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サクテンを出発。快晴。

【サクテンの村】ブータンについて---13から続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)

広葉樹林を下る道

翌朝は晴れて、青い空が広がった。

おとといサクテンに到着してから初めて見る青空。ここにも晴れの日があるのか、と思った。二人のホースマンが5頭の馬を連れてきた。この日の歩行距離は17キロ。距離は長いけど、ずっと緩い下りだ。帰ってしまったリンチェンの代わりに、シリンというホースマンが弁当を運ぶ係になり、一緒に歩いてくれた。

サクテンを発つ時に思った。ここに来ることができてよかった。

来ようと思えば、また来ることができるのかもしれない。でも、仮に5年後にここを訪れたら?自動車道が開通し、村の様子はすっかり変わっているだろう。一期一会の出会いは終わった。私は思い出を心にしまいこみ、そこからさまざまな意味や印象を紡ぎだしていくことになるだろう。

トレイルは小さな峠を越え、広葉樹林の中を下り始めた。広葉樹は人の生活やぬくもりを連想させる。そういう世界に、少しずつ戻って行くような気がした。私はやさしい森よりも、視界の開けた場所の方が好きだ。心のどこかで、人間の暮らしを嫌っているのだろうか。

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サクテンからジョンカーテンへ下るトレイルは、今まで歩いた区間と比べると交通量があった。

交通といっても徒歩で移動する村人や荷物を積んだ馬や牛だが、ジョンカーテンの先、フォメイまでは自動車の通れる道がある。この道を通って町まで行く人は多いのだろう。ナチュングラやミクサテンのトレイルは現実離れした雰囲気だったが、ジョンカーテンへのトレイルはもっと生活感があった。

トレイルのはるか下に、勢いよく流れる渓流が見えた。雨の多い土地だ。このあたり一帯に降り注いだ雨が、渓谷に集まって流れていくのだろう。メラクの村に向かう時に歩いたトレイルと同様、自動車道路の工事が進んでいる区間もあった。古いトレイルと建設中の自動車道路を結ぶ、自然発生的なショートカットがあちこちにあった。ショートカットの入り口には特に表示があるわけではなく、この道をいつも行き来している人でないとわからない。そういう場所では、必ずシリンが待っていてくれた。

携帯電話の電波も十分な強さがあるのか、ジャムソーの携帯電話にひっきりなしに着信があった。ガイドの仕事は自営業みたいなものだし、彼のことだから友人も多いのだろう。ゾンカ語で話しているので何をしゃべっているのか分からないが、固有名詞は聞き取ることができる。トレッキング中に訪れた場所を、何回も繰り返している。

「メラク…ミクサテン、サクテン…サクテン。サクテン!サクテン、フォメイ…トラシガン!」

通話が終わると、ジャムソーが言った。

「うちのおふくろだよ。昨日電話しなかったから、おこられちゃった。どの村がどこにあるのかなんて全然知らないのに、行った場所を全部聞かないと気がすまないんだよねー」

彼の母親は西ブータンの人だ。東ブータンの僻地の村の位置関係なんて、当然わからないだろう。しかし、母親というのは成人した息子にこんなに電話してくるものなのだろうか?

私は20代の半ばから独りで暮らしているが、80年代のメキシコという通信インフラが整っていない土地に住んだためもあってか、実家から電話がかかってくるなんて全くなかった。というか、そもそも自分の電話がなかった。用事があれば、メキシコ人の大家さんに電話して呼び出してもらうしかなかった。

こんな状態で日本から電話がかかってくるわけがないし、さらに国際電話の通話料金も非常に高かった。今は米国に住んでいて、通信インフラの問題は消滅し、通話料金もずっと安くなった。

でも、日本の家族から電話はかかってこない。メールも、滅多に来ない。

ともあれ、こんなに母親から電話がかかってくるんじゃ、離婚した奥さんは鬱陶しかっただろうなと思う反面、電話してくる母親の気持ちがわからないでもなかった。今年に入ってから病気で寝込んだことがあるので母が心配している、ジャムソーはそう言っていたが、病気とは別に、彼にはどこか"心配"させるような雰囲気があった。

そして、どうして私の家族が私に電話してこないのかもわかった。
それは私に対する愛情がないとかそういうことではなく、ただ単に"心配"なことがないからだ。

ともかく、ジャムソーの携帯への着信は呆れるくらい多かった。私は一緒に歩いていたギレに言った。

「ジャムソーは携帯電話を2台持った方がいいね」

ギレはけらけら笑った。ジャムソーが言い返した。

「何も用事がないのに、友だちが電話をかけてくる。間違い電話のふりしてやった」

私は言った。

「今度電話がかかってきたら、私が出る。番号違いで日本にかかっているから、番号を調べてかけなおせと言うよ」


ジョンカーテンのキャンプサイト

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トレイルはぐんぐん標高を下げていく。何回も吊り橋を渡りながら、はるか下に見えていた渓流と同じ高さになり、流れに沿って進んでいく。大きな川ではないが、傾斜がきついためか流れは速くて勢いがある。ジョンカーテンのキャンプサイトは、その川に沿った小さな広場のような所にあった。

