(↑「小室直樹 なんとも型破りな天才学者」、『週刊大衆』、1983・3・28)
小室直樹(1932‐2010)。社会科学者。経済学、心理学、社会学、数学など専門分化した諸学をマスターし、社会科学の統合的な理論構築を目指した。アカデミズム時代に、パーソンズの「構造‐機能分析」をより合理的な仕方でモデル化した。また、ソ連の崩壊を科学的に予言したことで注目を浴びた。主著は『危機の構造』(ダイヤモンド社、1976)、『ソビエト帝国の崩壊』(光文社、1980)。その他多数。
◎小室直樹略年譜1932年 9月9日、東京に生まれる。1945年 会津中学校に入学。1951年 京都大学理学部数学科に入学。授業料は免除された。育英会の奨学金とアルバイトとで生活。1955年 京都大学卒業。大阪大学大学院経済学研究科に入学。指導教官は市村真一。1959年 第二回フルブライト留学生としてアメリカへ渡る。1960年 マサチューセッツ工科大学大学院とハーバード大学大学院で、サミュエルソン(経済学)、スキナー(心理学)、パーソンズ(社会学)などの各分野の一流の学者から教えを請う。1962年 夏、アメリカから帰国。志望を経済学から政治学・社会学に変更したため、市村から破門される。1963年 東京大学大学院法学政治学研究科博士課程に入学。指導教官は丸山眞男、続いて京極純一に交代する。1966年 富永健一の紹介で「社会動学の一般理論構築の試み」を『思想』に連載開始。1968年 「社会科学における行動理論の展開」を『思想』に連載開始。70年に第11回城戸浩太郎章を受賞。1969年 「機能分析の理論と方法」を『社会学評論』(7月)に寄稿。1972年 川島武宜の紹介で『法社会学講座』(岩波書店)の執筆者に迎えられる。以前から行われていた自主ゼミが東京大学文学部社会学研究室に移設、参加資格を問わない「小室ゼミナール」。1974年 東京大学大学院政治学研究科で博士号取得。博士論文は「衆議院選挙区の特性分析」。1975年 小学校の夜警、大学講師、家庭教師、東京都の委託研究をやりながら、研究生活を続ける。年収は100万程度。1976年 処女著作『危機の構造』(ダイヤモンド社)を刊行。以降、狭義のアカデミズムからジャーナリズムの世界に活動のフィールドを移す。1980年 『ソビエト帝国の崩壊』(光文社)を刊行、ソ連崩壊を予言し大ベストセラーになる。『アメリカの逆襲』(光文社)を刊行。1981年 『新戦争論』(光文社)、山本七平との共著『日本教の社会学』(講談社)、『超常識の方法』(祥伝社)を刊行。1983年 田中角栄擁護論を展開。1985年 『三島由紀夫が復活する』(毎日コミュニケーションズ)、『奇跡の今上天皇』(PHP研究所)、『韓国の悲劇』(光文社)を刊行。1989年 淑子と結婚。結婚後、淑子がマネージャーとして小室の仕事に関与するようになる。『消費税の呪い』(光文社)を刊行。1996年 『小室直樹の中国原論』(徳間書店)を刊行、以降、より啓蒙的な「~原論」と題する著作のシリーズが刊行される。『日本国民に告ぐ』(クレスト社)を刊行。2001年 『痛快! 憲法学』(集英社インターナショナル)、『数学嫌いな人のための数学』(東洋経済新報社)を刊行。2006年 弟子の橋爪大三郎の推薦で東京工業大学文明センターの特任教授に就任。2010年 9月4日、心不全によって死去。享年、77歳。
・学校の外の大先生
橋爪大三郎、大澤真幸、副島隆彦、宮台真司など、ユニークでアクの強い学者が集った青い装丁の一書がここにある。橋爪編『小室直樹の世界――社会科学の復興をめざして』(ミネルヴァ書房、2013、以下頁数のみ略記)。彼らはいずれも、和洋文理問わず諸学に追暁した在野の天才の薫陶をその私塾「小室ゼミ」で受けた小室直樹の弟子筋である。
(↑『小室直樹の世界』に収録されてもいる、「小室直樹博士記念シンポジウム」(2011年3月6日、於東京工業大学大講堂)の映像の一部)
