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丘の上にあるチミラカンの寺。周囲は公園のようになっていた。


【プナカへ】ブータンについて---19から続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)

チミラカンの寺で

プナカゾンを見学できないのは、残念というより、そういう巡り合わせのような気がした。もしかしたら将来、年取ってから来ることがあるのかもしれない。あるいは、見る必要のない場所なのかもしれない。

SUVに乗り込み、チミラカン寺のあるメッシナに向かう。プナカからは少し距離があり、ティンプーへ向かう途中だ。ネテンが道路沿いに車を止め、そこからチミラカンまで、水田の間を通る村の道をジャムソーと歩く。プナカゾンと同様、ここもいちおう観光スポットだ。車を止めて、さらに歩かなくてはいけないから、周辺が観光客でごった返しているということはないが、ガイドに付き添われた欧米人シニアのカップルがちらほら参拝している。

私もいずれは年を取るからこんなことを考えてはいけないのだが、どこもお年寄りのツーリストばかりで、それを眺めていると自分まで老け込んだ気分になる。ガイドに手を引かれた白人のおばあさんが、寺へ続くゆるい坂道を大儀そうに上って行く。

東ブータンでトレッキング中に出会った、時には幼いと思えるほどの顔立ちの人たちが懐かしくなった。

この日はジャムソーはおとなしく、落ち着いた様子だった。食事の場所についてリクエストを出すにはいいタイミングかもしれない。歩きながら、切りだした。

「頼みたいことがふたつあるんだけど」
「どんなこと?」
「ひとつ目は、食事する場所のこと。これは個人的な好みだけれど、昨日ランチを食べたレストランや夕食を食べたホテルのダイニングみたいなところで食事するのは好きじゃない。観光客だらけの場所で、一人で食べるのは落ち着かない。私がひとりで旅行する時には、絶対にああいうところで食事しない。今晩の夕食はもう手配しちゃっただろうから、その通りでいい。でも明日も一人で食べるんだったら、観光客じゃなくて町の人が普通に食事する店に行きたいから、そういう場所を探してほしい。おねがい」
「…了解」
「それからもうひとつ。身体の調子が悪かったら、そう言ってほしい。必要なら方策を考えるから。わかった?」
「うん」

坂道を登り切って、チミラカンに着いた。寺の前は小さな公園のようになっていて、大きな菩提樹の下にベンチがあった。プナカゾンの見学をあきらめたので、時間はたっぷりある。特に疲れてもいなかったが、ベンチに座った。ジャムソーがチミラカンの寺と、寺にゆかりのあるドゥクパ・キッレという聖人について話し始める。

15~16世紀の実在の人物だが、型破りなラマ僧だ。ディバインマッドマン(聖なる狂人)というニックネームがついていて、彼にまつわる面白い話がたくさん伝わっている。でもジャムソーは、いきなり話し始めなかった。

「ディバインマッドマンの話、聞きたい?」

昨日の車中で私がジャムソーのおしゃべりについて行けず、集中力が切れてしまったのを、ネテンが伝えたのだろう。食事の段取りもそうだが、私に聞かせなくてもいい、あるいは聞かれたくないことを、ふたりでゾンカ語で話しているのだ。

地名などの固有名詞が出てこない限り、私はゾンカ語の会話の内容は分からない。でも何を話したのか、状況から推測することはできる。米国に住んでいて、やろうと思えば私も同じことをすることができる。米国人の目の前で日本語で、あるいは日本人の目の前でスペイン語で、内緒話をすることは可能だ。でも、普通やらない。たとえ会話の内容が当事者を思いやる内容であっても、本人たちについて内緒話をしていることがバレた時、どんな印象を与えるか予測できないからだ。

その逆に、どうせわからないだろうと思って私の目の前で私についてスペイン語で話すヒスパニック系の米国人も時々いる。南カリフォルニアは、そういうことをするのに不向きな場所だ。人種的な外見と使用言語が一致しない人間は珍しくない。生活するなら、注意する必要がある。

でも、カリフォルニアとは文化環境が違うブータンでは、ネテンもジャムソーも、そんなことを気にする必要はないのだろう。もしかしたら私の目の前でゾンカ語で内緒話されたかもしれない思うと面白くなかったが、気を使ってくれるのはありがたかった。

