(↑高群逸枝『愛と孤独』、理論社、1958)。
高群逸枝(1894‐1964)。女性史学者。雑誌『婦人戦線』を主宰した。詩人、フェミニズム&アナーキズム系評論家の活動を経て、婚姻史を中心に、日本母系制社会の解明から女性の歴史をたどる女性史学を創始する。主著は『母系制の研究』(厚生閣、1938)、『招婿婚の研究』(講談社、1953)。その他多数。
◎高群逸枝略年譜1994年 1月18日、熊本県下益城郡豊川村にて誕生。1909年 県立熊本師範学校入学。翌年退学。1912年 熊本市私立熊本女学校に入学。1913年 家計援助を志して自ら退学。紡績工場の女工員として入社(翌年3月退職)。1914年 砥用尋常高等小学校代用教員(月給8円)となる。1917年 橋本憲三と文通する。新聞記者を志すが失敗。1919年 憲三と結婚。柳沢健に短歌が激賞される。1921年 『日月の上に』(叢文閣)、『放浪者の詩』(新潮社)を刊行。1922年 『美想曲』(金星堂)、歌集『妾薄命』(金尾文渕堂)、評論集『私の生活と芸術』(京文社)、詩集『胸を痛めて』(京文社)。息子を死産しショックを受ける。1925年 女性史の母胎となった論文「恋愛創生」を発表。1929年 研究生活のために田園地上荻窪に移る。1930年 短編小説集『黒い女』(解放社)を刊行。1月、平塚らいてう等と無産婦人芸術連盟を結成。3月、機関誌『婦人戦線』を創刊。1931年 『女教員解放論』(自由社)を刊行。女性史研究を本格的に始める。1936年 『大日本女性人名辞書』(厚生閣)を刊行。これが機縁となり高群逸枝著作後援会が発足。1938年 『母系制の研究』を刊行。1939年 財団法人服部報公会の研究費を受ける。1941年 財団法人啓明会の研究費を受ける。1947年 自宅を女性史研究所と呼称。『日本女性社会史』(真日本社)、『女性史学に立つ』(鹿水館)を刊行。1948年 婦人問題研究所から土曜会その他の寄付研究資金をおくられる。『恋愛論』(沙羅書房)。1951年 熊本県教育委員会から近代文化功労者に推される1953年 『招婿婚の研究』を刊行。1954年 『女性の歴史』第一巻(講談社)を刊行。1955年 『女性の歴史』第二巻(講談社)を刊行。1957年 アジア財団から研究費を受ける。1958年 『女性の歴史』第三巻第四巻(講談社)を刊行。1962年 熊本県松橋町名誉町民に推される。1963年 『日本婚姻史』(至文社)を刊行。自叙伝『火の国の女の日記』を起筆。1964年 6月7日、癌性腹膜炎によって死去。
・あたかもソローのように?
女性アナーキスト、ポスト平塚らいてう、女性史学創始者……さまざまな肩書きを考えることのできる高群逸枝だが、私が個人的に第一に挙げたいのは日本の女ソローである。ヘンリー・デイヴィッド・ソローは『森の生活』を書いたアメリカの作家であり、森の中に丸太小屋を建て自給自足生活を行い、奴隷制度とメキシコ戦争に抗議するために税の支払いを拒否して投獄された究極のインディペンデント野郎である。30代後半の高群は女性史研究を本格的に始める直前、23歳のときに住んでいた世田谷に住居を定め、自身にソローの姿を重ね合わせていた。
「昭和六〔1931〕年、私はソローにあこがれ、もとの世田谷に帰った。そして、かつて私が親しんだ森の一つをえらび、夫の同情で、その中に小さな家を建てて移り住んだのである。それは文字どおりの一軒家だった。/この森にきたのは、私の晩年の仕事として、日本女性の歴史の著作のためであった」(「森の生活」、『高群逸枝全集』第九巻収、理想社、1966、164p)
ただし、高群の「森の生活」はソローとは違い、ひとりではなかった。隣には夫である橋本憲三がおり、彼は高群の死後、――秋山清が『自由おんな論争』(思想の科学社、1973、158p)のなかで「そんな全集ってあるものか」と激怒している、多数の論考をオミットした――『高群逸枝全集』全十巻の編集を引き受け、『高群逸枝雑誌』を主宰することになった、高群にとって極めて重要な人物である。
ソローが国家からの独立を願ったように、男性から独立していた古代の女性たちはどんな歴史を紡いできたのか。高群は男性に従属しない女性の歴史、そして女性が男性に隷属していってしまう歴史の起源を求めて、森のなかで過去へと遡っていった。古い資料を漁る毎日が続く。
しかし、そもそも、その超俗した研究生活に入る前には、波乱万丈の人生が高群にはあった。様々な肩書きの似合う高群にはそれに先立つ長い過去の来歴がある。『火の国の女の日記』(上下巻、講談社文庫、1974)を参考に、女性研究者として立ち上がるまでの道程を見ていこう。
・老成した少女
