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(↑柳田泉『森銑三――書を読む“野武士”』(リブロポート、1994))

 森銑三(1895‐1985)。センゾウ。書誌学者・人物研究家。近世を中心に膨大な量の史料を渉猟し、歴史に埋もれたマイナーな対象をふくめて、多彩な人物伝を著す。また戦後の井原西鶴研究では、『好色一代男』だけが西鶴の真の著作である、という大胆な主張を展開した。主著に『近世文芸史研究』(1934)、『おらんだ正月――日本の科学者達』(冨山房、1938)、『西鶴と西鶴本』(元々社、1955)。その他多数。



◎森銑三略年譜

1895年 9月11日、愛知県刈谷県にて誕生。
1910年 叔父の招きで上京、築地の工手学校に入学。
1915年 刈谷町立図書館の臨時雇いとなる。
1918年 4月、刈谷尋常小学校の代用教員となる。11月、学校を辞し、上京。大道社に入り修養誌『帝国民』を編集。
1920年 高崎市南小学校の代用教員となる。
1921年 栗原長治とともに『小さな星』を発刊。
1923年 市立名古屋図書館に雇員として勤務。『新愛知新聞』に「偉人暦」を連載。
1924年 上野図書館内文部省図書館講習所に入学。
1926年 東大史料編纂所の図書雇員となる。
1928年 三田村鳶魚らの江戸文学輪講会のメンバーとなる。
1931年 関根文子と結婚。
1934年 史伝研究者の会合機関「三古会」を結成、雑誌『伝記』を創刊。『近世文芸史研究』(弘文荘)を刊行。
1936年 「山東京伝私記」を『国語国文』に発表、小池藤五郎との論争に発展。
1938年 『おらんだ正月』(冨山房)を刊行。
1939年 目白尾張徳川家の蓬佐文庫の主任となる。
1940年 『近世畸人伝』(岩波文庫)の校注・解題を担当。10月、蔦子と再婚。
1941年 『渡辺崋山』(創元社)、『伝記文学・初雁』(三省堂)、『書物と江戸文化』(大東出版社)を刊行。
1942年 蓬佐文庫主任を辞す。『佐藤信淵――疑問の人物』(今日の問題社)、『近世高士伝』(黄河書院)を刊行。
1947年 生活窮迫のため、弘文荘に入社。
1950年 早稲田大学の講師となり書誌学を講ずる。15年ほど続く。西鶴研究を始める。
1955年 『西鶴と西鶴本』(元々社)を刊行。
1970年 『森銑三著作集』全12巻(別巻一、中央公論社)が刊行開始。翌年、第23回読売文学賞(研究・翻訳賞)受賞。
1985年 3月7日、死去。享年、89歳。
1992年 『森銑三著作集 続編』全16巻(別巻一、中央公論社)が刊行開始。
 


・評伝の先輩


「読むことと、書くことと――。私がこれまでにして来たことといふと、この二つに要約さられさうである。方々の図書館に死蔵せられゐて、閲覧人の殆ど全部が読んで見ようともしない写本の類を、出して貰つて読み、その中から近世期の人物に関する資料を探し出す。それが即ち読むことであつた。しかしただ読んだだけでは忘れてしまふ。読むと同時に、それを写さねばならぬ。さうして獲た写を整理した上で、書きたいと思ふ人物に就いて書く。それが即ち書くということであつた」(『思ひ出すことども』、中央公論社、1975=『森銑三著作集 続編』第15巻、中央公論社、1995)
 

 森銑三をこの連載で取り扱うことには、少しばかりの緊張を要する。というのも、在野研究者の人生と業績をコンパクトに紹介する本連載はいくぶんか小伝の趣を有しており、何を隠そう、森は伝記の天才的な書き手だったからだ。

 とりわけ、森の人物伝の大きな魅力は、現代の私たちからみれば、それ誰っスか? とでも言いたくなるようなマイナーな人物の生の軌跡を、入手困難な史料を武器に丹念に探っていくところにある。ためしに、『新橋の狸先生』を捲ってみよう。神谷潤亭、川村寿庵、老樗軒……うん、分からん。

