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馬と一緒にフォメイへ向かう女の子

【ジョンカーテン】ブータンについて---14から続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)

村人の通る道

朝、目を覚ました。ということは、ちゃんと眠ったのだ。
私の身体はようやくブータンで眠ることを覚えたのだろうか。

キャンプ地のジョンカーテンからトレッキング終点のフォメイまでは遠くない。リラックスしたような、気が抜けたような気分で出発した。キャンプサイトからしばらく歩くと小さな集落があった。ジョンカーテンの村だ。昨夜キャンプサイトを訪ねてきたノルブは、今ごろ学校で授業中だろうか。

村を過ぎ、トレイルは深い木立の中を通って行く。馬を連れた若い女性がいた。馬に積んだ荷物がずれてしまい、うまく直せないのだという。シリンとジャムソーが手伝って、荷物を直した。シリンはジョンカーテンの出身だ。この女の子は、ノルブの姉なのだという。そういわれれば、優しそうな顔立ちがノルブと似ていた。


フォメイまでのトレイルは、昨日歩いたトレイルにもまして交通量が多かった。荷物を背負った馬や牛のほかに、用事で出かけるといった様子の村人もいた。そのまま町の中を歩いてもおかしくない服装の人もいる。私にとっては、町の暮らしに戻って行く道だった。昨日まで旅していた土地が特別な場所だったことを改めて感じた。

人通りはそこそこあっても、トレイルの周囲はうっそうとした木立だ。そんな山道を、町の普通の生活感覚を漂わせた人たちが歩いていくのは不思議な光景だった。首都ティンプーからジョンカーテンの親戚を訪ねて、帰る途中の男性がいた。きちんとゴを着た、都会の人だ。英語も流暢で、学校の教員なのだという。

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ノルブの学校のことを質問してみようか。ジョンカーテンの小学校はパイロットプログラムの指定校になっていると聞いたけれど、何かご存知ですか、と聞いてみた。でも男性は教員といっても職場はティンプーの学校なので、よくわからないという。残念だったが、逆に質問された。

ブータンの学校教育と、米国の学校教育と、日本の学校教育を比較したら、どの国の教育が一番優れていますか?

これはむずかしい。

ブータンではサクテンの学校を見学しに行ってノルブからジョンカーテンの学校の話を聞いただけで、それ以外のことはわからない。米国はボランティアで小学校のティーチングアシスタントをしたことはあるが、自分で通ったのはカレッジだけだ。日本では幼稚園から大学まで通ったが、もうだいぶ前の話だ。

個人的な印象だけど、と断って話し始めた。

日本の学校は規律を厳しく教える。とてもいいことだけれど、学校が楽しくないと感じている子供は多い。アメリカでは様々なプログラムが用意されているが、その可能性を利用するかどうかは本人と家族の責任だと考えられている。ブータンでは学習のリソースや機会は限られているが、子供たちは幸せそうだ。

ブータンの学校でも、いろいろあるのかもしれない。もしかしたら、いじめや落ちこぼれや、登校拒否もあるのかもしれない。でも、ここでは子供たちは、気楽に「自分自身」でいられるのではないか?そんなふうに感じていた。

米国や日本では、「もっとすぐれた自分」を目指すように子供たちを励まし、そして追い立てる。
子供だけではなく、大人も同じかもしれない。「自分を変える〇〇」というコピーは、メディアにあふれている。


終点

トレイルはジョンカーテンからさらに標高を下げていったが、最後は上りだった。
上りきったところが終点だから、とジャムソーは言った。

そんなのウソで、上りきったらまた別の山があるんじゃないかと思ったが、崖のような坂を上りきると、そこは未舗装ながらも自動車の通れる道だった。そしてトレッキング初日にランジュンからチャリングまで乗ったのと同じピックアップが待っていた。

終点のフォメイのはずだが、集落があるわけでもなく、物置のような小屋が立っているだけだ。多分、乗り合いタクシーに乗ったり降りたりする人たちの待合所なのだろう。

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始まった時と同様、なんだかよくわからないうちに、唐突にトレッキングは終わった。一足先に到着したシリンたちが、馬に積んだ荷物を降ろしている最中だった。荷物を積み終わるとホースマンに別れの挨拶をして、ジャムソー、ドルジ、ギレ、私の4人はピックアップに乗り込み、出発した。