私は、ディバインマッドマンの話にそんなに興味がある訳じゃなかった。でも他に話すこともないし、時間は余るくらいある。お気に入りの聖人について話ができれば、ジャムソーの気分も回復するかもしれない。私は彼に言った。

「聞きたい。話してくれる?」

ジャムソーは話し始めた。ただ、夢中になって話しているという様子ではなかった。話が終わると、チミラカンの小さなお堂に参拝した。有髪の女性の姿の本尊がある、確かにちょっと奇妙なお寺だった。僧院があり、少年僧たちに頼まれて少額の寄付をしたら領収書を作ってくれた。ジャムソーが私の名前の書き方を説明している。

「サ…ツ… ツ… キ…」

少年僧が一生懸命に私の名前を書いた領収書をもらった。こんな丁寧な領収書を用意してくれるのだったら、もっときちんとした金額の寄付をすればよかったと、後悔した。


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メッシナのあぜ道で

チミラカンの寺が建つ丘を下り、刈取りの終わった水田を眺めながらあぜ道を歩いた。穏やかな田舎日和で、わくわくするような観光の日というより、まるで私の日常の普通の一日みたいだ。むこうから小学校低学年くらいの女の子がふたり、ふざけながら歩いてくる。人見知りしない屈託のない様子で、私に「ピクチャー」と話しかける。

「写真を撮ってくれ、と言ってるんだよ」

ジャムソーが教えてくれた。チミラカンを訪れるツーリストが、こういう子供たちの写真を撮ることも多いのだろう。場所が変われば、子供の遊び方も変わるものだなと思う。せっかくだから、一緒に撮ろうか。ジャムソーに頼んで、その子たちと写真を撮ってもらった。

そして、カメラのディスプレイで、撮れた写真を見せてやった。

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「ほら。気に入った?」

女の子たちは写真を見て、お互い何か言い合って、また楽しそうにケラケラ笑いながら行ってしまった。その子たちの後姿を見送り、歩き始めた時だった。空耳かと思った。

「可愛い」

という言葉が聞こえたのだ。日本語だった。

ジャムソーとネテンが食事の時に「いただきまーす」という以外の、日本人の話す日本語を最後に聞いたのはいつだっただろう…。旅行に出発する金曜日、午前中だけ出勤して会社で働いた時だ。会社…そう、そうだ、私はカリフォルニアで、会社勤めしているのだ。

現実に引き戻された、というのは正しくない。この瞬間、私はブータンのメッシナで、ブータン人の服装をして英語を話しながら、あぜ道を歩いていた。それが現実だ。それなら、カリフォルニアで会社勤めしているわたしは、いったい誰なのだろう?

まるで他人が私の記憶に不正にアクセスして、無断でファイルを上書きしていったような不快感と違和感におそわれた。私の耳に飛び込んできた日本語の言葉は、この場所では不吉以外の何物でもなかった。

考えてそうしたわけではなく、すべて条件反射だったが、正しい行動だったと思う。私は頭を90度だけ後ろに回した。視界の端に2~3人連れの日本女性のツーリストの姿を捉えることができた。距離は30メートルから50メートル。彼女たちもあの子供たちと写真を撮るだろうから、私には注意を向けないだろう。私はキラを着ていれば、遠目にはブータン人だ。後姿なら、日本人だとバレない自信はある。

私は正面を向いて、足早に歩き出した。

「ネテンが待っているから、行こう」

ジャムソーが追いかけてきた。

「サツキ~!」

うわ、しまった!これじゃ、日本人だということがわかってしまう!
ブータンに入国した時に、ゾンカ語のニックネームをつけておくんだったと、今頃になって後悔した。

でも、うまい具合に、子供たちが日本人ツーリストの注意を引きつけてくれたようだ。後ろを見なかったからわからないが、ツーリストたちは私の方へは歩いてこなかった。ありがたい。カディンチェ、子供たち。