 この無理解は近世文学や江戸文化に対する無知に起因しているところも無論あるが、しかしそうともいえない部分もある。文庫版の解説を担当している中野三敏のいうように「捜索の道筋は次から次へと実に手際良く、その生涯の隅々にまで及んでいくので、一見、かなり人口に膾炙した人物たちであるかのような錯覚をもたれるかもしれぬが」、「江戸文芸研究という分野は、昭和という時代を迎えて初めて学問研究として自立する所まで進んだ状況であり、細部にわたる人物伝記研究といった方面は、当代アカデミズムの最も手薄な領域でもあった」(岩波文庫、446‐447p、1999)。

 つまり、森が取り上げなければ完全に忘却されてしまっただろう近世の偉人・変人・畸人が数多くいるのであって、馴染みがなくてもそれは道理なのだ――勿論、森の先輩に三田村鳶魚が居るが、これはまた別の機会に取り上げることにしよう――。その意味で森は近世人物研究のパイオニア的な性格をもっている。「先生の草された伝記的作品は、前人未踏の分野に属するものが多い」(佐藤要人「庶民的人物伝」、『森銑三著作集』月報第7号、1971、6p)。

 今や芥川賞作家候補として有名な作家(そしてまた在野の文学研究者)の小谷野敦は、一時期流行した、作家を無視するテクスト論を痛烈に批判して、伝記の重要性を主張している。曰く、「漱石の『三四郎』を読むのに、「帝大」が何か知らずに読めというのか」(『里見弴伝――「馬鹿正直」の人生』、中央公論新社、2008、440p)。

 私自身はテクスト論者なので、完全な同意をすることはできないが、『里見弴伝』や『久米正雄伝――微苦笑の人』(中央公論新社、2011)といった一連の成果が、漱石や鷗外など、有名作家でないマイナーな対象への視角を切り拓き、長らく忘却されていた事実の集積に立脚する研究態度を復活させた意義は大きい。

 さて、そんな戦前版小谷野敦ともいうべき(?)森銑三。しかし伝記の書き手である彼自身の伝記は意外に少い。あとで挙げる(このエントリを書く上でもとても参考になった)柳田泉くらいなものだ。伝記を書くのは個人的には不得手ではあるものの、永井荷風に「森さんの様な人が本当の学者と言ふんだよ」と言わせ(相澤凌霜「荷風先生と森さん」、『森銑三著作集』月報第1号、1970、2p)、大岡昇平のような人が「森銑三先生を私はかねがね尊敬してい」た(大岡「奎堂遺文」、『森銑三著作集』月報第3号、1971、1p)、そんな人物の歴史の表層をなぞってみたい。


・地元図書館の臨時雇い

 小学校卒業後、進学を希望していた森銑三は叔父の手引きによって東京の工手学校(現在の工学院大学)に通うため上京するが、健康上の理由ですぐに帰郷してしまう。叔父の紹介で、青年雑誌『学生』を創刊したジャーナリストの西村真次(1879‐1943)と知り合い、それがきっかけで平安時代の武将、源為朝についての論考が『青年』に載る(19歳の頃、それ故に森のデビューは極めて早い)。だが、モラトリアムは続いていた。

 しかし、読書をしながら静養する日々のなかで、たまたまわが町に図書館ができる。刈谷の町立図書館である。ここでの臨時雇いとして働いた一年に満たない経験が、けれども、その後の森の人生を大きく決定づけることになった。



「村上忠順の旧蔵書二万五千巻の整理に当つた。それが私の古書に結びつけられた最初であつた。けれども当時の私は、まだ二十を出たばかりの若蔵で、何の素養があるのでもなかつたのだから、その整理は、私には荷の勝ち過ぎた仕事だつた。しかし、それだけに、私には仕事が勉強になつた。お蔭で、江戸時代にどのような学者がゐて、どのやうな著作をしてゐるのかといふことを、ごく大体にでも知つて、それが大きな収得となつた」(「古書と共に経た五十年」、『ももんが』、1970・6=『森銑三著作集』第12巻、中央公論社、1971、373p)
 


 村上忠順とは元は刈谷藩医だった国学者で、膨大な量の遺書を残した。町の篤志家がそれを購入して街に寄付したのだ。

 森はここで仕事兼研究という幸運な時を過ごす。そして、それ以上に図書館での生活は森その後の書物に関する来歴と密接に結びついている。というのも、刈谷図書館を辞めてからも、1923年(28歳)に市立名古屋図書館の雇員として働き、3年後には図書館講習所を経て東大史料編纂所の図書雇員となるからだ。コレクションの欲望に拘泥しなかった森は、本を個人で蔵書せず、戦前も戦後も足繁く図書館に通う。そのことを考えれば、ここでのアルバイト経験はその後の人生を方向づけたといえよう。

