【ガイドたち、ツーリストたち】ブータンについて---18から続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)
ブータン人のふりをして
9時過ぎにホテルを出発。この日の目的地のプナカへ向かう前に、ブンタンの町の郵便局でポストカードを投函した。車に乗り込み出発しようとすると、一人の男性がネテンに話しかけてくる。ゾンカ語で話しているが、「プナカ」と言っているのは聞き取れた。ネテンとの短いやり取りのあと、どうしてなのかわからないが、男性は会話を英語に切り替えた。
「カネは払う」
「ゲストがいるから、ダメだよ」
ネテンも英語で返事した。男性が車の中をのぞき込む。私と目が合うと、何やら納得した様子だ。あきらめ顔で車から離れて行った。ネテンはギアを入れ、車は走り出した。
「ヒッチハイク?」
「そう。プナカまで行きたいんだって」
私はキラを着ていたので、ツーリストではなくブータン人が3人乗っているように見えたのだろう。ブータンの町々は、長距離バスで結ばれている。山道でそういうバスとすれ違うことも多かったが、マイクロバスに満員の乗客を乗せ、スピードも遅い。私たちは5人乗りのSUVに3人で乗っていた。たとえお金を払っても、ヒッチハイクできればバスより快適だし、間違いなく早い。
今日はプナカまで200キロの山道を移動する。私は助手席に座って景色を眺めていればいいが、ネテンは大変だ。ジャムソーは相変わらず元気がない。車が山道に入ると、眠ってしまった。
「ジャムソーは一体どうしちゃったの?」
「調子よくないって言ってた」
「それは私も聞いたけど、健康状態に問題でもあるのかなあ?」
「頭のあたりが何だかおかしいって、時々言っているんだよね。でも大したことないよ」
仕事仲間のネテンが大したことないと言うなら、本当に大したことないのだろう。誰でも調子の悪い時はある。ガイドしてもらう私としてはいささか都合が悪かったが、自分の都合ばかり考えてもいられない。
昼ごろ、トロンサのゾンに到着。
30分だけという条件付きで見学しに行った。他の町のゾンと同様、高台の気持ちのよい場所に、きれいに手入れされた建物がバランスよく配置されている。いままで見学したゾンと比べて、トロンサゾンの建物の細部の装飾は格段に美しかった。全体の規模も大きく、迷路のようなゾンの中を歩き回るのは楽しかった。それぞれのお堂の中も見てみたかったが、時間がないのであきらめた。
今日の目的地はまだまだ遠い。
ここであまり時間をかけられないのだ。
自分はどこで何をしていても自分
5分遅れで車に戻り、慌ただしく出発した。
車は小さなトロンサの町を出で、また山道を走り続ける。車が止まり、昼食だと言われたのは3時近かった。道路わきに食堂がある。ジャムソーたちはダイニングルームの外に用意された『ブータン人専用席』で食べるようだ。ひとりで中に入ると、小さなダイニングルームの中は団体客やカップルのツーリストで満員だった。たぶん、ここ以外に食事するところがないのだろう。
落ち着いて食事する場所とも思えなかったので、出口に一番近いテーブルに座った。
こんな所にいるのは自分らしくなくて、たとえ数分でも気分のいいものではないが、そんなことを気に病むのは意味がない。とっとと食事をすませよう。
大丈夫、自分はどこで何をしていても自分だ。他人が私を変えることはできない。
昨日ブンタンで昼食を食べたレストランと同じく、ここも自分で料理を取りに行く方式だった。お茶もセルフサービスで、お湯の入った大きなポットが置いてあった。ティーバッグもあったが、茶葉もある。カップに茶こしを乗せ、スプーンで茶葉を入れた。お湯を注ぎ席に戻ろうとした時、女性のツーリストが何か探している様子なのに気がついた。私より少し年配の白人女性で、手には空のカップを持っている。飲み物が欲しいのだろう。自分がちょっとさみしい時は、他人に親切にしたくなるものだ。彼女に声をかけた。
「何かお探しですか?」
「お茶を作りたいんだけど」
「スプーン? そこにありますよ」
私は茶葉の袋に入ったままになっているスプーンを示した。
「スプーンがあるのはわかってるわ。それは?」
それ、と言いながら、私のカップに目をやった。茶こしに入れた茶葉で、お茶を作っている最中だ。
「茶こし?」
「そう」
「ポットの横にありますよ」
女性は何も言わずにポットへ向かうと、茶こしを取り、お茶を作り始めた。
なんだあの人、愛想の悪いおばさんだな、と思った。
何か面白くないことでもあったのだろうか。
席に戻って食べ始めたが、食堂で働いている女性たちがキラを着て忙しそうにダイニングルームを行き来している様子をみて、はたと思い当った。彼女は、私のことを店員と勘違いしたのかもしれない。きっと気の利かないウェイトレスだと苛立ったのだろう。
ブータン人のふりをして外国人ツーリストの行動を観察するのは、悪趣味だろうか?
