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【パロへ】ブータンについて---23から続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)

パロのファームハウス

この日の午後、ストーンバスに入りたいかどうか聞かれた。
これは出発前にカルマからもらった旅程表にも書いてあったが、どういうものなのかイメージがわかなかった。

ジャムソーに訊ねると、焚火の中で赤くなるまで石を熱して、その石を水に入れて湯を沸かすのだという。石のミネラルが湯にとけだし、薬効がある。タクサン僧院の帰りに穴から墜落してしまったし、打ち身の手当てにはちょうどいいかもしれない。

入りたい、と言うと、ジャムソーが予約を入れてくれた。場所はパロ近郊の古い農家を改装した建物で、そこで夕食も食べるようだ。ツーリストの多いホテルのダイニングで食べるより、落ち着けるだろう。


パロの町を見物したあとホテルに戻り、7時に3人でファームハウスへ向かった。

トートバッグにタオルと石けんと着替えを入れ、まるで銭湯に行くみたいだ。車は真っ暗な田舎の道を走る。ここだといわれて車を降りると、暗闇の中に古い建物が建っているのがおぼろげに見えて、ちょっと薄気味悪い感じだった。でもこういう所なら、他のツーリストのことを気にしないでゆっくり過ごせそうだ。

パロ地方を治める領主の住宅だったというだけあって、屋敷といってもいい大きさだ。中に入り、座敷のような部屋に通された。テーブルがいくつも置かれ、ちょっと居酒屋みたいな造りだ。他に客はいなかったが、ジャムソーとネテンはスタッフと顔なじみのようで、勝手にくつろいでいる。バスの用意ができるまで、しばらく待つことになった。

あれこれ話をしながら待っていると、40歳前後の男性が、小さな女の子を連れて現れた。こんばんは、日本の方ですか、と挨拶された。日本語だった。


ドクターチェンガ

ブータンの人は容貌や仕草が日本人と似ている、という話は書いた。今にも日本語をしゃべりそうな人は多かった。けれど、本当に日本語をしゃべる人は初めてだった。お互い日本語で自己紹介した。

彼の名前はチェンガ・シリンといった。
奨学金を得て、鹿児島大学で5年のあいだ獣医学を学んだのだという。

日本語は流暢で、会話には不自由しない。ブータンに帰国してからも、日本の友人との交流は続いているという。きっと人とのつながりを大切にする誠実な人柄なのだろう。

現在はパロの行政区で、家畜の管理をする部署を取りまとめている。人口よりも牛の頭数の方が多いような土地だが、行政区には彼を含めて2人しか獣医がいない。毎日、目の回るような忙しさだという。

このファームハウスは築250年という古いもので、歴史的な建築物であるにもかかわらず朽ち果てた状態だったのを、彼と彼の妻が所有者から借り受け、修復して運営しているそうだ。そういう事情のためか、利益を出さなければいけないビジネスというよりも、公共の保養施設みたいな落ち着いた雰囲気だった。

30年近く前に鹿児島を訪問した時の記憶を頼りに、彼と鹿児島の話をした。それから、私が訪問した東ブータンの話。日本語で会話するのは久しぶりだ。

ついでに言えば、日本語で「仕事ではない」会話をするのは、本当に久しぶりだった。

ドクター・チェンガが席を外すと、ジャムソーが言った。

「最後の日に、やっと日本語を話すブータン人に会えたじゃん」

なんだか面白くなさそうだ。自分の理解できない言語で私たちが話すのが嫌だったのかもしれない。でも私だって、ジャムソーとネテンのゾンカ語の会話は全然わからない。お互いさまなんだから、それくらい大目に見てくれればいいのに。

ファームハウスで働く女性が、バスの支度ができたと呼びに来た。バスに向かう時には、ジャムソーたちをあまり待たせては悪いなと思ったが、湯に浸かった途端にそんな殊勝な考えはどこかへ吹き飛んでしまった。そして身体がふやけるまで湯に浸かった。

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完璧な人なんていない

長い風呂をすませて、座敷に戻った。旅行の日程は事実上終わりで、やらなければいけないのは、ああよい旅だったと感慨にふけることくらいだった。湯に浸かった脱力感が心地よかった。夕食の時間を気にすることはない。ブータンの夕食は、どうせゆっくりだ。実際、いつまでたっても料理は出てこなかったが、特に空腹でもなく、ずっとだらだら待っていてもいいくらいだった。

ここで働いている若い女性が、アラを持ってきてくれた。

キレ、という名前の彼女の故郷は東ブータンのトラシガンだという。小さな国だから当然なのかもしれないが、故郷を離れて働くブータン人も珍しくない。ジャムソーもネテンもそうだし、トレッキングの時に世話になったギレもドルジもそうだ。

