つい2週間ほど前、とある大学の通信教育課程を卒業した。七年という長きに渡る苦闘の末で、これが嬉しくない筈がない。特に最終年度は福岡の学生団体の会長を務める事になり、業務の遂行は悩ましい事の連続で、僅か三十人程の小さな会を纏めるのにもこれ程面倒なのかとため息を吐く事も多かった。そういうわけだから、これが(再度だが)嬉しくない筈がない。
卒業式には夜行バスで向かった。博多駅から新宿までの便で、そのまま東京の友人宅に泊めて貰い、翌日に横浜のキャンパスでの卒業式に参加した。夜行バスを利用したのには二つ程理由があった。一つは旅行シーズンで割高な飛行機代金で、もう一つはかつて貧乏旅行で頻繁に利用していた名残から、夜行バスは物思いに耽るには丁度良い機会と思えたからだ。その為に用意したのはヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』。新潮社文庫から出ているもので、実際にヘッセと交流のあった高橋健二さんの訳だ。青カビの浮いたボロボロの文庫本は、僕の二十代を救ってくれた。誰かにおススメの本や読書歴などを紹介する時には、いつもこの本について「生涯最も感銘を受けた一冊」と説明している。19歳で初渡米した際にブックオフの100円均一で購入し、その後カバーを失いながらもアメリカ、メキシコ、タイ、と僕に帯同してくれた。しかし29歳でドイツに渡った際は(何となく)持って行かなかった。そしてドイツから帰国すると、自分の部屋から『シッダールタ』は消えていた。母が捨てたのだろう。腹が立ったが、母は「散らかしてるのが悪い」と言う。生涯で何度も(それこそバカみたいに)繰り返されてきた光景だ。
会長就任後に驚いたのは、全く無駄と思える引継ぎ資料がとてつもなく多かった事だ。(詳細は控えるが)「これは持っていちゃいかんだろ」という類から、懇親会で使った居酒屋のチラシのコピー、同じ年の会計報告書や総会で配った手製のパンフレット、更新されたわけでもない規約が何枚も何枚も出てきた(これらは僕にはゴミとしか思えなかった)。結果、大減量した資料は合計7キロ半。全体の4分の3以上はあっただろう。歴代会長は十年以上にも渡ってそれらを溜め続け、次の会長に「捨てても良いんですよ」と言いながら大事に大事に、恐らく引継ぎの為の送料とか色々掛けながら代々受け継いできたのだ。
卒論を書き終え、卒業試験をクリアしてからも、心休まる事無く会長職のあれやこれやで頭の中はいっぱい、そんな卒業式の一ヶ月程前、ひょんなことから母に捨てられたと思っていた『シッダールタ』が押し入れの中からビニール紐で括られた状態で見付かった。卒業のこのタイミングでわが生涯の一冊『シッダールタ』と再会し、それを卒業式に向かう夜行バスの車中で読み返すというのはとても贅沢な時間に思えた。20年前の自分に再会しながら、この20年、特に大学に入ってからの7年を再確認出来る。
夜行バスの中で『シッダールタ』を開いた。青カビが薄く散らばった表紙を開き、数ページ読むと次第に引き込まれ、あっという間に30ページ程読んだ。
読む前には少し怖いような感じもあった。経験と学習を積み、文学研究なるものの何たるかが少し分かった今では、「わが生涯の一冊」が「取るに足らない一冊」に成り下がってしまっているのではないか。しかし、それは取り越し苦労というヤツで、「生涯の一冊」は確かに「生涯の一冊」に間違いなかった。鉛筆で引いた線も、覚えていたよりもはるかに力強かった。
会長としての一年間の任期を終えようとする今、新会長に引き渡すための資料と事務用品などの目録を作っている(今までそういったものすら無かったのだ)。資料については職務についたかなり早い段階で一度整理して大減量したが、一方で事務用品の方には大したものはなかったので後回しにしていた。就任当初「なんでこんなもの大事に残してるんだ!?」そう思って多くの資料を整理した。そして今度は事務用品などを確認しているのだが、そこには(芯の折れたままの)鉛筆やノリ、ノリの蓋(らしきもの)、(インクの切れた)ボールペン、(インクの切れていない)ボールペン、定規、カッター……。なんでこんな事務用品をわざわざ? 意味が分からない。なんでこれらを受け継いできたんだろう。自分のものを使えば良いじゃないか?
しかし就任から一年経った今、捨てるのに躊躇してしまう自分がいる。
「なんで取っておいたんだろう?」 その「なんで?」は幾ら考えても分からない。でも捨てられない。
今、僕の手元には『シッダールタ』がある。新潮社文庫、高橋健二訳だ。しかしその本にはちゃんとカバーが付いており、青かびが浮いているという事も無ければ鉛筆で引いた線も無い。本文に何か変化があったりという事もしない。これは先日近所の本屋で400円出して購入したものだ。新しくなっているのは良い事だし、かつて引いた線も大体は覚えている。ふとした時に何度も読み直し、暗誦したあの線。そこには僕の生涯の言葉がある。
僕はあの『シッダールタ』をどこかに忘れて(或いは落として)しまったのだ。失ったのは20年以上前に隣町のブックオフで買った100円の文庫本。引いた線も覚えている。青かびが愛おしいという事もなければ、ボロボロな感じが気に入っているというわけでもない。しかしそれはともかくとして、卒業式への旅行中、僕は青かびの浮いた『シッダールタ』をどこかで失くしてしまった。
東京滞在中、そして福岡に帰って来てからも、立ち寄ったレストランや駅、利用したバス会社や警察、観覧したミュージカルの劇場、主催者にも、(場合によっては何度も)連絡を取った。手元には新しい『シッダールタ』があるが、どうにも諦めきれない。何処かで僕の『シッダールタ』を見付けた人は、青かびの浮いた本をゴミと認識するだろう。気の利いた人なら、わざわざ拾って捨てるかもしれない。そこに「放浪のボクサーだった男の20年」を思う人間などいる筈がないし、中を開いて鉛筆の線を見て「ああ、これはきっと大事にしてたものだな」などと近くの交番や駅に届けようなどという人も居ないだろう。思いがけない再会を果たすと同時に消えてしまった「わが生涯の一冊」。20年からみれば、ほんの一瞬だった。
「時間」というのは凄いものだな。(芯の折れたままの)鉛筆や(中身は殆ど残っていない販促品の)ノリ、ノリの蓋(らしきもの)、(インクの切れた)ボールペン、(インクの切れていない)ボールペン、定規、カッター、そんなものには殆ど価値は無いのに、捨てるのに躊躇してしまう自分がいる。そこには「守り続けた何かがある!」みたいな気がしてくる。
そして青かびの浮いた『シッダールタ』が、新しい『シッダールタ』に比べて何か価値があるように感じてしまう。
(了)