【モンガーへ】ブータンについて---16から続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)
東から中央へ
閑散としていても、モンガーのホテルはトラシガンで滞在したホテルより設備がよかった。見晴らしのよい角の部屋でよく眠ったが、夜明け前に目が覚める。
瞑想し、外が薄明るくなる頃、窓の外の景色を写真に撮った。
東ブータンでの滞在も終わりだ。ツーリストの存在感が薄い東ブータンを離れるのは名残惜しかった。今日はブンタンまで移動する。中央ブータンの中心地、地図で見てもブータンのほぼ中央だ。
今日の日程は移動時間が長い。早いうちに朝食をすませ、SUVに荷物を積み込む。車がきれいになっていた。昨夜、夕食のあとネテンが車を洗ったのだという。一緒に移動していると友だち気分になってしまうが、仕事の旅行はやはり大変だ。
モンガーを出て、しばらく穏やかな田園風景を眺めながら走ったが、道は徐々に標高を上げる。周りじゅう霧に包まれ、視界が開けない。ただ、道路の整備状況は東ブータンより若干いいような気がした。少なくとも、道路工事で通行止めになっている所はなかった。それでもシンゴルという場所に着き、昼食だよと言われたのは、昼もだいぶ過ぎた頃だった。
霧の深い小雨の天気で、寒かった。旅行者相手の食堂があり、中に入ると大きな薪ストーブが燃えている。食堂の経営者の家族なのか、年配の女性と女の子がストーブの前のベンチで暖を取っている。おばあさんと孫なのだろうか。ジャムソーとネテンは店の奥へ行ってしまい、私はストーブの近くのテーブルにひとりで座った。
そのうち初老の男性が、料理を持ってきてくれた。朝、モンガーを出発してからずっと車に乗ったままだ。すごくお腹がすいているということもなかったので、ジャムソーたちがテーブルに来るまで待つことにした。
料理を持ってきた男性が何か言っている。女の子が通訳してくれた。どうして食べないのか、と聞いているのだ。私のガイドとドライバーが戻ってきたら一緒に食べる、と説明した。そのまま待っていたら、ジャムソーがテーブルに来た。やれやれこれでやっと食事ができると思ったら、僕たちはキッチンで食べたから、君も食べて、と促された。
なんだ、そういうことならちゃんと言ってくれればいいのに。
そういえばブータン到着翌日、サンドゥルップでの朝食もそうだった。彼らが来ると思って食べずに待っていて、出発が遅れたのだ。多分、私を一人にしてしまうのに気兼ねして、「自分たちは別に食べる」と言いにくいのだろう。彼らにしてみればゾンカ語を話しながら食べたほうが気楽だろうし、『客』である私が一緒では『休憩』にならない。
私も一人旅なのだから、甘えたことは言っていられない。ストーブの横でそんなことを考えながら、少し冷えてしまった料理を食べた。
車に乗り込み、出発する。ブンタンには何でもある、ポストカードもたくさん売っているから、とジャムソーがうれしそうに言う。トレッキングに出かける前夜、トラシガンで散々苦労してポストカードを探したことを思い出しているのだろう。
午後5時すぎ、キキラの峠を越えてブンタンの町に入った。ブンタン近辺には見学する場所が多い。空港もあり、頻繁ではないが国内線の発着があり、ツーリストもそこそこいる。メインストリートに沿って工芸品屋やそれ以外の店が並び、かわいらしい感じだ。ネテンがメインストリートで車を止めた。ジャムソーがポストカードを売っている店に連れて行ってくれた。
町からホテルまでは、車で10分ほどだった。
いままで宿泊したのとは段違いにきれいな、リゾートのようなホテルだ。
一日250ドルの公定旅費を考えれば設備のよいホテルに滞在するのは当然なのだが、ブータンを旅行する目的はそういう贅沢を楽しむためじゃない。メラクやサクテンのおんぼろゲストハウスに泊まっていた私が、こんな豪勢なところに泊まってしまっていいのかという気がした。とは言っても、きれいな部屋で、ゆっくりくつろげるのはうれしい。バスルームにはヘアドライヤーまであった。シャワーを浴び、久しぶりにドライヤーで髪を乾かした。
部屋の中には薪ストーブがあった。
ロブザンやギレのことを思い出しながら、一人で何とか火をおこした。難しかった。
かっこいいカップル
8時、いつものようにホテルのダイニングルームに集合した。明るくて落ち着いた、感じのよいダイニングだ。ストーブに近いテーブルに白人のカップルが座り、食後のコーヒーを飲みながらトランプで遊んでいる最中だった。英語で話している。どこの国の人だろうか。年齢は40代前半くらい、自分たちで計画して自由な旅を楽しむことに慣れた雰囲気の人たちで、映画にでも出てきそうだ。
彼らがあまりにかっこいいので、ちょっと気後れした。50過ぎで相手もなく、中途半端な英語を話しながら旅する自分がみじめったらしく思えてきた。私たちはテーブルに座り夕食になったが、ジャムソーもネテンも妙に静かだ。彼らも、自分たちの英語にコンプレックスがあるのだろうか。それとも、私の気後れが伝染してしまったのだろうか。黙っているとよけい萎縮してしまう。ともかく何か話そう。