幼い高群逸枝はある小学校教師から「老成している」と評されているような少女だった(113p)。というのも、高群は学校の備本や教師から借りた教科書以外の本を次々と読み進め、さかんな質問癖で貪欲に知識を吸収していったからだ。
小学校の校長を父にもつ高群は、こうして「老成」な態度とともに優秀な成績をおさめて高等小学校を卒業し、師範学校に進むことになっていた。だが、その進路は自分の満足ゆくものではなかった。というのも、師範学校は教員養成機関でしかなく、高群は大学での学習を切望していたからだ。
「私のほんとうののぞみをいえば大学に進みたいのだけれど、いまの学校は師範学校に入るための予備校なので、将来は私たちがよく知っている世間的な、そして主として月給とりだけの目的の村の女教員にしかなれないように宿命づけられている」(上巻、123p)
この「宿命」の力によって一時期、高群は女教員として実際に働いている。「学問と真理に専念することのゆるされている人たちのことを、このときほど、羨ましいと思ったことはなかった」(上巻、182p)。1913年、19歳のとき、家計援助のために熊本女学校を退学し、一年だけ紡績工場の女工員をつとめたあと、砥用尋常高等小学校に代用教員として赴任したのだ。
・女教員時代
「この学校には、〔中略〕教育と真摯にとりくんでいる進歩的教師が多かった。このことは私がかつて師範教育から浅薄に類推した俗物的な教員生活を正さずにはおかないものがあるようだった。それで私はこの学校から山の女教師としての第一歩を踏み出したことを心からよろこんだ」(上巻、188p)
この「山の女教師」の経験が、のちに、『女教員解放論』(自由社、1931)というユニークな名前をもつ評論の仕事に結実する。女教員の地位の低さに対して、その改善を訴える高群は、女が教員になる根本の動機として、経済的理由(金が足らない)や社会的理由(家庭の外で働きたい)だけでなく、「女の母性愛の本能」の根本的な欲求を読む。
「女が今日教員を志す動機には、単なる職業として、もしくは単なる社会的な活動の機関としてのみではなく、女の母性愛の本能が、自らを普遍的に表現しなければならないといふ、必然発生的の動機、それがひそんでゐるのではなからうか」(『女教員解放論』、7p)
高群がいうに、この「母性」のフェミニズム的な要求によって、学校に蔓延る不正は正される。たとえば、貧民の家の子供にとっての「遠足」の恥辱(小遣いと着物)などは許すべきではない。また、勢力家の子供を叱られると学校を辞めさせられるような不平等な体制を認めるべきではない。持ち出されてくる多くの例示は、「女教員」として従事した経験に由来している。
だが、この教育への情熱は橋本憲三との運命的な出会いによって大きく変わっていく。橋本と出会っていなかったら高群は一地方の女教師として終わっていたかもしれない。「この頃私は、学問への希望を捨てて〔中略〕月給取りを志願していたのが、さらに再転して一生を僻地教育にささげたいという〔中略〕心情に傾きかかっていたことを思い出す。「恋愛」という人生の伏兵のあることも知らないで」(上巻、202p)。恋愛とは人生の伏兵である……らしい。
・橋本憲三との恋愛と結婚
『火の国の女の日記』では橋本憲三は一貫して「K」と表記されている。そんな「K」、もとい橋本はもともと高群と同じ末端の一教師で、彼が出していた回覧雑誌『少数派』に文章を寄せることから、交流するきっかけができた。
1917年8月、実際に初めて会ってから橋本との恋愛にのめり込んでいった高群は、教師職をやめて『九州日日新聞』の新聞記者を志すも失敗し、橋本との関係もこじれ、経済的にも精神的にも追い込まれ、ついには半年間の四国巡礼の旅に出るようになる。お遍路によって心のブレイクスルーが得られるどうかはよく分からないが、ともかく出る。彼女の『お遍路』(厚生閣、1938)、『遍路と人生』(厚生閣、1939)、『娘巡礼記』(朝日新聞社、1979)などはその記録である。
1919年、巡礼を終えた高群は無事に橋本との婚姻を果たす。この年は、自身の短歌が外交官であると同時に詩人でもあった柳沢健(1889‐1953)に認められ、詩人・文学者として活躍していくきっかけとなった年だった。柳沢は、田舎に埋もれるのは国家の損失、と外務省でのポストを準備するほど彼女を評価するまでに至る(が、その誘いは自信がなかったために断った)。この詩人・評論家の仕事によって得た広いツテは、その後の研究生活において大きく生かされていくことになる。また、高群自身は雑文書きとして基本的に嫌がりながらも、著述業によって研究資金を得ていくようになる。