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車はさっきまで歩いていた道と大差ない景色の中をゆっくりと進んでいくが、歩いていないと変な感じだった。考えてみれば、車に乗って移動するのは一週間ぶりだ。私はドライバーの隣に座ったが、後部シートが静かだなと思って後ろを見ると、ジャムソーが爆睡中だった。トレッキングの疲れが出たのだろうか。彼の隣で、ギレがくすくす笑っていた。

しばらく走り、道路わきの大きなマニ壁の近くでピックアップは止まった。ランチだという。

もうトレッキングは終わったつもりだったので、なんだかびっくりした。マニ壁の横でピクニックになった。ドルジがいつもの弁当箱を取り出して、みんなで食べた。最後の食事だ。ほっとしたというよりさみしい気分で、こんな中途半端なことはとっとと終わりにして出発したい気もした。

昼食が終わり、私たちを乗せたピックアップはラディの村へ向かってゆらゆらと走り続ける。しばらく走ると、また何もない所で車は止まった。

降りると、ネテンがいた。ランジュンで別れた時と同じようにゴを着て、仕事の格好だ。

トレッキング初日にタイムスリップしたような気分になる。私が一週間かけて山の中を70キロ近く歩いたというのは実はウソで、そういう夢を見ていただけじゃないのだろうか?

「トレッキング、面白かった?」

ネテンが荷物をSUVに積み替えるのを手伝ってくれた。
私がかぶっていたサクテンの帽子に目を留めて言った。

「それ、どうしたの?」
「…トレードした」

ネテンは「えっ?」という表情をみせた。
ジャムソーは事情を知っているはずなのに、何も言わない。

ドルジとギレとは、ここでお別れだ。私とジャムソーはネテンの運転するSUVで、ドルジたちはピックアップで出発した。SUVの快適な助手席に落ち着いた時に、ああいつもの暮らしに戻ったんだと実感した。身体からほーっと力が抜けていくようだ。今日はこの車でトラシガンに帰る。まるでトラシガンに自分の家があるみたいに錯覚した。途中、ネテンに頼んで車を止めてもらって山の斜面に広がる棚田の写真を撮っていたら、ドルジたちの車に追い越された。

ドルジとギレが、窓から手を振っていた。

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ラディ、ランジュン、そしてトラシガンへ

トラシガンへ向かう途中、ラディの村で機織りをする女性の家を訪ねた。周辺の村の女性たちに教えるだけではなく、外国からも機織りを習いにくる人がいるという。織りかけの布の縦糸には何本も横木が通されて、複雑な模様の布を織りあげる。ヨコールを使って蚕の繭から絹糸を紡ぎ、染色して機織りするまで、ひととおりの工程を見せてもらった。

ラディの村からランジュンの町まですぐ近くの距離だ。

町はずれの高台にランジュンの僧院があり、見学しに行った。本来ならジャムソーがガイドするのだが、トレッキングの服装では僧院に入れない。それでネテンと一緒に行ってきた。ネテンはジャムソーから白いスカーフを借りて、ゴの上から巻きつけた。私は外国人なので、ブータンの人と同じ服装規定には従わなくてもよい。埃っぽい服装で気が引けたが、トレイルを歩いていたのと同じ恰好で見学させてもらった。

開設してまだ25年ほどの比較的新しい僧院で、僧院というより全寮制の男子校のような印象だ。ここで100人以上の子供たちが暮らしている。運営費用は海外からの寄付で賄われているのだという。学校のように見えても、僧院だからちゃんとお堂があり、お参りした。堂の入り口のところで一人の僧がお経を唱えながら五体投地礼をしている。お経を唱える時は特別な発声法があるのだろうか。詠唱する声がコンクリートのお堂の壁に朗々と反響していた。

けれども、お堂の中は静かで、物音ひとつしなかった。お祈りの時間ではないからだ。ネテンがブータン式の参拝をしていて、私にも参拝のしかたを教えてくれた。お堂の中にある先生の僧が座る席に向かって、額の前、口の前、胸の前で手を合わせて、床に手とヒザをついて跪き頭を下げる。これを3回繰り返す。これは思念・言葉・行為を、仏法僧の三宝に従うことを表している。それから、本尊に向かって同じ動作を繰り返す。

跪いて床に手をつき頭を下げ、また立ち上がる動作はなかなか大変だ。キラを着ている時にこれをやると、いつも裾を踏んでしまいそうで気を使った。ランジュンの僧院の床は石材だったが、普通の木の床のお堂で礼をする時、動作がスムースでないとドスドス音がして恰好がわるい。でも、旅行中たくさんの寺院に参拝したけれど、そんな無作法な人は見かけなかった。お年寄りでもなめらかな動きで参拝する。


トラシガンで

トラシガンへ帰る車の中で、ジャムソーはおかしなくらい上機嫌だった。
どうしてなんだろう?

