
【二度と会わない人たち】ブータンについて---12より続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)
馬のいない朝
情緒的な問題なのか疲労のせいなのか、お腹が痛くなってきた。人を呼ぶほどではないが苦しい。部屋にトイレがついているのがありがたかった。
腹痛が和らいでうとうとし始めると、また痛くなってくる。
無理しないほうがいいと思い、持参していた常備薬を飲んだ。食あたりではない疲労やストレスが原因の腹痛は、薬を飲めば治ってしまうことも多い。外がうす明るくなるころには、お腹の痛いのも治まってきた。
腹痛は治ったものの身体は疲れきっていて、動く気になれなかった。でもいつまでも横になっていると、本物の病人になってしまそうで、起きた。まだ早朝だ。寝台に腰かけて瞑想した。とりあえず瞑想できる状態なのがありがたかった。
ファイヤピットへ行くと、ギレが火をおこしている最中だった。ロブザンはもういないんだ、と思った。でも、ギレも火をおこすのが上手だった。マッチは使わない。昨夜の焚き火の灰の奥に残っている熾に、焚付けになるような紙切れや木屑を載せる。横から息を吹き込んで小さな炎が見えてくると、細い枝をくべる。それが燃え始めると、今度は薪を乗せた。
「ギレは火をおこすのが上手だね。いつも家で火をおこすの?」
ギレは、うん、と返事をして、火が十分に強くなったのを見届けると、お茶の支度をしに台所へ向かっていった。キャンプファイヤの横で、暖かいミルクティが飲めるのはいい。体力も気力もゼロに近かったが、気持ちは落ち着いていた。お茶を飲みながら山肌を流れていく冷たい霧を眺めた。今日は歩かない。身体のどこかが痛いということもない。何とかなりそうだ。
体調を崩したら必ず報告するようにジャムソーに言われていた。
このまま回復するとは思ったが、今朝病気になったことは言っておいたほうがいいだろう。
「ジャムソー、今朝、病気になった」
彼の表情が変わった。
「お腹の調子が悪かった。でも、薬を飲んだら治った。だから今は大丈夫だよ」
「ほんとに?」
「ほんと。それからひとつ頼みたいことがあるんだけど。トイレットペーパーをひと巻き、探してきてくれない?」
「ペーパー?昨日渡したばかりだけど。あれ、もう使っちゃったわけ?」
彼は呆れたように言った。
ブータンのトイレットペーパーは芯の部分がとても大きい。それでいて、未使用のトイレットペーパーの直径は、日本やアメリカのトイレットペーパーよりずいぶん小さい。だから紙の長さもだいぶ短いはずだが、それでも一晩で使い切ってしまうのは普通ではないだろう(ちなみに、ブータンでローカルの人が使う普通のトイレは基本的に「水で洗う」式で、トイレの個室の中に水道の蛇口があり、プラスチックの手桶が置いてある。トイレットペーパーは使わない)。
「…だからさ、お腹の調子が悪かったんだってば」
ああ、そういうことかと納得したジャムソーは、トイレットペーパーを探しに行った。
こんなことを人に頼むのは恥ずかしいが、仕方ない。
昨日の朝ミクサテンを出発する時は、ドルジの父親も含めて7人の人間がいた。今朝はジャムソー、ドルジ、ギレ、私の4人だけで、ゲストハウスはひっそりとしている。ロブザンとリンチェンは、今ごろどこを歩いているのだろう?
彼らがいないと淋しいね、と言いたくなかった。
自分が心の優しい人間だと宣伝しているみたいでイヤだ。
そのかわり、私はジャムソーに言った。
「朝、馬がいないと変な感じだね。馬のいる生活にすっかり慣れちゃった。カリフォルニアに帰ったら、どうしよう」
「じゃ、ずっとブータンにいるとかは?」
そんなの無理に決まってる。
一日の公定旅費は250ドルだ。
自分の手に入らないものを追い求めるのは馬鹿げている。でももしかしたら、私は心のどこかで手に入らない何かを追い求めているのではないか?そう思うと怖かった。自分自身をきちんとコントロールできるのだろうか?