(↑『小室直樹の世界』に収録されてもいる、「小室直樹博士記念シンポジウム」(2011年3月6日、於東京工業大学大講堂)の映像の一部)
小室は東大の院生だった1960年代の半ばから、後進の求めに応じて自主ゼミを開いていた。それが習慣化し、幾度か場所を変えながらも、長期間続く私塾として成長していった。
大学教授相手の激烈な毒舌や、生徒への体罰によって死者を出した戸塚ヨットスクール事件の戸塚宏校長を擁護したときの「教育とはそもそも殺し合いなんだ」(「小室直樹センセイ“戸塚ヨットスクール賛歌”の激烈」、『週刊大衆』、1989・9・12、34p)といった発言の過激さとは異なり、褒めることを基調とする教育を実践していた小室の下には多くの学生が集った。次第に参加する学生らが、告知ポスター、名簿、ニュースレターなどの作成を担い、学生主体で運営されていったようだ。
ゼミの中身は基本的に受講者の希望と必要に合わせて、理論経済学、数学、法社会学など分野を問わず小室が伝授していく形式をとっており、「誰がどんな意見を持っていようと、まったく気にせず、公平に扱った。〔中略〕小室ゼミは開かれた自由な、純粋に学問的な研鑽の場という雰囲気があふれていた」という(橋爪大三郎、18p)。朝の九時から始まり夜の九時まで十二時間、ノンストップで講義する(「フォト人物伝 小室直樹」、『知識』、1985・11)。
ある日の小室を、宮台真司は次のように回想している。
「私が覚えているのは、ある日、小室先生が泥酔してお越しになってジェファーソンの独立宣言を英語で暗唱された後、玄関から出て柵から下に立小便を垂れたこと。柵の下は中庭で駐車場になっていたので、車の上に小便が降り注ぎました。橋爪先生が「こんな小室先生は嫌いだ」とおっしゃって、すたすたとお帰りになったと記憶しております」(122p)
……さすが、小室直樹である。
ともかくも、大学に就職できず「ルンペン学者」として在野で勉学に勤しみながらも、上記の弟子に限定されない数多くの学生を私塾のかたちで育ててきた小室は、マス・メディアでの活躍も含めて、学校の外の先生と呼ぶのにふさわしい、教育的資質を発揮していた。
もちろん、若手が自然に集まってくるその求心力は、建前にすぎない高邁な教育理念などではなく、その並外れた知識量と純粋な学的探究心に由来していただろう。先生になるのに資格など要らない。小室を語る弟子たちの声に耳を傾けていると、「小室ゼミ」は純粋に学的な共同体を形成していたようにみえる。
諸学に通じた天才にして、偉大な教育者でもあった小室の年譜はどの頁をめくっても波乱万丈で超弩級のエピソードに満ち溢れている。小室に強く影響された者の一人、村上篤直作成「小室直樹文献目録」を参考に、副島隆彦がいうところの「小室百学」(254p)形成史をスケッチしよう。
・目指せ会津の湯川秀樹
小室の神童エピソードは少し探すだけでゴロゴロ転がっている。中学生の頃の愛読書は高木貞治の『解析概論』だったり、既に微積分を理解していたりと、なかなかの逸話の持ち主である。また、東京に生まれながらも幼い頃に父を亡くしたことで会津の地で育てられた彼は野口英世の再来とも呼ばれていたようだ。
「湯川〔秀樹〕さんがノーベル賞もらって、野口英世の名声が少し落ちた。会津人としてはそれが面白くないんですよ。で、高校の先生がいうことには、『お前京大で理論物理をやって、ノーベル賞を取ってこい』」(「「博士号を持つ夜警サン」が書いた懸賞論文」、『週刊文春』、1975・3・5、155p)
で、実際に京都大学に入ってしまうのだから素晴らしい。このように、「百学」に達する小室の学問道は最初、数学から始まった。京都大学では理学部数学科に入学する。社会学者や評論家としての印象が先行すると、一見文系の人のように解釈してしまうが、そうではない。
だからこそ小室はのちに、『数学嫌いな人のための数学――数学原論』(東洋経済新報社、2001)のような本も書き、数学教育の重要性を訴えることになる。
