曽野綾子問題で不思議に思うのは、どうしてこれほどまでに(一部の?)人々はテクスト論を理解しようとしないのだろうか、ということだ――後日譚としてラジオでのインタビューの文章も参考になる――。テクスト(端的に言葉といってもいい)は作者の意志や意図を離れて流通する。読者は特定の共同体で囲わない限り、メディアが大きくなればなるほど、作者の来歴や思想傾向や心情=真情を斟酌しない。し、たぶん、するべきでもない。

 いや、時評などしたいわけではない。そういう営みは、日々のニュースを咀嚼するのに必死なコメンテーターや新聞購読者に任せておけばいい。私が言いたいことはとてもシンプルだ。つまり、恋することというのはとても大切なことだ、ということ。

 一転して。ご存知かどうか知らないが、私は一貫して、友愛でもなく性愛でもなく恋愛に興味のある男であり、常に恋愛のことについて考えているのだが、どうしてそうなってしまったのかをボンヤリ考えてたら、ついに答えが出た。簡単にいうと、恋愛において人は初めてテクスト論者になれるのだ。

 どういうことか。恋愛のコミュニケーションにおいて、私たちは日常的に使っている意味の体系を離れて、他者固有の意味の体系(ルール)を把握しようと努力する。彼女の(当然、彼でもよい)微笑みは、自分に対する好意を意味するのか、それとも万人に向けたお愛想なのか? それは「サイン」(記号)なのか? 恋愛は恋する当事者に記号と非記号の境界を行き来させる。
 
 サインの読み取りに失敗すれば「鈍感」と呼ばれ、サインと誤認すれば「キモイ、勘違い野郎」と呼ばれる。だからこそ深読みと問い直しの内省的な渦のなかで、解釈の枠組みが不断に問い直され、恋する者は未知なる記号に関するデリケートな取り扱いを要求される。未知であるのは、それが他者の記号であり、他者の意味であるからだ。他者の記号体系は、国語辞典のようにルール・ブック化できない。なぜなら、その体系は場合場合の文脈に依存し、その他者が固有の仕方で習得してきた独自の歴史に基づいて成立しているからだ。
 
 この緊張に耐え切れないとき、人は巷に流通しているルール・ブックに頼る。「コクるのは男に決まってるでしょ」とか、「そんな薄着なんだから誘ってんだろ」とか、「それってOKってことと一緒でしょ?」とか(勘違いさせるお前が悪い問題)。つまりは、一般性や常識を他者の記号体系に持ち込もうとする。だが、これは必ず失敗する。たとえ一般性の次元で正しさを獲得したとしても、他者の愛の記号を強制することはできない。なぜならば、強制した瞬間、それは他者の記号や他者の意味ではなくなるからだ。他者の記号を、一般的な愛の記号体系に従属させたとしても、それは他者の愛を獲得したことにはならない。
 
 恋愛はそれ故、他者の記号の自由を望みつつ、同時に、他者の愛の記号を専有したいという二律背反した欲望に板挟みにされる。
 
 正しく、文学テクストとはこのように読むべきものだ。テクストは無限の解釈可能性に開かれている(自由)。けれども、読み手はそのなかでも最も快楽に富んだ真の解釈に到達したいとも望む(専有)。そして、彼が行うのは恋愛と同じく「記号のデリケートな取り扱い」、つまりは、テクストの独立性や代替不可能性――『或る女』と『或る女のグリンプス』は別のテクストである――を尊重しつつ、テクストの個性を形成する一字一句の意味や配置にこだわり、微妙な文脈の連続と不連続に敏感になりながら、自分のなかで反芻的に読みを深めていく作業に他ならない。先行研究や文学理論や作家といった「公式」でテクストの個性を回収してはならない。それはルール・ブックを頼りに、他者の愛の強制を(自己)正当化しようとするパワハラ(テクハラ?)でしかないからだ。恋することをやめて、自分の体系を当然だとして世界に押しつける、そこにハラスメント(というよりも差別の?)の本質がある。

 恋愛は一般的なルールを脱臼させるということだけが一般化できる反ルールの営みである。別言すれば、恋愛の記号論は決してマニュアル化できない、一回性の記号論である――反マニュアルのテクスト、西尾維新『少女不十分』や映画『LEGO(R)ムービー』を想起せよ――。
 
 私の言葉遣いでは、テクスト論者とは、常に恋するテクスト論者である。というよりも、恋する者は自分が自明だと思っていた意味の体系から離れて、あらゆる読みが可能であるような、またあらゆる読みを拒否されるような謎めいたテクストに向き合うことを要請されるテクスト論者であるはずだ。そして私は、テクスト論者のテクストを愛することはできるが、そうでないテクストに興味をもつことができないのである。
 
 よく言ってることだが、文学という学問のいいところは「君が好きだ」と「君が好きだよ」の差異を考えられるという点にある。瑣末な差異、しかし決定的な差異。徹底的にデリケートであること。どんなことがあっても頑なにデリカシーを死守すること。この語義矛盾した態度こそが、今後、大きな武器になるはずだ、と最近よく感じている。