サクテンの村を見に行く
午前中は村を見物しに出かけた。村には8年制の学校があり、小学生から中学生くらいの年齢の子供たちが通っている。ジャムソーが職員に話して、見学許可を取ってくれた。


気力はゼロに近かったはずなのに、休み時間をにぎやかに過ごす子供たちを見ていると、こちらまで楽しい気分になる。サクテンの正確な人口はわからないけど、1000人から2000人ほどじゃないだろうか。その小さな村の学校に、303人の児童が通っている。主要科目しか教えないが、ここで暮らしていれば生活の中から学ぶことが山ほどあるだろう。
学校には給食室もあり、大きな薪のかまどが置かれていた。校庭の隅にはプレイヤーホイールがあって、女の子たちがおしゃべりしながらホイールを回している。そうこうするうち、年長の生徒が、教室の前に吊り下げた銅鑼のような円形の金属板をカンカンと叩いた。休み時間は終わりだ。8年生の教室を見学させてもらう。授業は英語だ。教員はきれいな英語を話す。
見学が終わり、別行動していたドルジとギレも加わって、ドルジの案内で村の中を見て回った。
「ドルジもあの学校に通ったの?」
ドルジの代わりに、ジャムソーが答えた。
「ドルジは学校に行かなかったんだよ」
ああ、悲しいことを聞いてしまった。
学校教育は確かに大切だけれど、この村で生きていくために必要なのは、もっと別のことなのかもしれない。ドルジは学校へは行かなかったけれど、トレッキングの装備と食材を管理して、十分とはいえない調理器具で毎日きちんとした食事を作ることができる。なかなかできることではない。それは、学校で学ぶこととはまた別だ。
家々の間を縫うように通る細い道を歩いて行くと、村の人たちが家を建てている現場に行き当たった。

建物の壁は、石と泥で作る。大きなエンジン音を響かせて、トラクターがやってきた。エンジンの音を聞くのは久しぶりだ。トラクターが牽引するカートに、河原で集めた石が載っている。壁の材料だ。

「あのトラクター、どうやって持ってきたか知ってる?」
考えてみれば不思議な話だ。自動車の通れる道のない村まで、どうやって運んできたのだろう?
「荷台の部分を外して、山道を自走してくるんだ」
ああ、そういうことだったのか。
自走といっても、途中で燃料を入れなければならないし、きっと大変だ。でもトラクターがなかったら、河原から建設現場まで石を運ぶのはもっと大変に違いない。家を建てるための労力は半端ではないと思うが、それでも日本や米国で住宅を建てるよりずっと話が簡単なように思えた。
ブータンにおける土地の所有制度が実際どうなっているのかは分からないが、ここでは、家を建てる場所が決まったら、村役場で許可を取るのだという。建築現場で働いている男性たちは、本職の大工というより大工仕事が上手な村人なのだろう。壁を作る石は河原から持ってくる。泥はどこから持ってくるのかわからないが、石同様、どこか近くから持ってくるのだろう。木製の窓枠とドアは自分たち作るか、あるいは町で職人に作ってもらうのかもしれない。
もし、私が米国で家を建てたいと思ったら、まずローンを組まないといけない。
でも、銀行も何もないこの村で、家を建てるために村の人がローンを組んでいるとは思えない。
家一軒建てるために必要なおカネも、そんなに多くないだろう。
たとえばこの村の経済規模を計算するとして、お金の動きを基準にしたら、とても小さいに違いない。統計上は貧乏な村ということになるだろう。でも、お金でカウントできない部分も入れたらどうだろう。もしかしたら、そこそこの水準なのではないか?市場経済に見放された米国の僻地のコミュニティや日本の過疎地より、ずっと豊かかもしれない。
ブータンの GNH(国民総幸福量)は、こういうところから発想されたのではないか?
