   Google 検索
キャプチャ画像出典:Google画像検索

◆ 『Stripe(50Hz)series』は、これまたギャラリーのステイトメントから引用すれば、下記のようなコンセプトが表明された作品だ。


副題「50Hz」と呼ばれる作品群として、蛍光灯の光にデジタルカメラを向けたときに縦縞のストライプパターンが生じるフリッカーという現象を意図的に撮りためたものです。


◆ 副題の『50Hz』とは、静岡県の富士川から新潟県の糸魚川周辺を境に東側の日本をカバーする商用電源の周波数帯(西側は60Hz)を意味し、それはすなわち、東京電力、北海道電力、東北電力が送電している地域でもある。『Stripe(50Hz)series』は東電管区に居住する安瀬によって2014年4月4日に開始された、【「東京電力の作り出す光」という端的な視点のみで淡々と切り取られ続けている「光の記録」(引用同上)】なのだという。

◆ フリッカーは写真を撮らない人にとってあまり馴染みがない言葉だと思うが、要するに蛍光灯や液晶ディスプレイに生じる明滅現象とそれが及ぼす効果を総称したものだ(詳しくはwikiでも参照して下さい)。室内スポーツを撮影するカメラマン等にとっては鬼門の現象で、フリッカーによって画像へ輝度ムラが出ると、どんな良い瞬間も商品としてはNGカット扱いになってしまう(キヤノンが昨年に発売したEOS 7D MarkIIは、シャッター制御によるフリッカーレス機能を一つのウリにしている)。

◆ 安瀬の作品は、それをミニマルな光のイリュージョンとして対象化したものだとも言える。

FullSizeRender
画像:東間 嶺 『copycat “Hideo Anze, Stripe(50Hz)series”』

◆  最初にギャラリーで画面を見たとき、フリッカーがこれほど明瞭に美しく捉えられるものなのかと思ったのだけれど、オーナーの河西氏に作家がiPhoneで撮影していると伺ったこともあり、試しに自分でもやってみたら、「あらま」というか「なるほどー」という具合の画像を得ることができた。上記図はその結果である(copycatの表記は、ちょっとした冗談だ)

◆ フリッカーのwikiには、【液晶ディスプレイのフリッカー】項に、【肉眼で感知できないレベルのフリッカーは、携帯のカメラ越しに見る、ディスプレイの前に扇風機を設置するなどすると干渉縞として確認できる】と記してあるが、都内某所でiPhoneが捉えたノートブックの液晶は、確かに極めて明瞭なストライプを生じさせた。


  meta スマートオブジェクト-1         IMG_0036
画像:上記 『copycat “Hideo Anze, Stripe(50Hz)series”』のExifと、含まれるGPSデータから読み込んだGoogle Maps.  メタデータ取得にはNEO-SHOKER.COMの「Exift」を使用。


◆ これだけでも『Stripe(50Hz)series』は興味深い試みなのだが、さらに安瀬は作品にExifデータ(※上画像参照)や撮影日の時事ニュースを添付することでもって完成形とし、【東京電力の作り出す光】の構造をさらに具象化する。

◆ 機材、露出等の撮影条件、位置情報など画像を構成するメタデータ(Exif)や撮影時に世界を巡ったニュースは、電力によって明滅する光を捉えた確固たる記録であると同時に、作家自身の生きた瞬間の記録でもある。先ほど、ハナシのマクラ(←長いよ!)にもってきた、「iPhoneのキャリアがソフトバンクか否か問題」は、そうした点に影響を及ぼすだろう。【「東京電力の作り出す光」】にまつわる関係性の一つとして。

◆ 昨年7月にNYで逝去した河原温ではなくOn Kawaraは、"Today" Seriesと共に、飽くことなくいくつかの言葉を残し続けた。『I READ』、『I MET』、『I WENT』、『I GOT UP』、『I AM STILL ALIVE』。

◆ 比較してみれば、今も下記画像のように日々Twitterで『Stripe(50Hz)series』を投稿し続ける安瀬の行為は、さしずめ『I SHOOT』というところだろうか。アカウントのプロフィールに【I,Red,BuleBlack,YellowGreen,OrangeWhite」】と明記するかれに河原の影を伺うのは難しくない(と、わたしは勝手に思っている)。どこまで更新が続く/られるのかも含めて、注視したい。




※後期1:メモ書きと断ったわりには長くなってしまったが、個人的に現在のテクノロジー環境下で、河原の"Today" Seriesのようなものを、あれほど審美性を排除しないかたちでどう展開して行けるのかに強い関心があるため、安瀬の『Stripe(50Hz)series』がもっとも印象に残ることとなった。

※後期2:そして、新津保、藤崎の作品も含めて、『写真』すなわち、「真を写すもの」という日本語訳から生まれた過剰な限定性(この辺りはホンマタカシなども折にふれて言及している)へどう批評的なアプローチをするか、という部分の実践が、メディウムとしての『写真』に新たな美的可能性を開くのだと、強く感じさせられた。