なぜ、数学なのか? 本人曰く、「敗戦が悔しくて、原爆以上の兵器を作ってアメリカに攻めていってやれと思った。で、物理学をやるために数学を志したんです」(「データバンクにっぽん人 第113回 小室直樹(48歳=社会科学者)」、『週刊現代』、1980・10・2、64p)。昭和一桁年代生まれ、少年期に刻まれた敗戦の経験をいかに次世代に受け継ぐのか、これが小室の学問の根本的な動機づけとなっている。
・数学から経済学へ
しかし世の中予定通りには進まないものだ。京大の二回生のとき、ヒックスの『価格と資本』を読んで感動し、小室は数学、物理学から経済学に転向した。
「そう簡単に原爆を作って戦争などできるものじゃないとわかって、むしろ、社会現象を理解するために、社会科学を勉強しようと思った。そのために一番重要なのは経済学だと思ったのに、講義の内容がまったくないね。マル経といわず、近経といわず、おれだったら三日でやれることを一年がかりでやってる。あれは講演会みたいなもんでしょ」(「データバンクにっぽん人 第113回 小室直樹(48歳=社会科学者)」、64p)
しかし、そんな小室の溢れんばかりの情熱を受け止めるに足る師が二人いた。一人は、経済学の市村真一(1925‐)であり、彼はヒックスの本の日本語版序文を書いていた。この文章を頼りに小室は市村の私宅を勝手に訪ね、見事、弟子入りを果たした。
京大卒業後はさらに本格的に経済学を学ぶため、市村のいる大阪大学大学院に入学する。そこで森嶋通夫(みちお、1923‐2004)や高田保馬(やすま、1883‐1972)など、一流の経済学者にしごかれるのだが、もう一人の師というのが、市村の推薦でアメリカ留学した先に待っていたマサチューセッツ工科大学のポール・サミュエルソン(Paul Anthony Samuelson, 1915‐2009)である。
29歳の若さでハーバード大学の教授に就任し、難解で知られるケインズを合理的かつ平易に読み解いたことで知られるこの大学者に師事することで、小室は最新の理論経済学を学ぶことができた。初期ハーバードに関して、サミュエルソンは小室に「丸太の向こう側に先生を坐らせ、こっちの端に私を坐らせれば、それが最大の大学である」(『日本国憲法の問題点』、集英社インターナショナル、2002、200p)と語ったそうだ。小室ゼミを予感させるものがある。
・各分野の超一流学者に弟子入り
市村に弟子入りし、サミュエルソンに弟子入りし……と、もうお分かりのように、小室の勉強法の極意は、個々の分野で活躍する最も正統的な学者に直接師事することにあった。橋爪大三郎は次のように述べている。
「小室博士の特徴は、その分野の第一人者を見るや直接に教えを受けようと、弟子か学生となり、その学問の本質をつかみ取ろうと実行に移すこと。もしも、直接教えを受けることがかなわなければ(相手が死んでいるなど)、その学者の書物を読み、繰り返し読み、あたかも面前で教えを受けているかのようにその内容を体得しようとつとめる」(9p)
心理学はスキナー(Burrhus Frederic Skinner, 1904‐1990)に、帰国後、政治学は丸山眞男(1914‐1996)に、法社会学は川島武宜(1909‐1992)に、文化人類学は中根千枝(1926‐)に、社会学は富永健一(1931‐)に……と、師匠の数は半端ない。
小室の領域横断的な天才は、このフットワークの軽さに由来している。羞恥心は研究者の天敵だ。
・パーソンズの構造‐機能分析
もう一人、アメリカで出会った重要な学者がいる。社会学者のタルコット・パーソンズである。彼から学んだ構造‐機能分析によって小室初期の主要な業績は生まれた。「社会動学の一般理論構築の試み」(『思想』、1966・10&12)や「社会科学における行動理論の展開」(『思想』、全5回、1968・2~1969・3)などである。経済学から理論社会学への移行もパーソンズの存在なしには考えられない。