しかし、当初の結婚生活には難儀したようだ。橋本は「真の恋愛にちかいものは娼婦との関係だけ」という「瞬間恋愛説」を唱えたり(上巻、272p)、「自分はこれまでは女性にたいしては劣等感をもっていて、女性の前には頭が上がらない感じだったが、あんたを得てからはそれがなくなり、これからどんな女性とも恋愛ができるだろう」と言い出したり(上巻、275p)、果ては暴力をふるったり、要するに、面倒なモラハラ&DV男だったのだ。とんだ高橋ジョージである。世の女性たちはこういう男に騙されてはいけない。で、絶望した高群は次の書置きを残して一時実家に帰っている。
「私は時間がおそろしいのです。数時間後の時間、そして空間がどんなものかは、私には想像ができません。さよなら。あなたの小鳥が飛んでいきます」(上巻、283p)
マジで三船美佳である。
・母性保護の要求
橋本夫婦には子供がなかった。のちの「森の家」での生活では、飼っていた鶏をあたかも子供代わりに可愛いがる日記が残されている。ただ、厳密にいえば彼女は、1922年、憲平と名づけていた胎児を死産で亡くしていた。
このショックがのちの母性の歴史研究につながったと高群は回想している。
「産児は社会全体によって守られねばならず、これを阻害する条件はすべて排除されねばならないという強い意欲を、私は胎児の意志として感じた。数千年来、産児は各自の家々の私的保障にゆだねられてきたが、そうすると各自の家々の貧富の差別によって歪められねばならない。これは胎児の意志ではなく、したがって母性の意志でもない。だから私は、その後、自他の無知や、その他あらゆる障害物に阻まれながらも、この一点を追求するための火を燃やしつづけ、結局母子保障社会の必然性を歴史的に実証しようとして女性史研究に入った」(上巻、329p)
1918年には、主に平塚らいてうと与謝野晶子の間で母性は国家の保護下に置かれるべきか否かが論争された母性保護論争が起こっていたわけだが、その文脈でいえば、高群はらいてうの方に近しい保護派に立ったといえよう。研究への端緒は、このような自身の実存と深く結びついている。それ故にこそ大学人においても珍しい類まれな研究への執念が生まれるのだ。と、いっても、この高群の内なる動機が実際の研究として顕在化するにはあと10年ほどの時間が必要だったわけだが。
・古代母系制の探究
評論集『恋愛創生』(万生閣、1926)で描かれた母性保護論や新女性主義が、学問的研究として捉え直されてくるのは、1931年(37歳)、世田谷で「森の家」、つまりは住居兼研究所を構えてからのことだ。この頃になると、橋本は完全なる高群協力体制となって彼女の支援に徹する。「私は跪いてあなたのしもべになっても悔いるところがない」らしい(下巻、12p)。……うぜぇ。
1930年、高群の頭のなかには女性論三部作、つまり婦人論、恋愛論、日本女性史の大きな研究構想があった。そして、ここで第一に彼女が手がけたのが、日本母系制の研究であり、国学者の女性史観を読むため『古事記伝』(本居宣長)をめくる日々が続いた。
「私がはじめにとりかかったのは、日本母系制のことであった。新憲法前までは、「家族制度」は日本歴史のはじまりからあったもので、世界にほこるべき日本固有の制度だというのがいっぱんに通っていた説であった。つまり家族制度は国の基だとされたのであった。/この観点から婦人の教育も阻まれ、参政権もあたえられず、いまからみるとごく初歩の民主主義婦人論が、家族制度破壊の名のもとに発売禁止になる状態だった。だから右の通説を批判したり、学問研究の対象とすることは、国家的反逆とみなされたので、だれも正面きって研究に立ち向かうものがなかった」(下巻、20p)
これが多祖現象と母系社会とのつながりのインスピレーションをえて、7年の歳月をかけて書かれた主著『母系制の研究』に結実する。この姉妹篇『招婿婚の研究』と合わせて、高群が主張したいことは大雑把に要約すれば次のようなことだ。現在の男性中心的な社会とは異なり、古代の日本では母系制が発達し、女性中心の家族制度の時代が続いていた。にも関わらず、女性たちは男性の奴隷的な立場を押し付けられていく。古代から平安初期までの日本では、婿取婚によって家は女のものという母系制が続いていたが、鎌倉時代から室町時代になると嫁取婚が主流となって決定的に女性の地位が下落していく。
高群はあらゆる文章で、社会で活躍した女性列伝のような女性史しかなかったという時代的制約を強調している。そして、自分の業績はその学問的な突破口を切り開いたのだ、と。詩人、フェミニズム評論を経て、学問の道に自身の存在理由を見出すようになった高群は、ここから雑文書きを極力抑え、研究の道に没入していくようになる。
・ささやかな研究生活と助成金
「学問と花学問はさびしい途中で一二ど世間の目にふれることもあるがすぐ雲霧のなかに入る道この道をこつこつゆけば路傍の花が「わたしもそうですよ」という春はなずなの花が秋は尾花がそういう」(下巻、171p)