あとで落ち着いて考えたが、この対処は正しかった。ツーリストたちと自己紹介することになれば、訪問地や旅行日程が話題になるだろう。そしてその後、お互いにうらやましさと侮蔑を感じながら、にこやかに別れることになったのではないだろうか。


ロベサの市場で

SUVに乗り込んで出発し、しばらく行くとロベサという小さな集落があり、そこで停まった。ジャムソーは、ここでしか売っていない米粉のお菓子があるから10分だけ市場を見物してきていいよ、と私に言い、雑貨屋へ向かっていった。何か買い物があるのだろう。

道路を挟んで雑貨屋の向かいが、市場になっている。他の町の市場と同じで、売っているのは野菜だ。とりどりの野菜が売られているのを見物した。ジャムソーが言っていた菓子も売っている。メイクーという、私の握りこぶしくらいの、米粉でできた紙ふうせんのような菓子だ。

ばら売りはしないというので、大きなビニール袋ごと買った。

売り子の女性が、日本から来たの?と聞いてきた。この市場に立ち寄る日本人のツーリストもいるのだろう。売り物のグアバをプレゼントしてくれて、うれしかった。彼女と話していると、買い物をすませたジャムソーがやって来た。もうそろそろ車に戻って出発だと思ったが、彼は私の肩を指でトンと叩いた。

「尼さんだよ」

振り向くと、私のすぐ後ろに紅い衣を着た人物が立っていた。ジャムソーは尼さんだと言ったが、小学校高学年のスポーツ刈りの男の子にしか見えなかった。この時までに、幼い年齢で自発的に仏門に入る子供たちについてジャムソーと話したことが何回かあった。また、瞑想センターでの経験から、尼僧院の暮らしに関心があると話したこともあった。ジャムソーはそれを覚えていて、尼さんがいると教えてくれたのだ。

自己紹介をして、話し始めた。ジャムソーが通訳してくれた。

「何年くらい仏教の勉強をしているの?」
「10年」

話し始めてすぐにわかったが、とても落ち着いていて無駄のない受け答えだ。ジョンカーテンのキャンプ場で出会った、ノルブ・サンゲを思い出した。

「あなたはまだとても若いのに、もう10年も勉強しているの? 勉強し始めたとき、何歳だったの?」
「5歳」
「家族の人に、尼さんになるように勧められたの?」
「いいえ、自分でそうしようと思ったのです」
「親戚に尼さんとかお坊さんがいて影響を受けたとか?」
「親戚にそういう人はいないんです。自分で決めたんです」

こういうことを話す時、必要以上ににこやかでも、深刻でも、大げさでもない、普通の態度でいられるのが、普通ではないと思った。宗教に深く帰依しているという事情もあるのだろうけど、15歳前後である彼女が、こういう態度で私と会話していることに深い感銘を受けた。

それに比べると、52歳の私の言動はいかにも幼かった。いま思うと、本当に失礼なことを言ったものだと、恥ずかしくなる。

「あなたは、私みたいだ」
「なぜ?」
「私も、一人で瞑想を始めたから」

このあともう、何も話すことはなかった。ただ、会わなければいけない人と会って、話ができて、それが完結したという感覚から、私は彼女に手を差し伸べた。

彼女は、私の手を両手で受けた。
そして、ペコリと頭を下げた。

サクテンで雨の降る夜にリンチェンと別れたときの様子がフラッシュバックして、私は自分の左手を彼女の右手に添えた。5歳、まだ人間の生活のイメージもつかめていない年齢で、仏門に入る決意をする子供がいるのが不思議だった。でも考えようによっては、大人になってから苦しみぬいて信仰の決意をするより、幸運なのかもしれない。


ドチュラの峠で

いよいよ首都、ティンプーに向かって出発だ。期待より、心配の方が多かった。きっとどこへ行っても、ブンタンやプナカ以上にツーリストが多いだろう。ブンタンで知り合ったカップルは、「ティンプーはわりと普通の都市だった」と言っていた。私が見たくないような何かが待ち受けているのだろうか。