「あれが今日のキャンプ地。気に入った?」
「うん」

すぐ横を流れる川から、まるで滝つぼの近くにいるような大きな水音が聞こえる。標高は1700メートルほどで、今までのキャンプ地と比べると格段に暖かかった。両側には山の斜面が迫る。渓谷の底にあるせいか、まだ午後4時くらいなのにもう夕方の雰囲気だった。

視界が開けないのがつまらなかったし、川の水音が気になった。

うるさいというのではなく、これだと小さい音が聞こえない。でもそれは些細なことだったし、このキャンプサイトはイヤだと言ったところで、何にもならない。明日はフォメイまで歩いてトレッキングは終了だ。ここが最後のキャンプ地というのは少し残念だったが、それはそれで仕方ない。ここで眠るのも、何かの縁だろう。

「君のテント、どこらへんに張るー?」

ジョンカーテンのキャンプサイトにも、ミクサテンと同じような2部屋の建物があり、台所に使っていた。トレッキングのクルーはその建物の中で休む。

「そうだねえ、あまり建物に近くないほうがいいな」

建物と川のちょうど中間くらいのところにテントを張ってもらった。

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ノルブ・サンゲ

キャンプサイトにはファイヤピットはなかったが、サクテンから参加したホースマンのドルジとシリンが、大きなキャンプファイヤを作ってくれた。その横にテーブルを置いて、日記帳を開いた。キャンプファイヤの横で日記をつけるのも今日で最後だなと思う。ドルジの持ってきた蛍光灯と懐中電灯の光で、日記を書いた。

夜、すっかり暗くなってから、小学生くらいの男の子がキャンプファイヤの横にいるのに気がついた。

こんな真っ暗な中を、一人で来たのだろうか?そもそも、このキャンプ地に何の用事があるんだろう?折りたたみ椅子に行儀よく座った様子は、座敷わらしを連想させた。

「こんばんは。どこから来たの?」
「ジョンカーテン」
「こんなに暗いのに、ひとりで来たの?」
「ううん。おとうさんと一緒に来た」

学校でしっかり教わっているのか、きれいな英語だった。父親が何か用事があって、キャンプサイトに来ているのだ。用事がすむまで待っているように言われたのだろう。

「私はさつき。アメリカから来たけど、日本人だよ。名前はなんていうの?」
「ノルブ・サンゲ」
「何歳なの?」
「12歳」

落ち着いたしっかりした受け答えで、大人びた雰囲気のある子供だったが、9歳か10歳くらいにしか見えなかった。この地方の人たちは、大人も子供も実際の年齢よりずいぶん若く見える。小柄な人が多いというのはあるかもしれないが、それだけだろうか。

サクテンで学校を見学しに行ったことを思い出し、ノルブの通う学校のことを聞いてみた。話しはじめてすぐ分かったが、質問に対する答えが的確で言葉のムダがなく、先進国で中途半端な英才教育をうけた子供より、いやそういった国のビジネスマンより、ずっと聡明だという印象さえ受けた。

ノルブはジョンカーテン小学校の5年生。村にはジョンカーテン小学校しか学校はないが、パイロットプログラムの指定校になっている。生徒数は56名で、6名の教員が配属されている。学校で学ぶのは英語、ゾンカ語、理科、社会科、数学の5科目で、ノルブは英語が一番好きだ。学校には図書室もあり、1週間まで本を借りることができる。最近読んだ本の中ではブータンの歴史の本が面白かったといっていた。

幼い顔つきのノルブが、ブータンの17世紀の歴史が面白い、と言うのを聞いて、これはただものじゃないと思い始めた。学校の授業は朝の6時から夕方4時まで。給食があり、朝食と昼食は学校で食べる。夕方以降のプログラムもあり、夕食を学校で食べる子供もいる。

車で行けないような小さな村にそんな学校があり、こんなに賢い子供がいることに驚き、感心した。キャンプファイヤの周りには、ホースマンのドルジとシリンがいた。学校のことを一通り聞いてしまうと、彼らと話すために通訳をしてもらった。ホースマンと話すのなら、話題は馬のことがいいだろう。私は、馬についてあれこれ質問してみた。