河原

広い河原に立つプレイヤーフラッグ。白い色のフラッグは死者のためのもの。
ゲストハウスに戻り、ゆっくりした昼食になった。午後になると村の人が入れかわり立ちかわり、ドルジに会いに訪れた。おかあさん、おばあさん、親戚、近所の人たち……。ファイヤピットの周りはリビングルームのようだ。火の近くは暖かいけど、来客が多くて落ち着かなかった。ひとりで静かにしていたかったが、自分の部屋は寒すぎる。
昨日サクテンの村に来る時に通った河川敷まで散歩しようと思った。寒いのを我慢して部屋に閉じこもっているより、外を歩いたほうがいい。メラクの村のチョデンが織った、生シルクの布を頭と首に巻きつけた。その上からジャケットを着て、手袋をはめた。これで寒くない。
「ジャムソー、川まで散歩してくる」「川まで行くの?友だちは必要?」「大丈夫、いらない」
ひとりでのろのろ歩いて、考えたいことを考えたいだけ考えたかった。
昨日は河原からゲストハウスまで何気なく歩いてしまったが、逆さまに道をたどると思ったより距離があった。それでもいい、別に急いでいるわけじゃないし、小さな村だから迷子になる心配もない。
しばらく歩いて、河原に着いた。
石で埋めつくされた河原に道はない。どこをどう歩いたのだったか……。
広い河川敷を横切るあいだ、4~5回は小さな川を渡った。記憶をたどって、大きく深い流れを渡る橋を探す。丈夫な木の板を渡しただけの橋だ。昨日はリンチェンとジャムソーが一緒に渡ってくれたのでどうということはなかったが、一人で渡るのは怖かった。
その橋を渡り、次の流れを渡るもうひとつの橋を探した。
見つかったがその橋はさらに細く、渡る気にならなかった。でも、気がすんだ。昨夜、ロブザンとリンチェンはここを渡って帰って行ったのだ。私はゲストハウスに引き返すことにした。
何か記念になるものが欲しかった。歩きながら、きれいな石を探した。
繊細な白い縞模様の入った、明るいグレーの石を見つけた。堆積岩だ。ヒマラヤは大昔は海で、それが隆起したと聞いたことがある。その時代の堆積物でできた石なのだろう。私はその石を拾ってポケットに入れた。ゲストハウスに向かって、来た時と同様にのろのろ歩き始めた。
向こうから、ジャムソーがやって来た。
いつまでたっても戻らないので、心配になり見に来たのだという。
ゲストハウスを出てから1時間半近くたっていた。いつの間にそんなに時間が経ってしまったのだろう。
心配してくれたのはありがたかったし、彼に腹を立てているわけじゃないということを分かってもらいたかった。まだ元気に話す気になれなかったので、ポケットから石を取り出して見せた。
「これを拾ってきた」「雑貨屋まで携帯電話のプリペイドカードを買いに行くけど、一緒に来る?」「行く」
村へ向かって歩く途中でギレがやって来た。ドルジが来客で忙しいので、退屈なのかもしれない。3人で村へ行き、カードを買える店を探した。その後はもう行く所もなく、ゲストハウスに戻った。
言葉の通じない彼女と
午後遅くなっても、お客さんがぽつりぽつりとやってきた。夕食時間が近くなるとそれも途絶え、ドルジとギレは台所で食事の支度を始めた。ジャムソーは自然保護区を通過する届けを出さないといけないからと、役場まで出かけていった。私は、キャンプファイヤの横においたテーブルで日記を書いた。
そんな時間になって、村の女性がゲストハウスに現れた。
年齢は40歳くらいだろうか。伝統的な手織りの服を着て、ファイヤピットの向こう側にお行儀よく座った。とりあえず挨拶したが、英語は通じない。
ドルジかギレが来ないかな?