キレは明日からしばらく帰省するそうで、トラシガンまで夜行バスで2日もかかる、と言いながらもうれしそうだ。大人びた顔立ちの美人さんだが、まだ21才だという。そう言われれば、話す様子にどこかまだ幼いところがあった。ジャムソーが、お母さん何歳なの?と聞くと、ええと、私はお母さんが23歳のときの子供だから…と計算している。私は頭の中で彼女の母親の年齢を計算し、ついでに自分との年齢差も計算した。キレちゃんの母親、私より8歳も若いのか。

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中央がキレちゃん。テーブルの上の赤い容器にアラが入っている。


ぐい飲みのような小さな器に、キレちゃんがアラを注いでくれた。

アラを飲むのは、トレッキング以来だ。ブータンの最後の夜に、アラをいただくのも悪くない。ジャムソーは酒を飲まない。私とネテン、キレちゃんの3人で乾杯した。

珍しくネテンが自分のことをしゃべった。

「ぼくさ、ちょっと代謝がおかしくて、食べてもすぐに腹が減るんだよ。満腹まで食べても3時間座ったままテレビ見てると、もう減ってくる。特に不都合はないから、治療もしないけど」

ネテンはいつもよく食べているのに、どうしてあんなに身体が細いのだろうと不思議だったけど、そんな事情があったのか。食べ物が不足する極限生活にでもならない限り不都合はないだろうが、心配といえば心配だ。健康に難があるのは、ジャムソーも同じだ。

「頭のあたりが時々変な感じになるのが、どうにかなんないかと思ってるんだけどね」
「医者には行ったの? 検査とか受けないの?」
「調べてもらったことないよ。ブータンには専門医がいないし。国外に出る機会があれば診てもらおうかなって思うけどさ」

見た目が健康でもいろいろあるものだ。ひとめで病気とわかる感じなら周囲も納得してくれるが、一見健康だとそれなりにやりにくい。健康な身体、完璧な身体ってどんなものなのか。だいたい、「完璧な状態」で生まれる赤ちゃんなんているのだろうか。

人間は、どこかおかしいのが、おそらく普通だ。
完璧な人間がもしいたら、美しい怪物のようなものかもしれない。もし誰かが「私は完璧だ」と信じていたら、たぶん狂人だ。

私の身体にも、興味深い不具合がある。
手の指の筋肉がどこかおかしくて、右手も左手もピースサインが作れない。

空手の手刀の形も、できない。
かっこ悪いからきちんとやれと言われても、できないものはできない。

それと関係あるのかどうか、楽器を演奏するときにややこしいトリルがあると、できない。練習不足だと思っていたが、それだけではないらしいと気がついたのは、すっかり大人になってからだ。そういう不具合を自分の個性だと認めて受け入れられるようになったのも最近だ。そしてやっと、「やってもできない」と他人に言えるようになったのだ。そして、それを信じる人もいれば、信じない人もいる。

私はまるで形になっていないピースサインを手で作りながら言った。

「誰だってどこか、ひとつやふたつ、おかしいところがある。完璧な人なんていない。絶対にいない」

酔っぱらうほど飲んだとは思えなかった。


キレちゃんの恋愛観

ずいぶん遅くなったが、まだお料理は出てこない。キレちゃんがわたしに、よくある質問をした。どうして結婚しなかったの?

「どうしてって、別にする理由がなかったから…でも米国だと、私くらいの年齢で結婚する人も珍しくないんだよ。この頃はインターネットで相手を探すのも普通だし」
「インターネット?それって、どうやるの?」
「たぶん、そういうサービスのサイトで会員登録して、年齢だとか、どんな人が好みかとか、趣味とか、そういうデータを送るんだよ。そうするとコンピューターがぴったりの相手を選んで、あなたにはこういう人がいいですよって、教えてくれるんだと思う」
「そんなんで、うまく行くの?」
「そういうサービスで知り合って結婚する人もいるから、うまく行くんじゃないかなあ。自分でやったことないから、わからないけど」
「私はやだな~」
「キレちゃんはどうやって付き合う相手を探すの?」
「パーティとかで男の子を探すのって、好きじゃない。友だちと付き合うのがいいなあ」
「友だちって?」
「共通の友だちがいるとか」
 「あー、そういう意味か」

キレちゃん、なかなか保守的だ。

「いろいろ探すんじゃなくて、この人が大好きっていう人と付き合って、結婚するの」

…なんて言えばいいのかわからなかった。気持ちの通じ合った男女なら結婚するのが当然で、そうやって結婚すれば、必ずうまく行くと信じている年頃なのだろう。私は結婚したことはないが、そんなに簡単な話ではないことは、なんとなくわかる。

