#04 Topophilia(fuzkue / フヅクエ)
Flickr Photo album:【Topophilia(fuzkue / フヅクエ)】
https://www.flickr.com/photos/108767864@N04/sets/72157650880029199/
場所:【fuzkue/フヅクエ】 http://fuzkue.com/
撮影日:2015年02月24日PM
◆ "私はお金も欲しかったし、仕事も欲しかった(笑)" やつれて虚ろな表情のペドロ・コスタが、ライターにカッコ笑いをつけられるほど自嘲気味に自作を語っている記事を、読んでいた。
◆ 2月に入って少しした時期で、『ヴァンダの部屋』と『コロッサル・ユース』を久しぶりに観ようとしたら、またしても途中で寝てしまった次の日のことだった(そのたび、コスタは、自分でちゃんと最後まで観れるのかこれ?と愚にもつかないことを考えてしまう)。
◆ そのときわたしは、初台の『fuzkue/フヅクエ』(以下フヅクエ)という、能書きによれば ”一人の時間をゆっくり過ごしていただくための静かなカフェというかバーというか食事処というか、そういった類の店” にいた。時刻は22時を過ぎていて、わたしは夕方辺りからずっと深々とアンティークなソファへ腰掛け続け、延々と滞在し続けていた。僅かずつ絶え間なくハートランドを飲み、ゆったりとリラックスしているふうで、しかし意識はせわしなくネットサーフィンと書きかけの原稿とブログと読書を往復していたから、むしろ行為のザッピング中毒、情報摂取の多動性障害という感じだった。
#07 Topophilia(fuzkue / フヅクエ)
#21 Topophilia(fuzkue / フヅクエ)
◆ 鈍く室内に差し込んでいた冬の光は消え去って、窓外の夜と内部の照明が強いコントラストを見せている。コンクリートが打ちはなされた壁と天井、木目の強調された床板、ウッディーなDIYテーブルやブックスタンドに並べられた本たちは、暖色に染められている。無言が義務付けられた空間内に漂う時間の推移は、ときおり訪れる新たな客がもたらす揺らぎ以外、外部から切り離された独自の流れとグルーヴが存在しているかのようで、わたしに強い印象を与えた。
◆ 結局、わたしは終電近くまで席から動かなかった。そんなふうに午後から夜半へと長時間フヅクエで過ごすうち、今回の撮影は構想されたのだった。あまりにも特殊な作風のために今や困窮に陥った(?)コスタがリスボン郊外のスラム、とりわけヴァンダの、そしてヴェントゥーラが訪れる〈部屋〉へパナソニックのDX100を持ち込んで〈記録〉を始めたように、わたしも、この空間を、主観の表現として留めておきたく思ったからだ。
◆ その日の帰り際、支払いのさいの僅かな時間で、あっさりと話はまとまった。
#08 Topophilia(fuzkue / フヅクエ)
◆ フヅクエを作った阿久津さんは、先月半ばに出たBRUTUSの『特集 明日を切り開く人物カタログ』で、DOTPLACEの内沼晋太郎氏に『つぎのひと』として紹介されたりもしている(『ブルータス、お前でしたか』)。
◆ かれのことをわたしが初めて知ったのは2012年のことで、震災後初となるチェルフィッチュの新作『現在地』に関する批評めいたレビューというか、取り留めもない感想みたいなものを『ニュークリア・ランドスケープ』の第三回(【ぼくたちは「バラバラ」になった、というわけです】)として書いたあと、ネットで他の人の感想などをあれこれ探して読んでいたとき、阿久津さんのブログ記事を発見し、「お!」と思ったのがファーストインプレッション、みたいな感じだった。
◆ 自分がどれだけ岡田利規の書く言葉が好きか、『現在地』からどのような衝撃を受けたかを微視的に、極度に句読点の少ない文体でたたみかけるように書いたそのテクストは、「お!お!」というかなり強いインパクトをわたしにもたらしたのだけど、その上、当時岡山でかれが運営していたカフェをかの地に住む友人たちも知っていたりして、さらに「お!お!お!」というか、びっくりみたいな状況も判明したのだった(そこを訪れる機会は結局無かったが)。