「ネテン、どうしてジャムソーはあんなにうれしそうなの?」
「さあ?トレッキングが終わったからじゃない?」

トレッキングがそんなに大変だったのだろうか。
きっと、彼は彼なりに気を使っていたのだろう。

午後、まだ明るいうちにトラシガンに着いた。なんだか懐かしかった。ホテルに着いて、部屋のカギをもらう。前回と同じ部屋で、中に入ると私のラゲッジがそのまんま置いてあった。一週間のあいだ、宿泊客はいなかったのだろうか?さっそくシャワーを浴びて着替えた。ホテルの部屋の中を見回すと、ベッドの上に置かれたサクテンの帽子の特異な形状が目を引いた。あの土地から持ち出してはいけないものを持ち出してしまったような罪悪感におそわれる。

部屋の中に閉じこもっているより、わずかでも人目のあるところにいたかった。食事には早かったが、ダイニングルームまで行き、隅に置かれたソファに座って日記を書いた。

ダイニングルームは静まり返っていた。前回のような団体客はいない。食事をしているのはシニア年齢の白人のカップルが一組、そしてヨーロッパ訛りの英語を話す白人男性の一人旅のツーリスト。この地方に何か特別な関心があるのだろうか。ツーリストを見るのも、久しぶりだな、と思った。

そういえば、トレッキングのあいだ、外国人の旅行者に会わなかった。

外国人どころか、地元の人間でないのは私とジャムソー、そして最終日に歩きながら話をしたティンプーの教員の男性くらいで、あとはみんなこの地域の出身者ばかりだった。

ブータンは国際社会から切り離されたような印象の国だが、東ブータンはその中でさらに切り離されているような雰囲気だ。何かのバランスが狂ったら、現実社会から簡単に消滅してしまいそうだ。独自の文化と自然を保護するために、この地域は1990年から2010年まで外国人の立ち入が禁止されていたのだが、それもうなずける気がした。

8時になると、ジャムソーとネテンがやってきた。
ジャムソーは相変わらずうきうきした様子で、ネテンとゾンカ語で楽しそうに話し続けている。

一足先に快適ゾーンへ戻ってしまったジャムソーがうらやましかった。私はまだキャンプファイヤのある夕食が懐かしくて、今からこんな状態で、旅行が終わって独り暮らしのカリフォルニアに戻ったら一体どんなうつ状態になってしまうかわかったものではないと、心配になってきた。疲れていると、考えることも暗くなるのだろうか。今日はホテルのベッドで寝る。うんと深く眠りたかった。

食事中も、ジャムソーの携帯に電話がかかってくる。まるで落ち着きのないティーンの食事みたいだ。アロウ、と電話に出て、あとはゾンカ語だ。通話が終わると、私に言った。「誰からの電話か、分かった?」

「分からない。誰だったの?」
「ギレだよ」
「ギレ? 彼、今どうしてるの?」
「モンガーに着いたって」
「モンガー? バスで?」
「車」
「車? ギレは車を持ってるの?」
「違う。会社の車」

車?会社?何だか、訳がわからなくなってきた。

「会社って、どこの会社?」
「ブータントラベラー。ギレは商業ドライバーの免許を持ってる」

えええ? 

「ここからモンガーまで、車で3時間しかかからないんだよ」

とネテンが説明してくれた。でも私が驚いたのは、ギレがいきなりモンガーへ行ってしまったからじゃない。言葉があまり通じなかったから仕方ないのだが、ギレはいつも山の中にいる村の男の子なのだと、勝手に思い込んでいた。商業ドライバーの免許を持っていて会社の車を運転しているなんて想定外だ。一週間一緒に行動していて、そんなことを考えたこともなかった。

世の中には、私が理解できないことが無数にある。身近な人物でも、知りえないことは山ほどあるに違いない。そんな何もわからない状態で、これからどうやって生きていくことができるのか、いや、知らないからこそ生きていくことができるのか。いずれにしても、これ、と思った方向に進んでいくしかないのだ。理由なんて考えるだけ無駄だ。

明日は私たちも、モンガーへ向けて出発する。ブータンでの日程も、もう後半だ。
これからは町から町へ車で移動する旅になる。

今日までの滞在からは想像できないような、この国の別の側面を発見していくことになるのだろうか。

【モンガーへ】ブータンについて---16へ続く