英語が好きだというだけあって、ノルブの通訳は明瞭で、私より上手なんじゃないかと思った。

「通訳上手だね。馬のことはよく知っているの?」
「うん。僕のうちでも、7頭飼っている」

馬の話は得意分野だったのかもしれないが、それを差し引いても非常に優秀な通訳だった。ドルジとシリンも、楽しそうに話していた。きっと英語からゾンカ語方向への通訳も、上手にできていたのだろう。


見えない星

父親の用事がすみ、ノルブは帰っていった。みんなでキャンプファイヤを囲んで座り、ドルジの用意した夕食を食べた。最後の夕食だから特別なのか、バターの入った温かいアラがふるまわれた。

そのあと、やっておかないといけないことがあった。

今日はトレッキングの最後の夜だ。明日の朝はあわただしい。今夜のうちにクルーにチップを渡さないといけない。キャンプファイヤの横で、ふたりのホースマンにそれぞれチップの入った封筒を渡した。それからトレッキング初日から同行している、ドルジとギレにも同じように封筒を渡した。今はもう、本当の仲間のように感じていた。

「ドルジ、今日まで、ありがとう。ドルジの作るお料理はいつもおいしかった。お弁当も、いつも楽しみだった。それから、ケーキはとてもうれしかった。ドルジのおかげで、サクテンの村でたくさんの人と会うこともできた。本当にどうもありがとう」

ジャムソーが通訳してくれた。ドルジに封筒を渡し、しんみりした気分になる。次はギレだ。

「ギレ、いつもお茶の支度をしてくれて、ありがとう。ギレはいつも明るくて、歌もたくさん知っていて、一緒にトレッキングするのは本当に楽しかった」

ギレは封筒を受け取ると言った。

「友だちとトレッキングしているみたいで、僕たちも楽しかった」

私は、彼が言ったことは本心なのだと信じている。とてもうれしかった。

この夜はみんな早々に建物に引き上げた。またトランプでもするのだろうか。私はキャンプファイヤの横に残り、空を眺めていた。静かな田舎に出かけた時に、星を見るのが好きだ。山の瞑想センターでも、砂漠の瞑想センターでも、夜眠る前に必ず外を歩いて星を見る。寒くても必ずそうする。ブータンにも星座盤を持参していた。キャンプする時に星を見ようと思ったのだが、どこのキャンプ地も夜は雨か霧だった。

ジョンカーテンのキャンプサイトも、天体観測に向いているとは言いがたかった。寒くないのはありがたかったが、空はうす曇りで明るい星しか見えない。そもそも谷底みたいな場所だから、両側の山にさえぎられて、空はあまり広く見えない。それでもカシオペア座を探し、山の稜線ぎりぎりの場所に北極星のあるのを確かめた。

静かな屋外で過ごす夜を、もう少し味わいたかった。ジャムソーが来た。

「何やってるの」
「星を見てるの」
「見える?」
「あまり見えない」
「見えないの? あそこにひとつ星がある」

その星を照らそうと、懐中電灯を空に向ける。
でも、そんなことをしたら、天体観測は台無しだ。
光を見てしまうと、暗い星が見えなくなる。

「あー、懐中電灯つけないで。星が見えなくなる」
「どうして?」
「光を見ると、目が光に慣れてしまって、星がよく見えない。光を見ないで、10分待ってみて。目が暗いのに慣れて、もっとたくさん星が見えてくるから」

懐中電灯を消して、そのまましばらく待った。明日、トレッキングが終わったら、またジャムソー、ネテン、私の3人で行動する。トレッキング中のことを話すのなら、ネテンに再会する前のほうがいいだろう。

「…サクテンに着いた夜、ロブザンとリンチェンが帰ってしまったのが、とても辛かった」
「?なんで?」
「雨が降っていて、真っ暗だったし」
「懐中電灯持ってるし、大丈夫だよ」
「懐中電灯があったって、足元しか見えないよ。今から懐中電灯つけてサクテンに帰れって言われたら、ジャムソーはサクテンへ帰る?」
「…君は?」
「帰っていいって言うんだったら、帰りたい。歩くの大変そうだけど」
「…ここのキャンプサイト、気に入ってない?」
「あまり好きじゃない。これは個人的な好みだけどね」
「なんで好きじゃないの?」
「私はサクテンみたいに、視界の開けている場所のほうが好きなの。それと、ここは川の音がするから」
「(川の音が)うるさいってこと?」
「そうじゃなくて、音が聞こえないから」
「?音って?」
「テントの近くで何か動いても、音が聞こえない」