いっとき女性論客として衆目を集めていた高群は「面会お断り」の看板を掲げ、一日10時間の読書を自らの課題とし、蟄居して自身の研究を進めていった。収入は平凡社で働いていた橋本の若干の貯蓄と原稿料、「さびしい」研究生活である。「起床は六時。八時に朝食。それから書斎に入り勉強。昼食抜きで午後四時にそれをやめ、六時に夕食をすます。夕食後は勉強のつづきやら原稿執筆やらにおくる。十時就寝」(下巻、23p)。
高群はこれを「鉄の規律」と呼んでいた(下巻、82p)。ただし、このような慎ましやかな生活をしつつも、高群はときおり著作に関する財団の金銭的な援助を受けた珍しい在野研究者でもあった。古代から現代まで歴史上の女性を解説した『大日本女性人名辞書』を出版したとき、評論仲間のフェミニストを中心に「高群逸枝著作後援会」が組まれた。
また、『招婿婚の研究』を出版したさいは、財団法人服部報公会と財団法人啓明会からそれぞれ、二千円と三千円の助成金をもらっている。古代から現代までの女性観の通史を記述した『女性の歴史』に対しては市川房枝の紹介でアジア財団から助成された。
「これらの財団は、発明・発見・学術研究等の助成を目的としているもので、多くはアカデミックの人たち、大学や研究所等の教授たちに掌握され、民間の学者でこの利益にあずかるものは稀少だった。まして大学入学さえ閉ざされていた女性の学者がどんな待遇を受けていたか?」(下巻、92p)
現在でも在野研究者が応募できる助成制度は決してないわけではない。高群のようにうまくいくかどうかは微妙だが、ひとつの可能性、一手段として考えてみることは無駄ではないかもしれない。
・他山の石とせよ
高群の残した研究生活の記録は極めて感動的だ。ただし、最後に明示しておかねばならないことがある。つまり、高群の婚姻史研究は今日、厳しい批判にさらされており、またそれ以上に単なる間違いに留まらない資料の改竄さえ行っていたのではないか、と論じられているということだ。鷲見等曜『前近代日本家族の構造』(弘文堂、1983)を経て、高群批判の決定版といっていい栗原弘『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』(高科書店、1994)は次のように述べている。
「もっとも憂慮すべきことは、自説の構想を強引に押し通すために、どうしても無視し切れない状況になると、系図を改竄したり、はては日記の内容を改変する行為まで行っている。これなどは、通常の歴史研究者には、考えられない、自己破滅的としか表現のしようがない行為である。〔中略〕彼女の誤りは、ある史料を、彼女流に解釈することが、誤っていると本人は自覚しており、極めて強い意識下にそれを行っている所に特色がある。要するに、高群学説の誤謬は、真実をひたすら追い求めた結果、誤ったのではなく、真実をひたすら追い求め、真実を知りながら、意図的に誤った方を選択した結果だったのである」(340‐341p)
栗原は決して高群の業績を全否定していない。たとえば平安時代の家族が父母・息子夫婦・内孫が同居していると信じられていた通説に対して、父母と息子夫婦が同居しない事実を発見したことについては、「今日でも、その価値は失われていない」(『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、351p)。けれども、平安時代に妻方居住婚(男性が女性の両親の家、ないしはその付近に住む婚姻)が主流であるとする婿取婚学説に関しては「部分的修正など全くできない、重大な誤謬がある」(『高群逸枝の婚姻女性史像の研究』、351p)。ちょっとしたSTAP細胞である。
在野研究者は学術機関に属さない。それ故、専門家のチェックなしに論文を公開していく。お墨付きを拒否し、独自のスタイルで学問を続けようとするその態度に在野の大きな可能性があることは確かだ。けれども、その反面、監視の眼が入らない空間は常に勝手な捏造や放言の発生と隣り合わせのものとしてあろう。この危険性に対しては誰であれ研究者ならば敏感であらねばならない。
一連の高群批判は大学以外の学的コミュニティをいかに構築するか、また業績を批判的にチェックしてくれるアドバイザーをどのように調達するのか、という大きな問題に通じている。しかし、とりあえずは在野女性史学者・高群逸枝を他山の石として受け止める必要があるだろう。
◎引用しなかった参考文献・西川祐子『森の家の巫女 高群逸枝』、新潮社、1982。・鹿野政直+堀場清子『高群逸枝』、朝日新聞社、1977。・堀場清子『高群逸枝の生涯』、ドメス出版、2009。
※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。