早くジャムソーが帰ってくればいいのに。
ずっと黙っているのも、きまりが悪かった。英語でも日本語でもどうせ分からないんだ、それだったら日本語で話そうか。私は日本語で話し出した。
「今日の午前中は、学校を見学しに行ったんだよ。子供たちがたくさんいて、かわいかった。でも学校へ行くくらいの年齢の女の子が、学校のすぐ横で赤ちゃんを背負って子守をしていて、ちょっとかわいそうだった。だけどここの暮らしには、学校で覚えることとは別のことが必要なんだと思う」
目の前の女性が何か言った。
「ここの暮らしは、私が住んでいる国とは全然違う。私の住んでいるところには、いろんなものが、たくさんあるの。そして、お金を払ってそれを買うの。でもここの人は、家が必要なら自分で建てて、服が必要なら自分で織る。あなたの着ている服も、自分で作ったの?」
彼女が何か言った。
「自分のことは自分でするのが、一番確実だと思う。そうすれば自分が本当に必要なものが何なのかわかるから。ここの人の服って、みんな同じだよね。でも同じでも…」
突然携帯電話が鳴った。彼女は懐から電話を取り出し、話し始めた。ほっとしながら、携帯電話で話している彼女を見ていた。しばらくすると通話が終わり、彼女は電話を懐にしまい、また私の話を聞く態勢だ。おっと。
「ええと、服はみんな同じようなデザインだよね。でも、それでも、イヤじゃないでしょ?その人がその人なら、服は関係ない。どんな服を着ていても、友だちは友だち。服装で個性を主張する必要なんて、まるでないよね」
彼女が何か言った。
「服だけじゃなくて、食べ物も自分で作るでしょう。動物の乳からチーズやバターを作って、野菜はお庭で作るでしょう。ちょっとくらいまずいかおいしいかなんて、関係ない。食べ物が食べ物で、それを食べて生きていければいい」
彼女が何か言った。
こんな感じで、一人芝居を二本同時に上演するような状態が続いた。
しばらくすると、また村人たちがぽつりぽつりと現れた。彼らがキャンプファイヤの周りに座っておしゃべりし始め、私は話すのをやめた。そのうちジャムソーが帰ってきた。もう夕方だ。彼に聞いた。
「ロブザンとリンチェンは、もう家に着いたかなあ」「着いてるよ」
「ほら。気に入った?」
それは簡単ながらも、ケーキだった。
ホットケーキミックスをフライパンで焼いて作ったのだろう。ケーキというには簡単すぎるかもしれないが、トレッキング中にケーキを作るという発想がそもそも信じられなかった。そして、とてもうれしかった。ケーキをもらったことは何回かあったけれど、焼いてもらったことなんてあっただろうか…?
そうだ、一度だけあった。もう20年以上もまえ、メキシコに住んでいた頃、料理上手な友人が誕生日にケーキを焼いてくれたことがあった。それ以来、誰かがケーキを作ってくれるなんてなかった。今年の誕生日は自分でケーキを焼いて、こんなもんかなと思いながら一人で食べたのだ。毎年こんな感じだ。
「信じられない。すごくうれしい。ドルジ、カディンチェラ。こんなに幸せなことってない。私の人生で、ケーキを焼いてくれたのは、ドルジが二人目だ!」
ジャムソーが通訳してくれた。ドルジが何か言った。
「一人目になれなくて残念だったと、ドルジが言っている」
賑やかな夜
ナイフを借りてそのケーキを小さく切って、ファイヤピットの周りに集まった村の人たちに食べてもらった。本当に、誕生日みたいだ。それにしても、何人くらいいるのだろう。
「ジャムソー、お客さんは何人来ているの?」「10人。あと子供が何人か」
ファイヤピットは村人で埋まっていた。
彼らの前に、アラの入ったビンが並んでいる。形式上は、私にアラを勧め、もてなすためにやって来たのだ。大変なことになってしまった。ファイヤピットの横に座った私に、作法通りアラが勧められる。これは断ってもよいそうだが、相手をがっかりさせたくない気持ちもあり、いただいた。でも、さすがに全員からはもらえない。たくさん飲めなければ寺院でもらう聖水のように手のひらに受ければいいのだと、ジャムソーが教えてくれた。これがすむと質問コーナーで、芸能人の記者会見状態だ。

