(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)
ブータン人専用席
SUVに乗り込み、次の目的地のジャンベイ寺院へ向かう。ここは僧院だ。お堂の中から、大勢のお坊さんが読経する声が聞こえる。私が中に入ったのは、ちょうど読経が終わるあたりだった。時計を見ると12時だ。もうそんな時間かと思う。法要でもあったのか、のどかな広い境内で、お坊さんたちが地元の人々に食事を振舞っていた。見学が終わると私たちも車に乗り込み、ブンタンの町のレストランへ向かった。ランチ休憩だ。
観光地とはいってもブンタンは小さな町で、地元の人がレストランで食事をするということはあまりないのだろう。私たちが入った店も、食事客はツーリストばかりだった。白人と東洋人の入り混じった団体客と、あとは白人カップルの個人旅行者が何組か食事している。食べ物は壁際のテーブルに並べられ、自分で取りに行く方式だ。
席について食べ始めたが、ジャムソーは席を立ちキッチンへ入って行った。何だろうと思ったが、程なくエマダツェの皿を手に戻ってきた。チーズで味付けしたチリの煮物で、ブータンの国民食だ。料理のテーブルになかったので、キッチンでもらってきたのだろう。ふたりともエマダツェが好物で、私も好きだった。みんなさっそく自分の皿に取り分ける。
「あ、これ結構辛いな。ゴハン多めで食べたほうがいいよ」
先に一口食べたジャムソーが言う。
ネテンがご飯を盛った皿をこちらへ寄こす。
「ほら、ゴハン取りなよ」
「カディンチェラ(ありがとう)」
他のテーブルは外国人ツーリストばかりだ。彼らのガイドやドライバーはいったいどこで食事をするのだろう? このレストランでは、フロアの片隅にガイドやドライバー用のテーブルが作ってあった。テーブルにはミルクティの入った魔法瓶が置かれ、セルフサービスだ。きっと大盛りのエマダツェもあるに違いない。情報交換なのか顔見知りなのか、数人のガイドやドライバーが和気あいあいとした様子で食事していた。
私は、昨日のシンゴルでの昼食を思い出した。
ジャムソーたちは店の奥のキッチンで食べていた。
やはり『ブータン人専用席』で食べたほうがくつろげるのだろうか?
昼食後、ジャカールゾンへ向かう。おととい見学したモンガーのゾンより少し小さいくらいの規模だ。ただ、特にお祭りの時期でもないので、モンガーのゾンのように踊りの練習をしているお坊さんや町の人たちはいなかった。そのかわり外国人のツーリストのカップルが、閑散としたゾンを見学していた。
旅のめぐみ
夕方、ホテルに戻るころ、ジャムソーが言った。
「ネテンの姉がブンタンに住んでいるんだ」
「そうなの? ネテンはお姉さんに会いに行かなくていいの?」
「いや、実をいうと、今晩行く予定になってる。僕も招待されているんで、夕食は一人で食べてもらうことになるけど、いいかな?」
「全然構わない。楽しく過ごせるといいね」
私は通訳の仕事をしたことがあるのでよくわかるのだが、仕事のあとのプライベートな集まりにクライアントを連れて行くのは大変だ。ひとりで食べるのはつまらないが、ガイドもドライバーもプライベートな時間は必要だ。それにジャムソーに息抜きしてもらいたかった。家庭的な雰囲気の中で過ごせば、少しは気分が回復するだろう。
ブンタンで滞在しているホテルは居心地がよかった。
もうキャンプファイヤはないけれど、夕食がすんだら薪ストーブに火を入れて、部屋で日記を書いて過ごそう。落ち着けそうだ。
「夕食は何時にする?」
「ひとりで食べるんだったら、7時でお願いしようかな」
「わかった。7時に夕食で頼んでおく」
ホテルに到着し、彼らと別れた。夜7時まえ、食事の時間に合わせてダイニングルームへ行った。お客は昨夜のカップルともう一組の年配のカップル、私の5人だけだ。年配のカップルは70近い年齢だろうか。ヨーロッパの言葉で話しているが、何語だか判別できなかった。同じホテルに泊まりあわせるのも縁だと思って、話しかけてみた。
「こんばんは。どちらからいらしたんですか?」
「チェコ共和国」
流暢ではないが、英語はわかるようだ。
チェコ語は、挨拶ならわかる。こんばんは、と言葉をかけると、うれしそうに返事してくれた。それ以上話さなくても、彼らはもう『知らない他人』ではない。
これだけで、暖かく落ち着いた気分で食事できる。
食事が来るまで日記でも書こうと思っていたら、キッチンから突然ジャムソーが現れた。もう寒い時刻なので、ニット帽をかぶってジャケットを着て、首にはスカーフを巻いている。トレッキングしていた時と大差ない服装で、落ち着いたダイニングルームの雰囲気から完全に浮いていた。
観光ガイドというより、木こりか土木工事の現場監督みたいだ。
「どうしたの? ネテンと出かけるんじゃなかったの?」
「ネテンを待っているけど、まだ来ない。で、明日の日程なんだけど」
「何時に出発するの?」
「9時。トロンサでゾンを見学するから、キラを着てったほうがいいな」
「ありがとう。そうする」
「ラチュを忘れないでね」
「はいはい、大丈夫」
「じゃあ、明日」
ジャムソーがキッチンに戻って行ったあたりで、料理が運ばれてきた。その料理をひとりでゆっくり食べて、そのままダイニングルームでお茶をもらって日記を書くか、部屋に戻って日記を書くか少し迷った。部屋に戻ろう。薪ストーブがあるし。