「ジャムソー、旅程表持ってきたけど?」
「うん」
「持ってこいって言ったでしょ?」
「うん」
「どうして持ってこいって言ったの?」
「明日の打ち合わせをしようと思ってさ」
「明日の予定は、何か変更があるの?」
「えーと…」
ネテンは「ぼく関係ないから」という風情で、黙ったままだ。まったくもう、意気地のない男たちだ。ひとりでしゃべるのにくたびれて、私も黙ったまま食べ始めた。
カップルが席を立ってしまうと、ふたりともいつものようにゾンカ語と英語で冗談を言ながらにぎやかに食べ始めた。けらけら笑っている彼らの豹変ぶりに驚いたが、自分たちの繊細さを隠さない素直さに腹が立ち、うらやましくもあった。虚勢を張るなんて、そもそも考えない人たちなのだろう。
怒りとカネ
翌日はブンタン近辺の史跡を見学する日程になっていた。
連泊なので、ゆっくりできる。
行き先が寺院とゾンなので、この日はキラを着た。いつものように、ホテルのダイニングルームでひとりで朝食だ。昨夜のかっこいいカップルがキラを着た私を見て、あれ?という表情を見せる。食事をしていたら、そのカップルのガイドがダイニングルーム現れた。ビジネスっぽいゴを着た、礼儀正しい男性だ。カップルに対して今日の日程を説明し、それが終わると「Enjoy your breakfast」と言って立ち去った。
実に紳士的だ。思わず、ジャムソーと比較してしまった。
ブータンの観光ガイドって、あれが普通なのだろうか?
実に紳士的だ。思わず、ジャムソーと比較してしまった。
ブータンの観光ガイドって、あれが普通なのだろうか?
9時出発の予定だったので、出かける支度をすませ、その時間にホテルのロビーで待つ。すぐジャムソーが現れたが、食事する、という仕草をしてそのままホテルのキッチンへ向かっていった。相変わらずだ。
ジャムソーとネテンが朝食をすませるのを待って、ホテルを出発。SUVに乗って、最初の見学先になるタムシン僧院へ向かう。ジャムソーは何だか元気がない。
「頭が何か、変な感じだ…」
「どうしたの? 頭が痛いの?薬を持っているけど、あげようか?」
「いや、頭痛じゃないんだ。でも、こういうことが時々ある」
「どこか悪いの?」
「わからない。大したことないと思うけど」
「休んだほうがいい?」
「いや、大丈夫」
痛くて苦しいということはないようだが、調子が悪そうだ。
タムシン僧院に着いた。ジャムソーとふたりで、見学する。もしかしたら気分が悪いのかもしれないが、いつも通り、僧院の歴史やそれぞれの建物について一通り説明してくれた。普段はうるさいくらいなので、これくらいでちょうどいいかもしれない。次の見学先のクルジェイの寺まで徒歩移動だ。よく晴れた日で、眺望の開けた田舎の道を歩くのは気持ちよかった。 ぽつりぽつり話しながら、ふたりでトレイルを歩く。ジャムソーは注意力散漫でぼけっとした様子だ。だるそうにしていると思うと、いきなり話しかけてきて、あれっと思うと、ドマを口に放り込んで黙ってしまい、そうかと思うと、突然携帯電話を取り出してどこかに電話している。
疲れが出たのかもしれない。日数を数えてみた。彼はもう12日間、休みなしで私のガイドをしている。ティンプーの自宅からサンドゥルップまで2日かかったと言っていたから、自宅を出発してからまるまる2週間経っている。疲れていないわけがない。
私たちが歩く道のすぐ脇に人家があった。女性が縁側で糸を紡いでいる。ヨコールで糸を紡ぐのはずいぶん見たけど、彼女は糸車を使っていた。見せてもらおうと思い、近づいた。
「見せてもらって、いいですか?」
女性は英語はわからない様子だった。ジャムソーに通訳してもらわないといけない。ところがちょうど携帯電話に着信があり、ジャムソーは誰かと話している。しばらく待ったが、いつまでたっても話が終わる様子がない。私が待っているのにも気がつかない様子だ。
糸車の女性と会話が途切れたまま、不自然なくらい待った。それでも携帯電話で話し続けている。仕方なく、私は彼女に英語で言った。
「私のガイドは通訳してくれそうにないので、もう行きます。失礼しました」
私がここに来ることも、もうないだろう。一期一会を逃した気分だ。私は歩き出した。電話で話しながら、ジャムソーがついてきた。しばらく歩いた頃、やっと通話が終わり、頼んでもいないのにジャムソーが女性が紡いでいた繊維についてしゃべりだした。
「今になって、そんな話を聞かされてもねえ」
「いや、君が興味あるかと思ってさ」
今さら偉そうに、と思った。
「…そういう話は、私があの女性と一緒にいた時に聞きたかったね」
「じゃあ、あの家まで戻ろうか?」
口調に険があった。糸車の女性と話しそこなった原因は自分にあるのに、たいした言い草だ。