といっても、まず聞くことはメラクの村でチョデンたちと話した時と同じだ。
年齢、そして未婚・既婚の別。
米国だったら、プライベートなことはある程度親密にならないと聞かないが、ここにはそういうマナーはない。私と同じ、52歳の女性がいた。はつらつとした、素直に年を取った感じの人だった。
日本でも米国でも、特に女性は素直に年をとるのは難しい。
身体や精神は生きている限り変化し続ける。その変化を止めるのはどう考えても不自然で、Anti-agingなんて、反重力と同じくらいSFだと思う。でも、この地方の人たちには、年齢や老化への嫌悪はないのかもしれない。そんな環境で年を取れる人たちがうらやましかった。
未婚・既婚の別については、独身だと答えても「ふーん」という反応があるだけで、それなら聞かなくてもよさそうなものだが、きっとしやすい質問なのだろう。私の住んでいる国には、私くらいの年齢で独身の人は珍しくないし、これくらいの年齢で結婚する人もいる、と話すと、みんな興味深々だ。
身体や精神は生きている限り変化し続ける。その変化を止めるのはどう考えても不自然で、Anti-agingなんて、反重力と同じくらいSFだと思う。でも、この地方の人たちには、年齢や老化への嫌悪はないのかもしれない。そんな環境で年を取れる人たちがうらやましかった。
未婚・既婚の別については、独身だと答えても「ふーん」という反応があるだけで、それなら聞かなくてもよさそうなものだが、きっとしやすい質問なのだろう。私の住んでいる国には、私くらいの年齢で独身の人は珍しくないし、これくらいの年齢で結婚する人もいる、と話すと、みんな興味深々だ。
話がひと通りすんだところで、集合写真を撮ることにした。
前夜同様、三脚にカメラを載せて、ファイヤピットの隅に立てた。ここまでずっとジャムソーに通訳してもらっていた。夕食前に村の女性と日本語で話したことを思い出し、日本語で話が通じるかどうか、実験してみようと思った。私はジャムソーに言った。
「今までずっと通訳してもらったから、少し休んでいいよ。日本語で話すから」「日本語で?」「そう、日本語で。大丈夫、通じるから」
ここから日本語に切り替えた。私は手をジャムソーの方に向けて言った。
「この人はずっと通訳していたから、ちょっと休んでもらいます。だから日本語で話します」
みんなおとなしく聞いている。私はカメラを指差し、身振りを交えて話した。
「写真を撮るから、みんな片方に寄って。ほら端っこの人、もうちょっと中央に寄らないと、写らないよ。そうそう、それくらいで大丈夫。それじゃセルフタイマーで写真を撮ります。フラッシュが2回光るから、そのあいだ動かないでね」
ジャムソーが、そんなのありかよという顔をしている。撮れた写真がこれである。
写真を撮ると、村の人たちがダンスを踊るという。ダンスといってもややこしいものではなく、ゆびきりげんまんのように小指で手をつなぎ、横方向にはないちもんめをするような、単純な動作だ。歌のメロディも単純だ。私も仲間に入れてもらって、キャンプファイヤを囲むようにしてみんなで踊り続けた。
18時半くらいから始まったこの集まりがお開きになったのは、21時近くなってからだ。儀礼的にアラを飲んだのは私くらいのもので、この集まりのために料理があるわけでもなく、歌とダンスとおしゃべりだけで2時間半、あっという間に経ってしまった。お酒や料理がなくても宴会はできるものなのだと、わかった。
困ったのは、村の人たちに渡すお金だ。6人と見込んで50ニュルタムの紙幣を6枚用意していたが、メラクの村で4枚、前夜の男の子たちに2枚渡してしまったので、この晩に集まった10人に渡す50ニュルタム札がなかった。細かい紙幣をかき集め、それでも足りなくて、ジャムソーとドルジにお金を貸してもらった。
トレッキングのクルーからお金を借りるツーリストは、私くらいかもしれない。
【ジョンカーテン】ブータンについて---14へ続く