 かくいう筆者も、恥ずかしながら図書館の司書を目指したことがある(人間とのコミュニケーションができないので3日で諦めたが)。働く場所と学ぶ場所が一致する、これほど幸福なことはなかろう。


・臨時教師へ

 けれども、刈谷図書館での仕事は1年もたなかった。その代わり、図書館の館長が用意してくれたのが隣にあった小学校(これは森の母校でもあった)での代用教員の職だった。図書館で出会う子供たちとの交流を通じて、教職に憧れていた森にとって、渡りに船とは正にこのこと。



「子供はいい。実にいい。教室内に於て、また教室外に於て子供と接するのは何より愉快だ。しかし学校そのものは――? それは愉快でも何でもない。或は不愉快極まる存在だ。――これが嘗て代用教員をしてゐた頃の私の偽らぬ感情だつた」(「現代教育に対する私見」、『日本及日本人』、1933・10=『森銑三著作集 続編』第13巻、中央公論社、1994、30p)
 


 現代だとちょっとアブナイ感じが漂う文章だが、ここで森は、生徒自身が選択する自由学習、義務教育の免除と代替になる職業教育の機会付与、成績査定の否定など、既成観念にとらわれない自由な学校教育を夢想している。子供は良いが、学校が悪い。新米教員の森の目からすると、当時の教育界はなまりきっていたのだ。

 森は1920年に群馬県の高崎市南小学校の代用教員となった。しかし、そこでも欲求不満は決して解消されなかった。そのあり余った力は、「自分勝手な、型を無視した授業」(「過去を語る」(原題「或学生に」)、『典籍』、1954・4=『森銑三著作集』第12巻、中央公論社、1971、385p、以下頁数のみ略記)や童謡の同人誌『小さな星』の刊行に結びついた。戦後の早稲田講師の時代も含めて、森は正規教員になったことはなかったものの、図書館勤めの合間に教職がときおり挟まれるのが森銑三年表の特徴だ。


・ちゃんと貯金しよう

 名古屋図書館時代に森は地元の新聞『新愛知』に「偉人暦」という文章を連載している。その日その日の忌日に当たる歴史的人物を取り上げ、随筆風に人物評を書いたものだ。デイリー伝記である。



「「偉人暦」は存外受けてゐたやうで、私も気乗りがして書続けました。しかし図書館の書物は利用せられても、時々見たくて見られぬ書物が出来ます。その都度、東京へ出なくてはだめだ、と痛感します。東京へ行きたいな、と思ふと矢も楯もたまらなくなつて、私は内心密かに上京の決心を固めました。新聞社から月々三十円稿料をくれますのを、かけ合つて四十円にして貰ひました。それに月給の中から十円を割いて、月々五十円づつ積立てることを始めました。積立は計画通りに進みました」(394p)
 


 森銑三、嗚呼、堅実な男よ。こうして、森は東京へ行き、上野の帝国図書館の内にあった文部省図書館講習所に入学する。



「貯金は既に五百円を越えてゐました。一月五十円くらゐで、どうにか遣つて行かれる時代で、「偉人暦」はこの年も書続けて、東京からも原稿を送つてゐたのですから、後顧の憂はありませんでした」(394p)
 


 貯金、大事。


・編纂所に就職

 図書館講習所卒業後、森は東京帝国大学史料編纂所に就職する。しかし、新しい職場にはいくつもの不満があった。第一に、そこの書庫には、中世以前の古文書や古記録の写しが主として集められ、近世の史料は未だ手付かずの状態にあった。第二に、編纂所の同僚に自身の知的好奇心にふさわしい者が余りいなかったことが挙がる。



「編纂所には百人余りの人々が居り、その内には史学の大家として押しも押されもせぬ人々がゐられました。帝国大学や国学院の出身の少壮気鋭の人々も大勢ゐました。しかしわたしはそれらの人々を通観して、歴史家には歴史家らしい一つの型があり、その態度がどこまでも知的で、史料を通して史実を究めようとしながら、史上の人物をたゞ史上の人物として、遠くから眺めてゐるといつた形で、もつとその人を身近に感じようとする用意に欠けてゐることに不満を覚えました。〔中略〕学問が身に沁み込んでゐて、何でもない雑談の間にも、その身に附いてゐるものの閃くやうな人の存外少いことを知つて、さうした点にも物足らなさを感じずにはゐられませんでした」(397p)
 