チェコ人の旅行者に挨拶したのに、例のかっこいいカップルと何も話さずにダイニングルームを立ち去るのは、あまりよい礼儀ではないような気がした。私は席を立ち、彼らに話しかけた。
「こんばんは。どちらからいらしたんですか?」
男性はオランダ人、女性はオーストラリア人だという。
なかなかアクティブな人たちだ。彼らが聞いてきた。
「ブータンではどんな所へ行きました?」
「サンドゥルップから入国して、東ブータンでトレッキングしたけれど、小さな村へ行ったり、面白かったですよ。あなた方は?」
「私たちもトレッキングしたんです。ドゥルク峠のルートで。一般的なトレッキングルートだけれど…」
女性のほうが答えてくれたが、その話しぶりにかすかな『気おくれ』を感じた。人をそういう気持ちにさせる会話はよくない。自慢話は慎めばそれに越したことはない。
彼らの旅程は2週間強、西ブータンから入国して、トレッキングのあと中央ブータンに入り、ブンタンが最終訪問地なのだという。東ブータンへは行かないのだ。男性のほうが話しかけてきた。
「今回の旅行で初めてガイドって使ったんだけど、普通の旅行となんか違う感じだよねえ」
「ああー、私もそれ、感じますね。一人旅なのにいつもガイドとドライバーが一緒だし」
「一人旅なの? 君のガイドは?」
「食事の前に、大きな男性が私のテーブルに来たでしょう。あれ、私のガイドです」
「ええっ?」
そりゃそうだろう。彼らの紳士的なガイドとは違いすぎる。
「それじゃ昨夜、一緒に食事していたのは?」
「ガイドとドライバーです」
「今日は?」
「ドライバーのお姉さんがブンタンに住んでいて、ふたりとも招待されて出かけました。私が一人旅だから、いつも3人で食べるけど、ちょっと申し訳なくて。たまには休ませてやらないとかわいそうだなって思います」
「かわいそうって、本当にそう思うの?」
私の言葉に、どこか偽善的なところがあっただろうか。
「…本当にそう思う。一日の行動が終わったあとも、かれらは何かしら用事があって。ガイドは電話で予約を入れたり情報を集めたり、パソコンで書類を作ったり。ドライバーは洗車したりで、結構やることがあるみたいなんですよ。いつも私と一緒じゃ、そういう時間も取れないだろうし」
いい子ぶったことは、言いたくなかった。私は彼らに聞いた。
「ブンタンはどうですか? 今までの訪問地と比べて」
「小さな町、っていう感じで、落ち着けます」
女性のほうが答えた。この人たちは多分、不便だけれどあまりツーリストのいない、素朴な土地を旅するのが好きなのだ。彼らの話しぶりから、ブータン訪問に満足しているものの、もっと観光地化されていない何かを期待していたことが見て取れた。
「おふたりはきっと、東ブータンが好きだと思いますよ。ホテルはとんでもないけど」
「そうか。ちなみに、このホテル、どう思う?」
男性のほうが聞いた。
「まるでお城みたいです。自分が女王さまになったみたいに感じます」
私の答えを聞いて、カップルは顔を見合わせた。
「西へ行けば行くほど、ホテルは豪華だよ。西ブータンはそこそこ観光地化されているから、これから西へ向かうんなら、この先はうんときれいなホテルに泊まれる」
「私、明日ここを発って、プナカヘ行くんです。プナカに一泊して翌日は首都のティンプーに行くんですけど、どんなところですか?」
今度は女性のほうが答えた。
「ティンプーは、わりと普通の都市だった。あまり見るものはないな、っていう感じ。でも、ティンプーで病院を見学しに行って、そこは興味深かった」
女性は医療関係の仕事をしているという。仕事上の関心から、病院を見学しに行ったのだ。
「ブータンでさえ都市化や現代化の問題に直面しているって、よく分かった。たとえば最近、自殺が増えているって。若い世代には、この国の伝統的な価値観や家族観がうまく引き継がれていない、という話だった」
男性のほうが続けた。
「国民総幸福量っていうけど、半分マーケティングのような気がするな」
「そうですよね。ユニークな概念だけれど、現実的でないっていうか…実際にどんな方法で幸福を追求するか、なんてわからないし」
私は今までに出会ったブータン人のことを考えた。かれらは桃源郷に住む仙人ではなく、それぞれ日々の苦労がある普通の人たちだ。何が幸せかは、人によって違う。幸せになるための共通のプラットフォームなんて、あるのだろうか。
彼らから、私がこの先訪問することになる、西ブータンの町について教えてもらった。
こういうセンスの旅行者と話ができたのが、うれしかった。おかげで、一人旅の楽しみには、他の旅行者と交流することもあるのだと、思い出すことができた。でも、こうやって知り合った人たちと必要以上に接近しないのも、旅行者のたしなみだ。
誰にでも、自分の旅の流儀があるのだ。
「これから行く場所について、教えてもらえてよかった。あなたたちとお話できて、とても楽しかった」
「こちらこそ。この先も、よい旅を」
私は部屋に引き上げた。ストーブに火をおこし、ポットで湯を沸かしてお茶を入れた。テーブルの上に日記帳を広げ、書き始めた。
【プナカへ】ブータンについて---19へ続く