岡田利規『エンジョイ・アワー・フリータイム』(白水社、2010・2)には三篇の戯曲が収められている。『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』(2009)、『フリータイム』(2008)、『エンジョイ』(2006)。何れも非正規雇用者たちが抱える問題を、物語的にではなく、グロテスクなまでに加工された、日常会話体の冗長な日本語表現によって提示しているものだ。以下では一番印象に残った戯曲『エンジョイ』にしぼって感想を記しておきたい。
 
 他の戯曲でもそうだが、『エンジョイ』は物語性が薄い。それでもあえて話の要約をしてみれば、漫画喫茶で働く30代アルバイターたちの微妙な緊張が走る人間関係を淡々と描く物語、といった処だろうか。改めて確認するまでもなく、今日30代フリーターの置かれている社会的状況は厳しい。端的に「負け組」に分類されている、といっていいだろう。
 
 しかし、これは多くの30代フリーターが同意してくれることだろうが、「お前は負け組だ」と面と向かって言われることは経験的にはほとんどない(はずだ)。実際、「30代フリーターは負け組」という言説をそのままの形で展開しているあれこれの論者を探すことは難しいだろう。その価値観を前提にしている議論であっても、直接的な命題としては表現されない。ではその「負け組」意識はどこに由来しているのか。それは、「空気」である。場の空気によって、ある共通性が自明視され、その反対にそこからこぼれ落ちたトクベツな対象が生まれる。現代ではスティグマをつくるのに焼印はいらない。個々人がそのような空気を内面化し、以降勝手に先取り的に誰が決めたわけでもない分類表へ自分をカテゴライズすることで、スティグマが維持される。そして正にその「空気」感をうまく表現しているのが『エンジョイ』というテクストだ。ある女性がいうように「具体的な誰々さんに言われたことが直接あるの?」(160p)という問いは至当だ。しかし、その問いには答えが返らない。「直接言われてないのに直接言われた風に、勝手に、先読みっていうか、深読みっていうか、先走りか、してそこまで行く」(161p)のだから。
 
 『エンジョイ』では空気という言葉の代わりに「雰囲気」という言葉が多用されている。「バイトして、日々つないで、かなきゃいけない部分あるわけでしょんっ、っていう雰囲気、分かるでしょ?」(117p)、「勘づいちゃってたんですけどね、雰囲気がそういう、もうあることには」(124p)、「そういう雰囲気の漂い」(130p)、「こっちの価値観で言ってもある意味しかたない、みたいな雰囲気の、そういう、雰囲気という形での」(159p)、「空気、雰囲気の存在、てのが絶対に」(166p)。
 
 「雰囲気」が存在するとは一体どういうことなのか。この問いは極めて困難だ。というのも、「雰囲気」とは形而下的(物質的)に存在する訳ではなく、だからといって形而上的(観念的)に存在しているともいえないからだ。或いは、雰囲気は個人が勝手に生じさせる気分の一つであろうが、だからといって、純粋に個人だけの要素で生み出されるものではなく、(少なくともその個人が把握している)集団性の位相と共に成立するからだ。物質的でも観念的でもなく、個人的でありかつ集団的でもある曖昧な対象、それが「雰囲気」だ。実際登場人物の一人が言っているようにそれを「状況の関係性」と呼んでもいいかもしれない。


「いろんな力関係とかの、その場その場の、状況の関係性みたいなことだったりするのなあって面もあって、たとえば時間とかの場合、基本的に、駅にいるって、急いでいる、っていう基本的な前提があるじゃないですか、ってこともたとえば関わってくる可能性もあるだろうし、そういうものがいろいろ結集して、そうそう、なるみたいなのは、でもすごく微妙で、一概にあんまり論理論理っていう面も」(110p)
 

 「状況の関係性」は「論理」(logic)で分析することのできない「微妙」な対象だ。というのも、「状況」は「その場その場」に応じて、その(権力的)力線が複雑に組み合い絡み合って、瞬間的に交代していく事前に予見できない様相をその場その場で提示してくるからだ。雰囲気の理解が困難なのは当然だ。それは主客二元論のような近代的認識パラダイムから逸脱してしまう、「場」の論理に貫かれている。泥沼のようにまとわりつくものの、実体のない幻影的対象(錯覚?)が、フリーターに対して抑圧的に機能するのだ。「状況の関係性」は場的である。言い換えれば、〈私―あなた〉の外で勝手に展開し、〈私―あなた〉を拘束する(と少なくとも知覚される)。
 