 日常生活で学問の話をすると、大体においてひかれてしまうか、「へぇー、頭いいね」と完全なる社交辞令で流されてしまう。バイト先で政治と学問の話は禁物だ。だから、たまに院生の連中と会ったりして、さあ最近の研究動向の話にでもなるかと期待してみるのだが、これもこれで大体が先行きの見えない就職話に終始してしまい、ガッカリする。そんな経験をしたことがあるのは、決して筆者だけではあるまい。

 森の場合、編纂所で経験した「物足らなさ」は、蔑ろにされていた人物研究の基礎態度とともに、狭義の学者に対する懐疑と在野として自立する矜持を与えたようにみえる。「学問が身に沁み込んで」いれば、日常会話や雑談のなかでさえ学的な交流をすることができるはずだ。
 
 歌人にして国文学者の井上通泰(みちやす、1867‐1941)や江戸文化研究のパイオニアこと三田村鳶魚(えんぎょ、1870‐1952)という師ともいうべき民間の学者と知り合ったのもこの頃のことだ。井上とは知人の紹介がきっかけで、三田村とはある随筆に関する疑問の私信がきっかけで、知り合いになった。「さうした民間派や在野党とかいふ人々との接触が多くなるにつれて、編纂所での私は、ますます異分子的な存在となつて行つたともいはれませうか」(400p)。

 また、森はこの時期に急速に執筆活動にいそしむ。「史学関係の雑誌から、国文学関係の雑誌、美術雑誌、書誌学関係の雑誌と、書く範囲は次第に広がつて行きました」(398p)。また、渡辺刀水翁、林正彰らと一緒に、三古会を結成し月一回の会合と『伝記』という雑誌を創刊しもした。この雑誌は森の研究発表の主戦場として機能していく。「三古といふ会名は、久保田米斎翁の命ずるところで、尚古、考古、集古を意味する」らしい(『思ひ出すことども』、『森銑三著作集 続編』第15巻、127p)。


・情けは人のためならず

 こうした猛烈な執筆活動もあって、40歳の記念で出した旧稿集『近世文芸史研究』を皮切りに、4年後には今も読み継がれている『おらんだ正月』、その3年後には江戸時代の武士であり画家であった渡辺崋山の研究を更新したといわれる『渡辺崋山』を刊行するに至る。

 森の人物研究には参照した資料や先行研究の内容が詳細に記載されている。これは彼の文体の大きな特徴だ。研究者として当然といえば当然なことなのだが、これは研究という営みが本質的に共同作業によって育まれていくことを理解していたことに由来するだろう。



「人物研究には、究極がない。自分の研究の至らぬ点は、なほ後人の研究に俟つべきであり、それにつけても、後の研究家の取りつき易いやう、計らつて置く用意があつて然るべきである」(「人物研究に就いての私見」、『神奈川史談』、1959・12=『森銑三著作著作集 続編』第12巻、中央公論社、1994、540p)
 


 研究とは本質的に個人プレーではない。討議や相互批判の機会は勿論のこと、先行研究というかたちで研究は潜在的に集団的な参加を要求する。資料の入手にしてもそうだ。
 


「人の秘蔵せられる文献その他をも、資料として使はせて貰はなくては、研究の進められぬ場合が多いことだけでも考へたら、進んで人の研究にも助力すべきである。人物の研究も、同好の士と気脈を通じ、互に力になり合つて、仕事をすることが出来たら、研究は一段と楽しさを増さう。〔中略〕他のことは利用することはする。他から利用せられたくないといふ態度でゐる人もある。それは器局の小ささを自ら語つてゐるものであり、自分の世界を自分から狭めてゐるものといつていい」(「人物研究に就いての私見」、『森銑三著作著作集 続編』第12巻、540p)
 


 情けは人のためならず。図書館以外に民間知識人らとの知的ネットワークを活用できた森にとって、学知は学者らの助け合いを介することでより強いものになりうることを熟知していた。公共物としての知、ここには本を私有ではなく公有で活用していたそのライフスタイルも関係しているかもしれない。