勿論、彼女の態度が無愛想だからといって、欧米人の旅行者が地元の人々に対して横柄だと一般化することはできないが。
お腹が空かない程度に食べて、外に出た。建物の外、陽当たりのよい場所にガイドとドライバー用のテーブルが置いてあった。ダイニングルームで食事中の旅行客のガイドやドライバーたちにまじって、ジャムソーとネテンが、おしゃべりしているのが見えた。私の姿を見て、声をかけてきた。
「あれ、もう食べ終わったの?」
「そう。でも、ゆっくりしててかまわないよ」
「いや、ぼくたちも食事はすんだんだ。そろそろ行こうか?」
「じゃあ、行こう、ジョゲ(出発)。プナカはまだ遠いんでしょ?」
みんな疲れてる
ここに限ったことではないが、ブータンは本当に山道だらけだ。プナカへの道は今までの区間と比べると交通量が多く、運転には気を使う。ネテンは途中で、ちょっと休憩、と言って道幅が広くなっている所で車を止めた。私も車を降り、脚を伸ばした。ネテンは道路わきを流れる清水で顔を洗い、タバコを喫う。表情には出さないが、疲れた様子が見て取れた。
日が暮れても、まだプナカに着かなかった。
けれども、もうすぐ到着するのがうれしいのか、ジャムソーだけがうきうきした様子だった。車の中でずいぶん寝ていたから、元気なのだろうか?トレッキングが終わったあと、やたらうれしそうにしていたのを思い出した。あの時もこんな感じだった。
元気なのはジャムソーだけで、ネテンはもちろん、私だって疲れていた。いつものように、カーステレオに合わせてずっとマリンサの歌を歌っていたが、それは楽しいからというより、ひとりで運転しているネテンを元気づけたいという気持ちがあったからだ。
でも私たちがどれくらい疲れているかなんて、ジャムソーは気に留めない様子だ。こわれたおしゃべり人形のように、ひとりでぺらぺらとしゃべり続けている。
「これからプナカヘ行くけど、プナカとウォンデュの境界線は入り組んでるんだ♪ いま車が走っているところはプナカみたいに思えるけど、本当はウォンデュ。意味わかる?」
わかるもなにも、そんなことに関心がないし、理解する気力もなかった。
「ウォンデュの町は中心街が狭いから、計画的に移転したんだ。あっちに」
そんなの、どっちでもいい。どうせ行かないんだから。
「聞いてる?♪」
私は手で耳をふさいだ。小さな声で「あんた、私を殺す気か」とつぶやいた。隣の席のネテンは気がついたようだ。後部シートのジャムソーは全然気がつかない。
「あれ?疲れたの?ま、もうすぐ着くから♪」
ありがたいことに、本当にすぐにホテルに着いた。
町の外なのだろうか、周辺には建物のない静かな場所で、あたりは暗い。大きな川を望む斜面に、リゾート風の二階建ての建物が並んでいる。植栽はきちんと手入れされ、そこそこのホテルのようだ。チェックインをすませ、部屋に向かった。
「夕食は7時からだって♪」
はいはい、わかったよ。
自分らしくない場所
7時にダイニングルームへ行った。昼食を食べたのが3時だから大してお腹も空いていないのだが、ここしか食べるところがないし、どこかで食べ物を売っているというわけでもない。自分がお腹が空いているかどうかなんて、そしてどんな所で食事するかなんて、もうどうでもよかった。
今日はみんな疲れている。別々に行動したほうがよさそうだ。
ホテルの広いダイニングルームの一番奥のテーブルで、イタリア人のグループ客が賑やかに食事していた。あとは白人のシニア年齢のカップルが3~4組。
まるでそういう規則にでもなっているかのように、どのテーブルにも立派なカメラとiPhoneが置かれている。それぞれ興味深いバックグラウンドのある人たちなのかも知れないけれど、昨夜の夕食時のように話しかける気にならなかった。
ホテルの従業員は親切で、彼らに対して申し訳ないとは思ったが、この場所には馴染めなかった。
私がいるべき場所ではないという強烈な感覚に悩まされた。いつものように、日記帳は持ってきていた。旅行中は予測できないことが起こる。何もすることがない時間がぽっかりできたとき、日記帳とペンがあれば2時間はつぶせる。でも日記帳を取り出す前に、かわいいウェイトレスがお茶を出してくれた。ブータンに到着してから、すっかりミルクティ中毒だ。
お茶を飲みほっとしたところでジャムソーがやってきた。落ち着かない、そわそわした様子だ。私の前に座り、明日の予定だけど、と話し始めた。ウェイトレスが彼の分のお茶を持ってきたが、いらない、と断る。彼の顔に「一緒に食事できなくて、ゴメンね」と書いてある。この2日間、彼の様子の変化は激しすぎる。大丈夫なのだろうか。翌日の出発時間と訪問先をごく簡単に打ち合わせると、ジャムソーは席を立った。
ここのダイニングルームも自分で料理を取りに行く方式だった。ジャムソーが行ってしまうと、料理を取り、食べて、部屋に引き上げた。食後にお茶を飲みながらダイニングホールで日記を書く気分ではなかった。客室にもどり、電気のヒーターをつけた。壊れているのか、常温の風が出てくるばかりだった。薪ストーブのほうがよっぽど確実だ。