「戻らなくていい。わざわざ戻って聞くほどの話じゃない。でもあなたは私のガイドなんだから、私が必要な時は、通訳するように。電話がかかってくることもあるだろうけど、私はここにいるんだから、私のことを優先して」
ジャムソーは口答えしなかった。自分がガイドで、仕事中である以上しかたがない。
「…イエス、マム」
すまなかった、という表情ではない。
目が怒りで輝いている。内心、不服なのだろう。
私も腹を立てていた。自分の不満について、もっともっとしゃべりたかった。ジャムソーを徹底的に糾弾したかった。立場の上では、そうすることが可能だった。「そのためにおカネを払った」と言って。
けれど、そうしたい欲求を私は抑えることができた。
私はすでに彼に注意したのだ。一回で十分だし、二回以上すれば逆効果だ。「私はそのためにおカネを払った」などと付け足せば、とどめの一撃になってしまうだろう。それは私の優位性を決定づけると同時に、ジャムソーとの信頼関係を修復不可能なものにする。
おカネは便利だ。私たちはおカネを介してモノやサービスをやり取りする。
ただ、私は、モノやサービスの価値をおカネで表現するのは好きじゃない。「高かったのに」とか「あんなにおカネを払ったのに」という言い方はしない。高いモノでも乱暴に扱えば壊れてしまうし、サービスの提供者をぞんざいに扱えば、どれだけおカネを払っても本当に心のこもったサービスを受けることはできない。おカネは交換のための媒体にすぎない。モノやサービスの本当の価値は金額で表現することはできない。お金さえ払えば何でも解決できると思っている人もいる。でも、私は決してそう思わない。
だから、「私はそのためにおカネを払った」と言わずにすんだのだ。
罪を清める
腹を立てている自分がいやだった。クルジェイの寺にお参りすれば、すこしは気持ちも落ち着くだろうか。頭の切り替えというのは、電気のスイッチのようにはいかないものだ。時間がかかる。心の中で怒りの瞬間をプレイバックするより、何か別のことを考えたり話したほうがいい。私はジャムソーに話しかけた。いつものように、彼にしゃべってもらおう。
「もし休暇が取れたら、ブータンのどこを旅行したい?仕事じゃなくて、自分の好きな場所へ行くとしたら?」
「休みが取れたら?そうだね、ハに行きたいな」
彼の故郷だ。
「どんなところ?」
「きれいなとこだよ。冬は寒いけどね」
「まだ友だちはいるの?」
「引っ越しちゃった友だちも多いけど、中学校の友だちがまだいるよ」
「家族は?」
「母がいる。それと、祖母」
「ああ、両親が住んでるのか。それならいいね」
「いや、父はプナカの近くの、別の町に住んでる。ちょっと遠いね」
「仕事かなんかで?」
「…離婚したから」
あああ、また地雷を踏んでしまった。
会話を修復する気力もなく、とぼとぼ歩き続けて、クルジェイ寺に着いた。先回りしたネテンのSUVがもう到着していた。お参りしてくるね、と言って、ジャムソーと私は境内に入った。
クルジェイ寺は僧院ではないので、お堂を守る僧侶が何人かいるだけで、ひっそりとしている。タムシン僧院と同様、ツーリストが何組か見学していた。一人旅なのか、大きなカメラを首から下げた高齢の白人男性が、ガイドに助けられてお堂の入り口へ続く石段を登ってゆく。
70代後半という感じだが、あんな状態でこの国を旅するのは大変だろう。どの建物にも手すりやスロープが付いている国とはわけが違う。私は身体が十分に動く状態でこの国に来ることができたけれど、もっとうんと年を取ったらあんなふうに旅することになるのだろうか。
3つある建物のうち、ひとつはカギがかかっていたが、残りのふたつを見学することができた。お堂に入り、いつものように参拝する。仏像や壁画、それ以外の美術品についてジャムソーが説明してくれた。山の斜面に寄りかかるように建てられたお堂からは、のどかな田園風景を望むことができた。心を静めるにはちょうどいい場所だ。
参拝が終わり、建物の外に出た。境内の中に、庭石のような石があった。高さ70~80センチくらいの石がふたつ、お互い寄りかかるように置かれている。ふたつの石のあいだには、地面を底辺にした三角形の隙間ができていた。
「この石のあいだを通ることができると、今までの罪が軽くなると言われている」
とジャムソーが教えてくれた。そういわれてみれば、石の周りの地面には、何かが通った跡がついていた。地面に横にならないと通れないから面倒だけれど、私の身体の大きさなら難しくないだろう。ブンタンは標高が高く、11月下旬のこの時期は昼でも寒い。私はテゴの下にランニング用の長袖シャツを着ていた。身体の大きさに合ったすべすべした素材のシャツで、こういうことをするのには打ってつけだ。
袷を留めている安全ピンを外してテゴを脱ぎ、ジャムソーに渡した。
「ちょっとこれ、持ってて」
地面に横になり、難なく隙間を通り抜けた。
さっき腹を立てたのも、これで帳消しになっただろうか。
【ガイドたち、ツーリストたち】ブータンについて---18へ続く