では、構造‐機能分析とはなんなのか? 「構造‐機能分析の論理と方法」のなかで小室は四つの特徴を挙げている(青井和夫編『社会学講座』第一巻収、東京大学出版会、1974、16p)。第一に相互関連分析、第二に制御分析、第三に構造分析、第四に構造‐機能変動公準、である。
このなかで一番重要なのが相互関連分析だ。社会現象はすべてがすべてに関係する複雑な関わり合いでできている。要素のひとつだけを取り出して社会を理解することは難しい。相互関連分析とはだから単線的な因果関係ではなく関係の網の目を中心に考える思考方法である。これは経済学の一般均衡理論(多数の財と多数の経済主体からなるメカニズムを科学的に分析する方法)と極めて近い発想をもっている。
そして、制御分析は、その複雑な関わり合いのなかで、ある目的を設定して、その実現のプロセスの観点から社会現象を説明するという方法だ。また、関わり合いのなかで生じるある変化が別の変化を生み出す関係性の型(関数)のことを構造というが、その構造を、変化しやすさの度合いに注目していくつかの層に分けて考えるのが構造分析。最後に、その構造の交代(変動)の条件を考えるのが構造‐機能変動公準だ。
・ルンペン学者の誕生
帰国後、経済学から専攻を変えた小室は市川に破門され、仕方ないので東京大学大学院に入り、この機能‐構造分析をより洗練されたかたちへと更新するための論文を量産する。その量は、尋常ではない。小室は業績マシーンと化す。博論も、「衆議院選挙区の特性分析」という実に堅いテーマで博士号をもらっている。
にも拘らず、小室は大学に就職できず、アルバイトで食いつなぐことになった。元祖ポスドク、元祖ワープアである。なぜそのようなことになったのか。小室自身はあるシンポジウムのなかで次のように発言している。
「一〇年のあいだに解説を含めないで五〇本論文を書いた。社会科学系統においてはそんなにたくさん論文の数は必要ないんで、一本か二本で十分なんだ。五〇本書いてもごらんのとおりルンペンだ。理由は簡単で、方法論と学問基礎理論と実証をやったから。社会科学の場合には、本人自身の感覚が問題なので、それがなければ、おまえは問題意識が狂っている、政治学なんかやる資格がないという。問題意識なんてどうしても主観が入るものだから、あいつの問題意識はなっていないといわれればそれまでなんです。方法論や理論は権力をもって弾圧される。実証はわずかに許されるというわけで、新しい学問をやる人はルンペンにしておく。はっきりいうと、いまの日本の大学はナチスや軍国主義者以下である」(「東大は解体すべきか(下)」、『エコノミスト』、1975・5・13、54p)
たしかに、50本も書いて就職できないとなると、なかなかどうして、愚痴のひとつやふたつも言いたくなるものだ。小室の推測が当たっているのかどうかは知らない。小室の師の一人でもあった川島武宣は「他人を批判するのに実にシンラツで、グーの音も出なくなるまでやる。アメリカじゃ普通だが日本じゃダメですよ」と説明した(「「博士号を持つ夜警サン」が書いた懸賞論文」、156p)。
ただ、すべての学問に知悉すべきという小室が示した学問態度は、すべてがすべてに関連しているという相互関連分析に深く結びついている。これが専門分野というタコツボ化しやすい制度で成り立つ大学にうまく受け入れられなかったことは確かだろう。
「私のような一本にしぼらない学問は日本の学界では不利なんですね。狭い世界で、人脈が優先する日本の学界は世界最低なんですよ。もっと正確にいうと、日本には大学がないんじゃないか。大学というのは、誰にでも自由に利用できるところでしょう。一例として、大学図書館は、学外者には自由に利用できないでしょう。こんな図書館なんてあるものか。大学じゃなくて国民学校だ」(「データバンクにっぽん人 第113回 小室直樹(48歳=社会科学者)」、66p)
・ボトムアップと役立たない価値