「お互い好きあっていても、その気持ち以外にもうひとつ何かないと、人間って結婚しないような気がする。例えば、私は学生ビザで米国に住み始めたんだけど、学生ビザって学校を卒業すると切れちゃうの。ビザが切れると、もうアメリカには住めない。だから女の子の留学生で、アメリカ人のボーイフレンドがいる子は、学校を卒業して学生ビザが切れた時に結婚する人も多かった。もちろん、アメリカに住みたいから好きでもない男の子と結婚するんじゃなくて、ボーイフレンドとも愛し合っているけれど、それだけじゃ結婚しないのよ。なにかもうひとつ理由がないと、ダメなの」
「サツキさんは、学生ビザが切れたとき、どうしたの?」
「私は運がよくて、仕事が見つかったの。だから労働ビザが取れたの」
「そうなんだ。私もアメリカに行って働きたいな~」
「…正直なところ、勧められないなあ。いまのアメリカで、労働ビザの取れる仕事を探すのは難しいから」

人それぞれなのかもしれないが、キレちゃんが米国で苦労して職探しをしているところなんて、想像したくなかった。まだ若く、ファームハウスのお客さん担当の仕事をするキレちゃんに、就職の決め手となるような技能があるとも思えなかった。

横では、ネテンがまじめな顔をして聞いていた。
女の子向けの話題かなと思ったけど、男性にも興味のある話なのかもしれない。


儀式

すっかりくつろいでしまったが、やっておくことがあった。ジャムソーとネテンに、チップを渡さないといけない。キレちゃんが席を外したタイミングで、ネテンにチップの入った封筒を渡した。

「ネテン、いつも運転ありがとう。道の悪いところが多かったから、運転も大変だったでしょう。ネテンは自己管理がしっかりしているから、移動距離が長いときでも、いつも安心だった。それから、車に乗っている間、歌うのもとても楽しかった。本当にありがとう」

にこにこしながらも、お互いちょっと寂しい。
ジャムソーにも封筒を渡さないといけない。ブータンで渡すチップは、これが最後だ。さて、なんて言おうか。

「…ジャムソー、いろんなことがあったけど、何もかも、どうもありがとう。ジャムソーのおかげで、いろいろな人と話ができて、いろいろな経験ができた。トレッキングの時は安全に気を使ってもらって、ありがたかった…。私と18日間も旅行できるのは、ジャムソーだけだよ。」

私はひとりで、気兼ねのない旅をするのが好きだ。友人や家族と旅行したことはあるが、長くても一週間だ。でもブータンにいるあいだ、車で移動する日程の時は3人、トレッキング中は6人で行動した。ジャムソーは最初から最後まで、通しで18日間一緒の行動だ。仕事とはいえ、腹の立つことや困ったことも多かったに違いない。本当に、よくがんばってくれた。

9時近くなって、やっと料理が運ばれてきた。食事はキレちゃんが同席してくれて、おかげで湿っぽくならないですんだ。


宿題

食事が終わったのは10時をだいぶ回った時刻だった。考えてみれば、ブータンで夜遊びなんて初めてだ。でもネテンの話だと、ブータンの人も夜遊びするらしい。ネテンもクラブに行ったりするという。でも最近はあまり行かないんだ、とキレちゃんみたいなことを言ってる。

ブータンにいる間、ずいぶん写真を撮った。ジャムソーとネテンが写っている写真もたくさんあり、本人たちに渡したいが、あとでファイルやリンクを送るのは面倒だ。結局、ジャムソーのノートブックPCにファイルを全部コピーすることにした。

ホテルに戻り、ロビーまでPCを持ってきてもらった。デジタルカメラのカードにはすでに1,000以上のファイルがあり、全部コピーするのにずいぶん時間がかかった。やっとコピーが終わり、パソコンを返す。ジャムソーが言った。

「明日は9時にホテルを出る。でも空港はすぐ近くだし、混んでいることなんて絶対ないから、慌てなくて大丈夫。それじゃ、ゆっくり休んで」
「あはは、だめだよ、まだ宿題がある」
「宿題?」
「評価シート」

夕方、パロの町からホテルに戻る時に、車の中で封筒をもらった。切手を貼った封筒で、あて先はブータントラベラー取締役。中身は評価シートだった。シートを記入して封筒に入れ、封をしてホテルのフロントに渡すように、と説明された。きっとカルマが読むのだろう。

ガイド、ドライバー、そしてトレッキングの内容について質問がいくつもあり、大半は5段階評価だが、記述式のものもあった。評価シートなのだが、私にとっては感謝の気持ちを表現する最後の機会でもあり、できるだけ丁寧に書きたかった。

部屋に戻り、デスクに向かい、電子辞書を引きながらシートを記入した。旅行中ジャムソーはもちろん、ネテンにも、トレッキングのクルーにも、いろいろな場面で助けてもらったことが次から次へと頭に浮かんだ。

小さい字でびっしり記入して、それから日記を書いて、就寝は真夜中になってしまった。


Special thanks: Dr. Chenga Tshering
執筆協力:チェンガ・シリン


【出発の朝】ブータンについて---25へ続く