・「野武士」の攻撃力

 しかしながら、と同時に、森はその友好的な主張やのっそりした外見にも拘らず、中々厳しいことも述べる。「人物研究に就いての私見」では、読者の興味に従属した面白さ重視で伝記を書いてはならないことを釘さしているが、論敵と見なした者に対しては森は相当厳しい。従来高く評価されていた江戸時代の学者・佐藤信淵(1769‐1850)を、「疑問の学者」として容赦ない批判を加えた『佐藤信淵』(1942)などはその典型的な表出だろう。



「森さんの率直さは時に峻烈な趣きを呈することがある。歴史上の人物を主題としたさる著名な文芸評論家の著書の話が触れた時に、森さんは言下に「○○如きが」と、さも片腹痛いといった調子で言って捨てられた」(片桐幸雄「森さんのこと」、『森銑三著作集』月報第9号、中央公論社、1971、4p)
 


 「如きが」。森のこういった側面は、数少ない評伝にして決して森礼讃に終わっていない名著、柳田守『森銑三――書を読む“野武士”』(リブロポート、1994)でも指摘されている。「「無目的」の「純粋読書人」」とイメージされることの多い森は、しかし1933年あたりでは、官学者へのウラミツラミはもちろんのこと、それ以上にナチスの焚書に肯定的に言及したり、健全図書育成のため児童書の監視機関を要求したりと、統制的な時代潮流と無関係ではなかった。(175-187p)。書物に対する強い情熱は、時代の波にのまれながら、堕落した著者や本に対する排除的眼差しにも変わる。



「国文学者も徒らに国文学界といふ別個の世界に閉じ篭つて、殻を被つて居るのでは、所詮大成は期し難いでありませう。そういう小天地を飛出して、私どものよううな野武士にも接触する必要があろうかと思ひます」(「山東京伝に関する一二の問題に就いて」、『伝記』、1937・4)
 


 ある論争のなかで森は自らを「野武士」と呼んだ。だが、おそらくは「野」ゆえに囚われる権力というものがあろう。在野研究者がしばしば軽んじられ、馬鹿にされる、そのフラストレーションには共感できる。だが、それを適正な批判力に変えられるかどうかは、慎重な自己内省が求められるだろう。


・朝活、始めました

 森の近世人物研究は戦前で終わっている。というのも、戦災によって収集した資料がすべて焼けてしまったからだ。その代わりに森が着手したのが『西鶴と西鶴本』、『井原西鶴』(吉川弘文社、1958)、『西鶴本叢考』(東京美術、1971)などに結実する西鶴研究で、そこでは『好色一代男』だけが西鶴の真の著作である、という独自の自説を展開した(ちなみに、今日ではこの説は否定的に取り扱われることが多いようにみえる)。

 晩年の森(81歳頃)は、自分の生活習慣を次のように紹介している。



「私は早朝二時に起きるとまづ文書の整理などをして、三時半には妻を起こして朝食。五時過には藤沢の自宅を出て、七時東京着。駅の待合室で一時間半くらゐ原稿を書いてから、仕事場にしてゐる本郷の東大新聞研究所へ。また夜は夕食がすむと六時か七時には床につくといふのが日課だ。他人の時間帯とはかなりことなるが、睡眠はたつぷり八時間とつてゐる」(「早朝朝二時起き」、『週間現代』、1978・1=『森銑三著作集 続編』第15巻、中央公論社、1995、277p)
 


 二時って、それ、朝じゃなくて深夜だろ。そんなツッコミを知ってか知らずか、森の研究生活はこんな調子で死ぬまで続いた。その甲斐あってか、晩年と死後には堂々たる著作集が刊行される。

 そもそも森は朝型の人間だった。「無理をせぬといふ一事を守つて、私は今日まで生きて来た。私は物を書きつづけて来たけれども、書くのはいつも朝か昼間だつた。徹夜で勉強するの、執筆するなどといふことなどは、これまで一度もしてゐない」(『思ひ出すことども』、『森銑三著作集 続編』第15巻、142p)。

 森は自身の虚弱体質に自覚的で、決して無理のある生活をしなかった。研究も好きな人物、気になる人物を優先して取り上げる。やりたいことを粛々とやっていく。そこに長寿と充実した研究生活の秘密があるのかもしれない。

 果たして、二時に起きるかどうかともかくも、最近は出勤前に「自分磨き」の活動をする、いわゆる「朝活」なるものが流行っているらしい。森は朝活の先人でもあった(ちなみに私は4時半頃起きている)。

 早起きは三文の得。朝活で在野研究、あなたもはじめてみませんか?


※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。