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写真:2013年2月の読書会にて。筆者による「状況の関係性」の図解。(撮影、東間 嶺)


 しかしながら、実は、『エンジョイ』はこのような「状況の関係性」に対して両義的な態度をとっているように見える。簡単にいえばこのテクストは「状況の関係性」の抑圧性を遺憾なく示しながらも、同時にそこにこそ、その抑圧性から脱却できる希望をみているように読めるのだ。即ち、雰囲気が「状況の関係性」の一つの否定的表出であるとしたら、このテクストは「状況の関係性」のもう一つの表出として声や匂いといった非視覚的感覚を対置しているように見える。
 
 サルトルを引くまでもなく、視覚(まなざし)は暴力的だ。視覚的コミュニケーションは端的に、「状況」や、或いは「関係」への参加を拒絶しやすい。冒頭では携帯電話の「防止スクリーン」について語られている。
 

「女の人ふたりが話してたんですけど、盗み聞きしてるつもりは当初まったく加藤くんはなかったんですけど、聞いてたら正直、結果的に途中から、完全にわりと盗み聞きという形にはなったんですけど、でも携帯のメールだと隣の人の画面も隣の人に画面見えないような防止スクリーン貼るじゃないですか、そういうのが声にはないから」(106p)
 

 視覚メディアは「声」と違って、角度の調整や衝立の設置によって、自己と他者を断絶させる。「声」はそのような物理的遮蔽を越えて、放射状に拡散する(だからマンション・トラブルに、騒音問題はつきものだ)。まなざしは管理しやすい。まなざしは差別的で、声は平等だが、その差別性が逆に管理の方向性を予め定めることに寄与するのだ。そして何より、声は場的である。ある場(例えば渋谷センター街の雑踏)のなかでは声は他の音にかき消されてしまい、また別の場(学校の図書室)では一寸したお喋りが室内に響き、誰もが耳を傾ける。冒頭に置かれたまなざしと声の対照は、ある限定された場を確保した正規雇用と不安定に場から場へ漂う非正規雇用の対立を表象しているといる。
 
 もうひとつは匂い。匂いもまたまなざしとは違い管理しにくい対象である。とりわけ注意すべきなのが、「ジーザス系」と呼ばれているホームレスである。そのホームレスは「おじさん、ちょっと正味な話、臭いんですけど」や「アルコール臭いものも微妙にブレンドされてません?」などとアルバイターたちに影で噂されている。匂いがもつこの「ブレンド」可能性はラストで更に顕示される。新宿駅のステーションで「互いの匂いを嗅ぎ合う」カップルは、「何かに気付き、互いの匂いを強く嗅ぎ合う」とき、「二人の手前をホームレスが通る過ぎる」。匂いの「ブレンド」可能性は、私秘的なコミュニケーションの空間に無理やり侵入してくる。
 
 フリーターは「勝手に、先読みっていうか、深読みっていうか、先走り」をして、つまりは過剰な予測によって、関係性を自己完結的に、或いは自家中毒的に補完しがちである。そこには他者がいない。「雰囲気」はもかしたら〈私〉の妄想かもしれないのに。

 この妄想を突破するために、『エンジョイ』が示唆するのは、「状況の関係性」を支配する「空気」(「雰囲気」)とは、同時に声や匂いのメディアでもあり、その開放的なメディアを通じて「関係性」のオープンネスにも反転できるという希望だ。「空気」は沈黙のうちに私たちを縛るが、その「空気」(形式)に言葉(声)や身体(匂い)といった内容を詰め込むことで、そこは他者との予期せぬ出会いを設ける場にも変化しうる。「雰囲気」はその漠然さ故に、言葉と体を駆使することでいかようにも変わる。その意味で、『エンジョイ』は生身の身体を扱う演劇に相応しいかたちで構成されたテクストだといえる。
 
 「空気」はときとして私たちを拘束するが、同時に「空気」は私たちに酸素を与え、言葉の振動を伝える公共圏でもある。汚らしいホームレスを、未来なきフリーターの絶望的な行く末の象徴だと受け取るべきだろうか。無論、それもいい。しかし、それを受け入れてもなお、現代のジーザス、つまりイエス(Jesus)は「空気」を吸って吐いて生きている私たち一人ひとりなのだと放言してみることも決して悪くないだろう。どいつもこいつも「ジーザス系」である。