En-Sophの編集者も書いていると一部で話題になっている(…ってこの枕、前回も使ったな)『Witchenkare』第六号を読んだ。小説・エッセイ・評論など37のコンテンツすべてを読んだので、前回と同様、そのうち3つを選んで少し感想を述べたい。
・井上健一郎「路地という都市の余白」
最初に取り上げるのは、ヤミ市研究者の井上健一郎のもの。吉祥寺駅のハモニカ横丁の風景を導入に、「○○横丁」に代表される路地の空間の魅力を語っている。とても面白かった。井上は「路地」を次のように定義している。
「都市という限られた空間に、道路や建物をパズルのように敷き詰めていく。その時どうしてもパズルは合わない。隅っこで余白ができてしまう。これが路地ではないかと思う。計画性の欠如から開発の過程で意図せず生まれてしまった空間である」(114‐115p)
反計画の空間によって、意図しないノイズが生まれる。だからこそ、路地は誰もが訪れることができるにも拘らず、その狭さと猥雑さによって来る者を選別するという点で、閉ざされつつも開かれている(半開き?)、セミ・パブリック/セミ・プライヴェートの入り混じった、アイマイな世界をデザインできる特異な場所性を帯びる。
ロラン・バルトが皇居を見て、東京を空虚な中心が支配している都市と指摘した話は有名であるが、「路地」の「余白」は、言ってみれば、小コミュニティが書き換え可能なかたちで現勢化させる、ランダムに分配された潜勢的な中心=環境(milieu)なのだ。
井上は年内に単著の出版を控えているそうで、そちらも要注目である。
・荒木優太「人間の屑、テクストの屑」
自分で自分を評するとは思わなかったでしょ? たまには期待を裏切ってみました。
そういうわけで、次に取り上げるのは荒木優太(つまり私)の「人間の屑、テクストの屑」である。個人的には「『多喜二と埴谷』あとがき第三」である(第二はこれ、いい加減あとがきを書くのはこれでお終いである)。エリック・ホッファーが目撃した「社会的不適合者の群れ」を導入に、吉本隆明の多喜二『党生活者』に対する否定的な評を批判した。
そういうわけで、次に取り上げるのは荒木優太(つまり私)の「人間の屑、テクストの屑」である。個人的には「『多喜二と埴谷』あとがき第三」である(第二はこれ、いい加減あとがきを書くのはこれでお終いである)。エリック・ホッファーが目撃した「社会的不適合者の群れ」を導入に、吉本隆明の多喜二『党生活者』に対する否定的な評を批判した。
うん、実に面白い。読んでいて惚れ惚れする。素晴しい。吉本の「人間の屑」の「スクラップ・ブック」的読み替えもそうだが、プロレタリア文学の多喜二から、プロ文に批判的だった同時代の寺田寅彦へとジャンプする、そのアクロバットもとてもスリリングだ。「なぜ私はかくも良い本を書くのか」(ニーチェ『この人を見よ』)。
また、一瞬登場するデュルケムもいい。社会学者のエミール・デュルケムは、自由が増大し個人主義化が進む社会のなかで自然と専門分化が進んだ結果、人々は自分ひとりでは対処できない問題に直面する、そこで彼らは「連帯solidarité」(有機的連帯)を求めるようになるのだ、と言った。ひとりで〈すべて〉をこなせないからこそ、他者との「連帯」が必要なのだ(ネオリベだなんだといわれている今日、デュルケムのような人を読み直すことはとても重要であると密かに思っている)。
こんなにノってる文章を書くのだから、荒木にはもっと活躍してもらいたいものである。
・三浦恵美子「子供部屋の異生物たち」
三浦恵美子「子供部屋の異生物たち」は、「子供部屋の異生物」として、『ドラえもん』、『E.T.』、『トイ・ストーリー』、『デスノート』などを取り上げる。ひとつのポイントとしては、その「異生物」はしばしば、子供の全能感を支えるキャラクターとして造形されているということだ。ドラえもんやルークは子供の抱く全能感に従事する。そう言われればたしかにそうかもなと思う。
「異生物」が興味深いのは、それが単なる親子関係、より限定的にいえば単なる精神分析的な枠組みに収束していくのとは異なる可能性が感じられるからだろう。あるモチーフを母的であるのか父的であるのかで、作品を分析するような一時期ありふれた態度はもういい加減ウンザリである。親子の話で片付きゃ世の中楽なもんだぜ。
そもそも、考えてみれば「子供部屋」なるものが生まれたのも別に普遍的(時代も場所も問わない的)なことではなく、個室の欲望と連なって発明された近代的な産物である側面があろう。ならば、「子供部屋の異生物」を考えることは、子供に対する想像力のモダニティを考えることに等しいのかもしれない(しかし、では子供部屋以前には「異生物」は存在していたのだろうか?)。
想像が広がる。
想像が広がる。