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サクテンの村のネコ


【出発の朝】ブータンについて---25から続く

(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)


1

帰宅のための長い旅のあいだも、日記を書き続けた。そうする必要があった。



「無理だ、なんて今から思ったらダメだ。明るく元気に輝いて生きることが私の義務だと思うのは、荷が重すぎる。私が幸せであることを願っている人もいるのかもしれない。そう信じよう」

「この旅が自分を変えると、過大な期待をするのは強欲だ。ではどうすればいいのだろう。かけがえのない経験、お金を払ったという事情があるにせよ、友情を味わいながら日々を過ごした。こんなに幸福なことがあるだろうか。誰かを愛し、友情を分かち合うこと。それが別の誰かを幸せにするだろうか」
 


バンコクに一泊して、翌日マニラでロサンゼルス行きの飛行機に乗る頃には、旅が終わり帰宅するということを納得できるようになっていた。時間の経過には、そういう効果がある。金曜日の夜、旅の一歩を踏み出してからちょうど3週間後、ただいま、と言って誰もいないアパートのドアを開けた。

私は家に帰った。
 

私のことをよく知っている、ごく親しい人にだけ、ブータンでの経験を話した。
彼らは私の経験について心のこもった質問した。

テレビでブータンは何々だと言ってたけど、本当にそうだった?

などと質問する人はいない。

私がテレビを持たずテレビ番組を見ないことを、彼らは知っているのだ。私は彼らの質問に対する答えを見つけようとした。そしてブータンでの経験について書き始めた。すると旅行中は気づかなかったことがたくさんわかってきた。日記や写真、そして友人たちとの対話が、欠落したパズルの断片を復元するのに役立った。

そのあいだ一時的に、私は世の中への興味を失った。
私が知覚できる範囲に、本質的なもの、大事に考えなければいけない何かがあるとは思えなかった。

仕事に戻り、昼の弁当を食べながら、職場で購読している経済紙を眺めた。
重要なことなどひとつもなかった。

取材し、執筆し、印刷し、配達する価値があるのだろうか?
広告の部分など、すべてがナンセンスとしか思えなかった。

私の意識はカリフォルニアでの実際の生活と1ヵ月前のブータンの記憶を行き来し続けた。

幸福の国なんてない。幸せなブータン人というのはいるかもしれないが、ブータンの人にとって、幸せは求めるものではないように感じた。仏教徒が求めるのは悟りによって転生のサイクルを終わらせること、あるいは救いといってもいいのかもしれない。

幸せは、その過程で見つかる何かに過ぎないのではないか。

でも、私がブータンについてあれこれいうのは意味がない。ブータンは訪問する人によって、さまざまな顔を見せるだろう。そもそも私は、ブータンについてレポートするために旅行したのではない。

実際のところ私が理解したのは、ブータンではなくて自分自身だったような気がする。

旅行中できるだけブータンの衣服を着るようにしたが、ブータンの人からよく「ブータン人みたいだ」と言われた。帰国後、知人や家族に写真を見せると、同じことを言われた。自分で写真を見ても、まるでブータン人だ。はじめは自分に、訪問先の土地に同化する素質があるのだと思った。

でも、岩から墜落した時にできたたんこぶが引っ込む頃には、そうではないと思うようになった。
私にそういう素質があったからではないのだ。ブータンが私を受け入れてくれたからだ。

思い返すと、信じられないくらい受け入れられていた。そうでなければ、あんなにしゃべるわけがないし、あんなに歌うわけがない。あの時、それを聞いてくれる人がいたのだ。そして私はというと、信じられないことも理解できないことも納得できないことも、すべて受け入れざるを得なかった。そうする以外なかった。

たとえ何日間かでも、そういう状態で過ごすことができたのは、奇跡のようだった。

普段の生活で、私の身の回りは納得できないことだらけだ。
そういう時、私は交渉はしない。あきらめるだけだ。そして関わりあうのをやめる。

でもたぶん、私は世の中ともう少し関わりあってもいいのだ。
ブータンを3週間近く旅してわかったのは、そういうことだ。


2

帰宅して3週間半が経ち、また出かけた。年末年始を瞑想センターで過ごすためだ。昨年は砂漠のセンターに瞑想コースの手伝いに出かけて、解散日の前日に大混乱してしまった。でも今年は手伝いではなく、山のセンターでコース参加だ。他の誰かと話す必要はなく、黙って瞑想していればいい。ただ例年、黙って座っていてもそれなりに混乱するし、体調を崩すことも珍しくない。今年はブータンへの旅行のあと、強烈な印象をまだ整理できずにいた。どうしようか迷ったが、結局出かけた。