道路工事の通行止めの時間に合わせて出発したが、物事が予定通りにいかないのは途上国の旅行の常だ。

三カ所ある通行止め地点のうち、最初の地点は予定通り通過することができた。ところがそのあと、細い山道ですれ違いのできない大型車が2台、道路を完全に塞いでいて、身動きがとれなくなってしまった。上り方向も下り方向も、その大型車の後ろにびっしり車が続いて、その地点から後戻りできないのだ。もう昼を過ぎた。お腹は空いていなかったが、何も食べないでいると気力に影響しそうだ。ロベサで買った、メイクーの袋を開けた。

「ネテン、食べなよ」
「カディンチェ。もらうよ」
「ジャムソーは? メイクー、食べない?」
「いらない」

後ろを見ると、ジャムソーは後部シートでぐったりしている。大丈夫なんだろうか。私はメイクーを食べた。ぱりぱりした食感で、極薄のサラダせんべいみたいだった。ただ、塩はもっとうんと軽い。米粉でできているだけあって、ひとつ食べるとそこそこお腹がいっぱいになる。

そうだ、グアバがあった。ペットボトルの水で洗って、ジャムソーに渡した。

「果物は身体にいいから、食べられそうだったら、食べて。もし今すぐ食べないなら、このまま持ってて、あとで食べればいい。メイクーもここに置いておくから、いつでも好きな時に食べていいんだよ」

ずっと車の中に座っていてもしょうがないので、降りて、外を歩いた。ネテンも降りて、他の車のドライバーたちと情報交換している。片側一車線の山道とは言っても、首都とプナカを結ぶ幹線道路だから、そこそこの交通量はある。うっそうとした森の中、何十台もの車が数珠つなぎになって停まり、その周りをたくさんの人がうろうろ歩き回っているのはおかしな眺めだった。

30分近く経ち、どうやら車が動き出すようだった。ネテンとSUVに戻った。後部シートに置いたメイクーの袋をちらっと見たら、ひとつだけ減っていた。なんだか安心した。

ふたつ目の通行止め地点に到着したが、閉まった後で、一時間近く待つことになった。そこを通過し、ドチュラの峠のレストランでランチ休憩になったのは、もう3時に近かった。日本に昔よくあった展望レストランみたいな所だったが、時間が時間だし、もともと観光客が押し寄せるところでもないのだろう。ガランとしたダイニングホールのはるか彼方のテーブルで、一組のツーリストが食事しているだけだった。

いつものようにひとりで食べるものだと思っていたが、ジャムソーたちが同じテーブルに座った。またゾンカ語で内緒話して打ち合わせたのだろうか。他のツーリストがいない環境なら別にひとりで食べてもいいのだが、いちいち説明するのは面倒くさかった。

いつもたくさん食べるネテンが、今日は小食だった。

「いつもより、食べる量が少ないんじゃない?」
「ちょっと風邪気味なんだよ。君は? お腹すいてんじゃない?」
「車が止まっている間にお菓子食べたから、わりと平気」

私はネテンに風邪薬を渡した。

「これ、眠くならない風邪薬だから、飲んだらいいよ。今日は家に帰るんでしょ。身体が休まるといいよね」

今晩、彼らは久しぶりにティンプーの自宅に戻る。ツーリスト相手のドライバーやガイドが仕事で自宅を離れるのは仕方ないし、仕事がなくてずっと家にいるよりよほどいいのだが、こんなに長いあいだ旅行させて、なんだか悪いことをしたような気分だった。

食事を終えて外に出ると、ジャムソーが言った。

「天気が良いと、ここからヒマラヤが見えるんだけど。今日はダメだなあ…」

ドチュラの峠も標高3000メートルを超える。寒くて曇り空の、さみしいお天気だった。私は雨女ではないけれど、『霧女』かもしれない。ブータン滞在中、徒歩や車で『峠』と名のつく場所をずいぶん通ったが、いつも深い霧で、晴れていたことなんてなかった。町にいる時は青空を見ることもあったけど、いつも春霞のように薄くガスがかかっていた。

見えるはずのものが、たまたま見えないと言われると残念な気もするが、もう十分いろんなものを見たように思った。もう、これ以上はいい。他人を巻き込んで旅行するのに、いい加減疲れてきていた。


【首都、ティンプー】ブータンについて---21へ続く