ちなみに、先に紹介した「東大は解体すべきか」というシンポジウムは全体的に中々興味深い記事になっている。東大解体論を唱える地質学者の生越忠(おごせすなお、1922‐)にケンカを売る小室は、東大がなくなってもその権威に相当するものが代替するだけで、根本的な解決にならないと主張して孤軍奮闘している。小室は機構の改革よりも草の根的な活動を高く評価する。
曰く、「機構を変えることよりも、下からの力の積上げで盛り上がる力を一歩一歩積み上げていく、むしろそっちの努力の方に興味がある」(「東大は解体すべきか(中)」、『エコノミスト』、1975・5・6 、57p)。無論、このような関心は既に始まっていた小室ゼミのような活動に直結しよう。
また、小室は学問有用論にも反対している。植木屋は仕事に役立たないから大学になど行くべきではないのか? 小室は否と言う。
「むしろ大学なら大学は、まったく役に立たないところに値打ちがあると思う。昔の番頭さん、小僧さん、このたたきあげの苦労人は、これが社会の慣習だとかなんだとか、あたかも自明のごとくいうでしょう。だから苦労人のお説教は決まっていて、世の中はそういうもんじゃねえよと来るわけ。そこには規範と存在が無媒介的に混入しているわけ。そうじゃなしに、社会に対して距離をおいて見るとか考えるとかいうことはグータラグータラむだな時間を持たなかったら絶対できない」(「東大は解体すべきか(下)」、『エコノミスト』、1975・5・6 、48p)
ルンペン哲学ここに極まる。大学は物事に対して「距離」を提供するものだ。そうでなければ、人々は有用性や喫緊の課題に追われ、規範(であるべし)と存在(である)を混同してしまう。それを回避するためには、ルンペン的「グータラ」が必須である。労働と隣り合わせになりやすい在野研究一般に関してもまた、この「グータラ」の獲得は大きな問題であるといえよう。
・年100万で生きる
ルンペン時代、つまりは『ソビエト帝国の崩壊』を書いて人気評論家として論壇に進出する前の小室は、年収100万円程度で暮らす極貧の生活を送っていた。
「人間はいまどき百万あれば生きていける。それ以上のカネは絶対に使わない。年百万。研究費は別ですよ。だから月十万円以下で切り上げている。/だってね、下宿の藤美荘(東京・練馬)の家賃が二万円でしょ。管理費は昔から千円。あとは電気、ガス、水道代ね。どのくらいかかるのか、そういうことは知りません。半洋式です。六畳ぐらいの部屋が一つ」(「行くカネ来るカネ 小室直樹」、『週刊文春』、1985・9・26、70p)
さすが、戦後を生き抜いてきた男の言うことは違う。栄養学の知識もあった小室は、牛乳、ヨーグルト、ローヤルゼリー、高麗人参などを食べて健康に気遣う。ローヤルゼリーや高麗人参などは「生産者と仲よしになって買う。安いですよ」(「行くカネ来るカネ 小室直樹」、70p)。
ちなみに、断食で頭が冴えることを発見した小室は、一度自宅でぶっ倒れて、小室ゼミの学生に発見され、救急車で運ばれたことがある。その経験を反省してだろうか。小室の部屋のドアには「アライブ」と「デッド」と書かれたプラスチックの札があって(「政治学者・小室直樹氏 勉強ずき酒ずきの“書生”」、『サンデー毎日』、1982・9・5)、ゼミ生が寝ている小室の様子を見、生の側に近いなら「アライブ」の札を掲げ、死の側なら救急車を呼ぶようになっていたそうだ。……なんじゃそりゃ。
収入の方は小学校の夜警や家庭教師で稼いでいた。ただし、家庭教師といっても、ただの学生相手ではない。
「受験生や学生相手ではなくて、大学教授が生徒。いまの大学教授というのは低脳かつ阿呆でしょ。実力はないけど講義はしなくちゃならない、論文も書かなくちゃならない、最新の学問も勉強しとかなきゃならない。だから、それを教えているんです」(「データバンクにっぽん人 第113回 小室直樹(48歳=社会科学者)」、66p)
……いや、そんなこと言ってっから就職できないんだろ!!
