大友
(撮影:さえきかずひこ、デジタル編集:東間 嶺)

 2014年11月22日から2015年2月22日まで初台インター・コミュニケーション・センター[ICC]で開催された【大友良英 音楽と美術のあいだ】展に、会期後半である1月23日に足を運んだ。ぼくの個人的な記録によればその前にICCを訪れたのは、2005年3月21日(【アート・ミーツ・メディア:知覚の冒険】展)であり、約10年ぶりの訪問だった。


 今回の【大友良英 音楽と美術のあいだ】展は3つの作品で構成されていた。ひとつめは《quartets》と題された、山口情報芸術センター[YCAM]の大友への委嘱作品であり、これはすでに2008年に大友とYCAM InterLabとの共同開発によって『大友良英/ENSEMBLES』展で発表されたものである。
 ふたつめは2014年に制作された《guitar solos 1》であり、《quartets》と比べると小規模であり、また視覚というよりは聴覚にフォーカスしたサウンド・インスタレーションである。みっつめは【音楽と美術のあいだ】について、というコメントやテクスト(エッセイ)の多様な展示であり、これはあきらかに視覚にフォーカスした内容であった。

 鑑賞者はギャラリーで展開する《quartets》にむかう途中の階段でまず《guitar solos 1》に出くわす。8対のスピーカーが階段の両側に設置され、それぞれのスピーカーから大友によって録音されたギターのフレーズがランダム再生され、それを好きなように聴くことができた。階段を上ったり下りたりをくりかえし、止まり木にとまるトリのような気分で楽しめるのだ。

 すこし歩いて、展示室に入る。暗い。きわめて暗い。《quartets》である。中央に設置された白い立方体の側面にミュージシャンたちの黒いシルエットが投影され、楽器の音のようなものが聞こえてくる。

 このシルエットと音は、カヒミ・カリィ、ジム・オルークや大友ら計8名のミュージシャンがひとりずつ即興演奏を行なった様子を事前に記録したものが流されている。それらの時間的配置はコンピュータによって制御されており、すべての演奏者の音を同時に聴くことはできず、また立方体すべての前面を見渡すことも人間の視覚の特性上、できないようになっている。とても静謐な音空間だが、決して無音の空間があるわけではない。むしろ、つねに音は鳴っている、と言っていい。ところが、鑑賞する側にもたされるのは静けさなのである。これは、言うのは簡単だが、じつにふしぎなことである。


"quartets" - YCAM Otomo Yoshihide / ENSEMBLES

 《quartets》を味わった後、白い部屋に入る。そこで観られる【音楽と美術のあいだ】についてのコメント群はつごう35あり、視覚と聴覚の関係をめぐるいろいろな考えや知見に出会うことができた。といってもそれらのことばから何か引いてそれらしく述べてまわるのはぼくの手に余るので、大友良英本人のことばを彼の著書から引いてこの短いレポートをしめくくりたい。

 大友は2015年1月に刊行した鍼灸師・竹村文近との共著の中で、「音楽を完成させるな」と題して次のように述べている。



 僕はモノを作っていて「完成させるな」と、よく言うんです。そもそも「完成」なんて自分の頭の中だけで完成したと思っているだけ。一人の頭の中の完成像なんて、なんぼのものでもないと思うんです。

 もちろん作り込むことも重要だし、完成を目指すこともありますよ。でも僕は、音楽家のいう「完成」という発想を信じていないんです。だって音楽って人に聴かれて初めて意味をなすわけで、ただ音楽だけという単体をとってできているかできていないかをいっても、なにかが抜け落ちてしまうように思うんです。独りの頭の中で作ったものって世界が小さくなってしまうことが多いなって。

 音楽は演奏している人が完成するのではなく、最終的には聴いている人が音楽にするものだと思うんです。作った側だけですべてが成り立っていたら、余裕もないし遊びもなくて、窮屈なものになってしまうと思うんです。それに演奏している人が複数いたら、それぞれの人の価値観があるわけで、みなが一致して同じ方向で完成度を目指すなんて、なんか気持ち悪いです。

 いい意味で音楽にスキがあったほうが、音楽は広がるなって思います。

(『打てば響く』、NHK出版、2015、pp143-144)
 


 このような発言は今に始まったわけではなく、彼は2008年6月に著した単著『MUSICS』(岩波書店)の中では次のようにも述べている。



「オレが音楽に求めているものはそういうフレキシブルな器用さみたいなものではないんですよ。そういうものではなく、音楽のそもそもの魅力って、なにかもっと切実でフラジャイルな(弱い)ものだと思うんです。それが歌や、あるいは即興演奏の現場ではほとんど裸といっていいくらいあらわになる。そんな人たちが、安全な場所を確保して演奏するのではなく、ある切実さをもってやるアンサンブル、特に即興のアンサンブルにとても興味があるんです。そういう人のほうが、伴奏するとかされるとか、あるいは相手に合わせるだけの関係になりにくいし、相手を支配したりされたりじゃなく、ただちゃんと互いに存在している、ぎりぎりのところで存在し合っている関係の音楽が作れるような気がするんです。それはたぶん、そういう人たちのほうが音楽のフラジャイルさと、そこから逆に生まれる強さみたいなものに、よくいえば正面から、悪くいえば無防備に向かってるからだと思うんです。」(pp143-144)
 


 大友の音楽を長年にわたって真摯に追っているファンからすれば今回の【音楽と美術のあいだ】という展覧会のタイトルや、そのモチーフ・展示内容に特に新しさは感じられなかったかもしれない。しかし、大友良英の、音楽という表現のいとなみにおいて、営々と奏でられている根源的な何かを感じ取れたに違いないと、ぼくは思わずにはいられないのであった。