日記を書く前にやることがあった。あさって、首都ティンプーでの訪問先をリストアップしないといけない。カルマが送ってきた日程表には、ずいぶんたくさんの訪問先が書き込まれていた。全部回るのは大変だろうし、自分の興味に合わせて選びなおしたほうがいい。それぞれの訪問先の位置関係はよくわからないが、ガイドブックとにらめっこしながら行きたい場所を選び、リストを作った。
あともうひとつ、食事の場所は何とかしないといけない。
昨日のカップルとの会話を思い出した。
西ブータンは観光地化されていると言っていたが、この先いつも、こんな感じの観光客だらけのところで食事することになるのだろうか。ブータンでの滞在も残り少なくなってきた。今日の昼食と夕食のような、最低のセッティングの食事はもうゴメンだ。一人旅だから一人で食べるのは仕方ないが、一人旅だったら絶対にあんな所で食事しない。あらかじめ決められた予定に従わなければいけないという規則はない。
旅行しているのは、私だ。
ジャムソーにリクエストを出そう。
観光ガイドだから、何とかするだろう。
それから、ジャムソーだ。
あまり調子が悪そうだったら、カルマに連絡して代わりのガイドを頼むこともできるだろう。ただ、そんなことをすればジャムソーは傷つくだろうし、雇用者であるカルマへの印象も悪くなってしまう。それは気の毒だ。
でも私だって、時間と体力とおカネを使ってここに来ているのだから、できる限りいろいろなものを見て、体験して帰りたい。普通の旅行と違い、ブータンでの旅行にはガイドは必須だ。移動や食事の段取りだけではなく、見学先の許可を取ったり料金の支払いをするのもガイドの仕事で、費用は出発前に前払いだ。代わりのガイドを頼むかどうか、明日、様子を見て考えよう。
18日間の滞在日程で、自分はともかくガイドとドライバーがどれくらい疲れるかなんて考えもしなかった。
でも、これだけ長く旅行していれば、誰だって疲れてくる。
私はサクテンで体調を崩したし、ジャムソーは一昨日から様子がおかしいし、ネテンも長距離の運転でバテ気味だ。観光のための旅行でこんな心配をするのは滑稽かもしれないが、あと3日半、私がパロから飛行機に乗るまでお互い助け合って乗り切らないといけない。計画してお金を出したのは私なのだから、私がイニシアチブを取らないとダメだ。他人任せにはできない。
決めなければいけないことを決め、やっと落ち着いて日記を書き始めることができた。
プナカゾン
翌朝、予定通りに朝食をすませ、出発時間に勝手に車まで荷物を運んだ。
とにかく、この場所を早く立ち去りたかった。
ネテンはもう、駐車場で出かける準備をしている。ジャムソーはチェックアウトの手続きをしているという。9時からプナカゾンを見学する予定だった。車に乗り込むと、昨夜作った訪問先リストをジャムソーに手渡した。それを見てジャムソーとネテンが何やら相談している。
「これ、全部回れそう?」
「問題無いんじゃないかな。タシチェゾンは今日の夕方、ティンプーに到着した時に見学すればいい。それ以外の場所は、明日ゆっくり見て回れる」
「タシチェゾンの見学は、夕方からで大丈夫なの?」
「あそこは特別な場所で、役所の業務が終わってからでないと見学できないんだよ。だから、むしろちょうど良いんだ」
9時前にプナカゾンに着いた。私と同じように9時から見学予定なのか、ツーリストやガイドがゾンの入り口に集まっていた。ところが、その日に限り特別なセレモニーがあるので、11時にならないと見学できないという。
ブータンでは政治分野の最高責任者は国王であり、宗教分野の最高責任者はチーフアボット(管長)だ。チーフアボットは一年のうち半年、夏のあいだは首都ティンプーのゾンで過ごし、冬はプナカゾンで過ごす。この日の前日にプナカに移動したところで、そのためのセレモニーを行うのだ。
この日の私の日程は、プナカゾンを見学したあと、プナカ近郊のチミラカンというお寺を見学して、ティンプーへ向かうことになっていた。順序を入れ替えて、チミラカンを見てからプナカゾンを見ることができないか、ジャムソーに聞いてみた。
「うーん、無理かな。ティンプーに行く途中、工事で通行止めになるところが3か所あるんだ。11時からプナカゾンを見学して出発すると、工事前に通過できなくなる。あとは午後遅くなるまでずっと通行止めになる。申し訳ないけど、プナカゾンはあきらめて」
トロンサのゾンも魅力的な場所だったけど、プナカのゾンはさらに大きく、中もきっときれいだろう。そうこうしているうち9時になり、その時刻から儀式が始まるのか、たくさんの僧侶が一列になりゾンの建物から出てくるのが見えた。角笛が鳴り、鉦が打ち鳴らされる。僧侶の列は遠く、ゾンの背後の草原へと続いていった。
【日本語】ブータンについて---20へ続く