言ってから、しまったと思った。クルーの誰かがおかしな挙動に出ると疑っている訳じゃないのだ。慌てて付け加えた。

「でも、別に安全なんだけどね」
「…」
「ロブザンとリンチェンが帰ったのが、どうしてあんなに辛かったのか、自分でもよくわからなかった。でも、あれがきっかけになって、思い出したことがある…私の昔のボーイフレンドで、亡くなった人がいる。別れた後も毎年誕生日のメッセージが届いていたんだけれど、その年は届かなかった。新しいガールフレンドができたのかもしれないと思って、何もしなかったんだけれど、やっぱり気になってこっちからメッセージを送った。でも返事がなかった。もう一度送ったけど、やっぱり返事がなかった。思い切って電話してみたら、つながらなかった…そのうちに私の家族が日本から電話をかけてきて、私あてに小包が届いたと聞かされた。差出人は彼のお兄さんで、何かあったんだと思ってもう一度電話した。そうしたらお兄さんが出て、彼は死んだと言われた。自殺だった。亡くなった正確な日は分からない。でも私が最初のメッセージを送った日か、その翌日くらいだった…私がもう一日早くメッセージを送るか電話するかしていれば、自殺は防げたのかもしれない。そう思うと頭がおかしくなりそうだったけど、もう4年も前のことだから、今は平気になった。でも思い出すと辛いね。ロブザンたちが出発した時、亡くなった彼の歩んだ道も暗かったのかなって思った」

ジャムソーには迷惑だったかもしれないが、話してしまいたかった。サクテンで落ち込んでいたのは、トレッキングがつまらなかったからじゃないということを分かってもらいたかったのが半分、自分の心の中にあったものを吐き出してしまいたかったのが半分だ。

「…そういうことって、あるよね」

とジャムソーは言った。

「…だからそれ以来、何かやろうと思ったら、先延ばししないことにしている」

私は続けた。

「だから今年、ブータンに来た。今年にしようか来年にしようか、迷った。でも今年にして、よかった」


暗闇の中で

目が慣れるとそれなりに星が見えたが、「満天の星」というところまではいかなかった。
もう休むことにして、テントに戻った。月のない夜で、自分の手も見えないくらい真っ暗だ。

ヘッドランプ式の懐中電灯を腕からぶら下げて、歯ブラシを持って外に出た。建物の近くに水場があるが、そこまで行くのは面倒くさい。テントのすぐ横、建物からみて反対側で歯を磨くことにした。自分が歯を磨いていることを人にわざわざ知らせる必要はない。ここなら建物から見えないだろう。

外で歯を磨くのも、今日でおしまいだ。
明日の夜はホテルの部屋のバスルームが使える。

つまらない気もしたが、お湯のたくさん出るシャワーで身体を洗ったら、さっぱりして気持ちいいだろう。町の暮らしには、町の暮らしにしかない、それなりのよさがある。

すぐ横の渓流の、大きな水音を聞きながら歯を磨いた。

瞬間、歯ブラシを口の中に入れたまま凍りついた。
何かいる……動物か?人間か?

次の瞬間、暗闇の中にふたつの暗い光の点を認めた。

目! 

そう思ったとたん、同じ闇が光でいっぱいになった。うわ、眩しい!

「何をやっている?」

ジャムソーだった。動物でなくてよかったが、普通に息ができないくらいびっくりした。彼はいったい何しに来たのだろう。まさかここで歯を磨いてはいけない、などということはあるのだろうか。さっきまで自分の口の中に入っていた歯ブラシをこれ見よがしに懐中電灯で照らしながら、私は言った。

「何って、歯…歯を磨いているんだけど!?」
「何か変わったことはない?」
「ない!一体どうしたの?」
「テントの周りで光が動いているのが見えたんで、何かあったんじゃないかと思って、見に来たんだ。何でもないなら、よかった。驚かせて悪かったね。おやすみー」

びっくりしたが、心配してもらえるのはありがたかった。そして、動物ほどではないが、真っ暗な所だと人間の目も光って見えるということがわかった。

私の目も、あんなふうに光って見えるのだろうか?
町で暮らす私のような人間でも、自然の中の生活に戻るポテンシャルがあるのだろうか…?

歯を磨き終えるとテントに戻り、寝袋に潜りこんだ。眠りが浅いのはいつものことで、夜中に目を覚ました。寝袋の中で懐中電灯を点けて時計を見ると、12時を少し過ぎたくらいだ。寝袋から頭を出すと、なぜかテントの中がほんわりと明るい。朝の光とは違う。大体まだ真夜中だ。トイレに行こうと思って外に出た。

そこには、意外なものがあった。

私が歯を磨いていたあたりに、長さ1メートルほどの木の枝が立っていた。そして、そのてっぺんに、ドルジの蛍光灯がぶら下がっていた。

私がうとうとしている間に、即席の常夜灯を立ててくれたのだ。

テントの周りで物音がしても聞こえないと言ったのは自分だが、まさかここまで何も聞こえないとは思わなかった。

【トレッキングの終わり】 ブータンについて---15へ続く