◆ かれのことをわたしが初めて知ったのは2012年のことで、震災後初となるチェルフィッチュの新作『現在地』に関する批評めいたレビューというか、取り留めもない感想みたいなものを『ニュークリア・ランドスケープ』の第三回(【ぼくたちは「バラバラ」になった、というわけです】)として書いたあと、ネットで他の人の感想などをあれこれ探して読んでいたとき、阿久津さんのブログ記事を発見し、「お!」と思ったのがファーストインプレッション、みたいな感じだった。
◆ 自分がどれだけ岡田利規の書く言葉が好きか、『現在地』からどのような衝撃を受けたかを微視的に、極度に句読点の少ない文体でたたみかけるように書いたそのテクストは、「お!お!」というかなり強いインパクトをわたしにもたらしたのだけど、その上、当時岡山でかれが運営していたカフェをかの地に住む友人たちも知っていたりして、さらに「お!お!お!」というか、びっくりみたいな状況も判明したのだった(そこを訪れる機会は結局無かったが)。
◆ そんなわけだから、阿久津さんが今夏に岡山から東京へ居住地を移し、10月にフヅクエをオープンさせたことはとても興味深いできごとだった。しかも、初台は、わたしが新宿から帰宅する場合の通過駅である。「端的にこれは奇縁というか、なにかしらそんなものだよね明らかに」といった具合の塩梅で絶妙なタイミングであり、つまりそんな訳で、わたしは12月に初めて訪ねて以降、ときたまフヅクエに足を運ぶ人間となっていた。
#26 Topophilia(fuzkue / フヅクエ)
◆ 撮影は、冒頭のFlickr引用でも示した通り2月24日に行われた。前掲のBRUTUSに阿久津さんが紹介されたのは、話しがまとまった数日後だったので、「いやほんとにね、ぼくも『つぎのひと』としてね、それなりに色々要求とかしますよ実際?要約するとやっぱお断りします」とか言われたらやばいとか実は危惧していたのだけど(嘘だけど)、まあ当たり前だが全くそんなことはなくて、結果として、とても良い画が撮れたと思っている。
◆ 当日予報では雨になる可能性もあったが、幸いにも弱々しく昇った太陽が夕方まで陰ることは無く、窓からの光が、時間の経過と共にさまざまな影絵を空っぽのフヅクエに描き出していた。露光の調整などはそれほど困難な要素も無かったが、空間内の、何をどれだけ合焦させて画面に収めるかについては、ファインダーを実際覗いていると思った以上にためらいが生じるもので、気が付けば予定時間ぎりぎりになっていたのだった。
◆ 構図を決めるという意味では、中学のときにデスケルを買って都芸受験の勉強をしていた時代から、いま現在、例えばInstagramで気楽に(あるいは雑に)パスタやラーメンを記録するときまで四六時中やっている/きたことなのだけれども、その都度行われる決断、意思決定の慎重さ度合いは、場面場面で大きく違ってくる。
#17 Topophilia(fuzkue / フヅクエ)
◆ 仕込みの一環でケーキを焼いたりしていた阿久津さんは、その日のぶんが終わるとコーヒーを煎れ、ヴァンダのようにソファに身を沈めて、わたしがあちこち動きまわるのを見ていた。もちろん、コカインはなしで(当たり前だ)
#19 Topophilia(fuzkue / フヅクエ)
#11 Topophilia(fuzkue / フヅクエ)
#13 Topophilia(fuzkue / フヅクエ)
◆ 撮影の全体は『Topophilia(トポフィリア)』というシリーズの一つとして撮ることにした。一つ、と言ってもまだ他に作品はないのだけど、これから色々と増えていく予定になっている(多分、本当に、きっと笑)。
◆ 概念としての〈Topophilia(トポフィリア)〉はG・バシュラールが提唱した〈トポフィリ(場所への愛)〉を、イー・フー・トゥアンが英語化し、解釈を加えたもので、著作権フリーなwikiから引用すれば、以下のようなものだ。
〈人と、場所(トポス)または環境との間の情緒的な結びつき〉〈人々が持つ場所(トポス)への愛着〉