・アカデミズムからジャーナリズムへ
1976年、44歳になっていた小室は現代日本の構造的無規範(アノミー)を分析した『危機の構造――日本社会崩壊のモデル』を出版する。これは前々年に毎日新聞主催の懸賞論文「日本の選択」に応募して入賞した論文を中心に再構成したものである。二万部売れた。
ここから小室はアカデミズムの世界から一気にジャーナリズムの世界へと活動の場をずらす。評論家・小室直樹の誕生だ。一般誌やテレビといったメディア露出もここから頻繁に始まる。
(↑日本テレビ「ダダダダッ談志ダ!」、1989・10・26)
(↑日本テレビ「ダダダダッ談志ダ!」、1989・10・26)
けれども、小室の名を一躍有名なものにしたのは、やはり50万部売れたベストセラー『ソビエト帝国の崩壊――瀕死のクマが世界であがく』だ。これによって彼は「年収一億円近い時はありますよ」という状態にまでなる……税金で結構な割合持っていかれるそうだが(「行くカネ来るカネ 小室直樹」、72p)。この印税でマンションを購入し、小室ゼミで利用した。
評論家としての小室は、デュルケムに由来するアノミーとヴェーバーに由来するエートスという二つの概念を駆使する。
アノミーとは、無規範状態(または無連帯状態)を指し、他者と共有可能な服従すべき規範を喪失し、身の置き所を感じられない現代人の疎外感を生む。エートスは「簡単にいえば、行動様式と、それを支える心的態度のこと」を指す(『ソビエト帝国の崩壊』、55p)。単なる倫理感のことではなく、日常的に習慣化された行為の型のようなもので、西洋由来の民主主義的エートスを身につけられないにも拘らず民主主義のマネゴトをする日本に、小室は現代日本の諸問題の根源を見る。
この日本特殊論は憲法の問題を論じても、宗教の問題を論じても、教育の問題を論じても、田中角栄を論じても繰り返し出てくる小室の中心テーマだ。
・インターディシプリナリーの条件
小室は学問のインターディシプリナリー(学際的協力)に関して、専門家同士が連帯するのではなく、ひとりで全てこなすという計画を推奨していた。
「インターディシプリナリー(学際的)ということは、経済学の専門バカと心理学の専門バカとが協力するということではありません。そんなことは、いままで話したとおり、できっこない。経済学者であると同時に心理学者でもある――そういう人であることが必要なのです。経済学で一人前の域に達した人がもういっぺん、心理学を初歩からやりなおす。そういうトレーニングをがあってはじめてインターディシプリナリーが可能になるのです」(「わたしの学問の方法論」、「知的生産の技術」研究会編『わたしの知的生産の技術 PART1』収、講談社文庫、1986・7、86‐87p)
無論、これは小室自身の研究生活を振り返ったものだ。「もういっぺん」「初歩からやりなおす」。「小室百学」はその繰り返しのなかで生まれた大きな財産だ。
その「初歩」意識によって鍛えられたためだろうか。小室の文体は年を経るにつれて、アカデミックな硬さが消え、より啓蒙的に洗練されていった。とりわけ、1996年の『小室直樹の中国原論』(徳間書店)以降の「~原論」シリーズのリーダビリティは、アカデミズム時代の文体を知る者にとっては衝撃的な大変身を遂げている。
学び直しの連続のなかで小室は成長していった。いつまでもビギナーであること。遍歴の入門精神。それが、ひとりで全部やる、という学校制度に馴致された者にとって到底不可能に思える計画に挑める根本的な態度となっていよう。
簡単に自分で自分の限界を設けないこと、小室の著作から擬似的な小室ゼミ生になりうる在野研究者たちはそのことを胸に刻むべきである。小室直樹から学ぶべきことはまだまだ残っている。
◎引用しなかった参考文献・橋爪大三郎+副島隆彦『現代の預言者・小室直樹の学問と思想――ソ連崩壊はかく導かれた』、弓立社、1992。
※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。