コース参加は4回目だが、今回は思いのほかスムースにことが運んだ。ブータンで受け入れられて過ごしたという自覚が、自信になった。何かを受け入れられない時、悩むことなく受け流せるようになった。そしてそういう自分を受け入れた。

それでも解散日の前日、メッタの日は消耗した。

この日の午前中に会話が解禁になり、やり遂げたという陶酔感がセンター中を覆い、私を病気にする。昼のグループ瞑想の時間は、瞑想などせず座ったまま足の指をくるくる回してやり過ごした。グループ瞑想のあとはダイニングホールでミーティングだ。瞑想を終えた人々は瞑想ホールから立ち去っていく。消耗しきった私は「しゃべってもよい」環境に入っていくのはイヤだったし、無理だった。

身体にまるで力が入らないのに、精神状態だけが活発で、イライラしていた。グループのメッタの瞑想とは別の、自分の瞑想がしたかった。それは飢えや渇きのような生理的な欲求に近く、ミーティングはサボることにして、そのまま座り続けた。

瞑想センターで瞑想して、何が悪い。

そして誰もいないホールで、息をするのがいやになるくらい、深く瞑想した。
あんなことは初めてだ。


3

瞑想センターでは、瞑想についてあれこれ話すのは奨励されない。私も同感だ。瞑想の経験は個人個人で違う。それぞれが自分の意見を言い始めたら、収集がつかなくなるだろう。

でも、瞑想についての意見交換している友人が一人だけいる。

センター内では瞑想について話さないので、折に触れてメールをやり取りするだけだ。
年が明け、センターから戻ると、その友人にメールを書いた。


新年の挨拶と私のメールへのお返事どうもありがとう。こうやって瞑想についてメールをやり取りして、安全に意見交換できることを、とてもうれしく思う。
 
私は瞑想のやりかたを変えた。

瞑想する時間の長さを決めるのはやめて、心の欲求に従って瞑想するようになった。瞑想したい時に座って、瞑想したいだけ瞑想して、気がすめばやめる。そのほうがやりやすい。瞑想中、やりたいことを全部やればどうせ1時間かかってしまうから、時間なんて計らなくていい。 

年末年始は山の瞑想センターでコースに参加したけれど、今回が今までで一番やりやすかった。直接話す機会はなかったけど、昨年砂漠のセンターでお世話になったATが指導に来ていて、心強かった。いつも瞑想に関連する知識の部分やセンターでの生活の細々したことで悩むのに、今年はそんなことはなくて、瞑想のテクニックの習得に集中することができた。相変わらずメッタの日は苦手で、今年も大変だったけど、ミーティングをサボって一人で瞑想した。この短い瞑想が私の心から不純物を取り除いてくれた。

私は、ようやく自分自身を受け入れることを学び始めたのだと思う。

ブータンでそのことに気付いた。私はブータンで、十分に受け入れられていたと信じているし、その感覚を保ちたいと望んでいる。

>シンプルな生活は大変で手間もかかるけれど、毎日、本当に必要なことだけをして過ごすことができるよね? 

その通りだと思う。山の中の小さな村で、人々は宗教儀式も含め、いろんなことをする。そういうことはすべて、彼らの生活を直接支えている。一生懸命働くだけじゃなくて、村の人たちは楽しむのも好きだ。歌うのも、しゃべるのも好きだ。(車を持たず、手織りの服を着ている人たちが、携帯電話で話しているんだよ!) 実際に会話することで意思疎通して、本当のことしか話さない。こういう生活は、すでにどこかでレポートされているのかもしれない。でもそれを実際に経験することができたのを、本当にありがたく思う。

祈り、そして喜びとともに、

サツキ
 

ブータンについて (完)