◆ アートの世界でトゥアンを引いてくるのは、サイトスペシフィックな作品をつくってる人に多いという印象があって、まあ直ちに具体例を示せと言われても、とっさには出てこないのだけど(あ、ボルタンスキーとか?)、とても援用しやすい概念だ。フヅクエは少なくとも狭義の〈アート〉ではないが、わたしがブログを読んでいる限り、あれは阿久津さんなりのトポフィリア設計(…と言う表現が妥当か分からないが)を表現している〈場所〉なのだと感じられる。
【…じゃんじゃん金が湧いてくる、そこにどんどんやって来る人たちはちゃらちゃらと金を落としていく、でもその人たちの中にはその場所やそこでの時間やその場所を作る人間に対するなんの興味もない、ただ消費される、ただ使われる、インスタグラムにアップされることが主な機能の飲食物や内装があり、それを運んでくるのっぺらぼうの人間があり、記号化した金がなんの感情も理由もなく払われ、それだけ、という場所に僕は立ち続けることはたぶんできない。】
◆ 誰も関心を払ってはいないと思うが、わたしはこのエントリで一度もフヅクエに対して〈店〉とか〈客〉という語を(引用以外では)使っていない。
◆ なぜかと言えば、機能としての〈店〉という側面も満たしているのだから実態しては〈店〉だし、「店以外の何なの?」と言われても即答しかねる上、「(阿久津)本人が店って言ってるじゃんそもそも!」という状態ではあるのだけど、しかし、それでも上のようなテクストを書いている人の実現したい状態に対して、〈店〉という言葉の響きは、なんというか、しっくりこない。なので、同時に、わたしも〈客〉という意識は、あまり持っていなかったりする。
◆ もちろん、ベタに〈店〉をやっている人たちの多くが(それも個人的な店であればあるほど)、どんな業態であれ自分たちの経営する場所が、"記号化した金がなんの感情も理由もなく払われ、それだけ”のものであって良いとしているはずもないのだけれど、フヅクエの場合は、何か(料理とか酒とかサービスとか、あれやこれや)を提供するということ以上に、来訪者と運営者が協力して作り上げる環境と体験を共有するスペース、みたいなものではないか…とわたしには感じられる。
◆ だからこそ、フヅクエを訪れた人間は、数ページ以上に渡る〈テクスト〉(断じて普通のメニュー表とは言えない)をまず読まなければならない。それが「うざっ!」となってしまう人は、二度と足を踏み入れることはない(はず)。わたしには、これは、とてもアート的な態度に見える。環境デザインやアーキテクチャの次元、人間と場所との関係性をデザインし操作、誘導するのではなく、もっとプライヴェートな試みであり、正面から受け入れるか入れないかを強く迫ってくるものだ。
#05 Topophilia(fuzkue / フヅクエ)
◆ 撮影が終わって、近所へ仕入れに向かう阿久津さんとフヅクエを出たのはもう16時に近かった。入居しているビルの一階は理容室になっていて、周辺はリスボンのような再開発の荒廃が進んではおらず、道端でドラッグをやっている住人などもちろんいない。オペラシティ側とも違ってのどかな住宅街入り口という雰囲気だ。ちらほらと居酒屋があり、定食屋があり、公園とドラッグ(!)ストアがある。
◆ どんどんと人がやって来て、ちゃらちゃらちゃりーんと金を落としていくような立地ではない。サブカル消費とも観光客マネーとも遥かに遠い。
◆ 正直、あんなに挑戦的な場所を開くには挑戦的すぎる土地であることは間違いなく、【度し難く暇な日】であるとか【垂れ流される赤字】などという文言が散見されるブログを見ても、当分は世界経済と同様、緊張感溢れる財政状態の日々が続いて行くのだろう。
◆ 今後、運営がどういう方向性になるのか、実際のところさっぱり分からない。突き詰めれば、阿久津さんにも分からない、読めないことだろう。しかし、ともかくひとまず、わたし個人としては、〈実践〉としてのあの〈場所〉にずっと関心を持ち続けてゆきたいとは思っている。
#03 Topophilia(fuzkue / フヅクエ)
(了)