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【ミクサテンからサクテンへ】ブータンについて---11から続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)

意外な知らせ

すっかり暗くなる頃、ジャムソーから意外なことを聞かされた。

「ロブザンとリンチェンは明日の朝2時にここを出発して、チャリングに帰るんだ」

一瞬、どういうことなのか理解できなかった。
彼らがここを出発する。行き先はチャリング。トレッキングの出発地点だ。出発時間は…

「朝の2時?朝の?今晩深夜という意味?」
「そうそう」
「どうして?」
「馬は、それぞれ決められた区間の中で使う規則があるんだ。サクテンから先は区間が違ってて、同じ馬は使えない。ここからフォメイまでは、別の馬が来るよ」

きっと昔の日本の伝馬制のような仕組みになっているのだろう。考えてみれば、トレッキング最終地点のフォメイまで同じ馬を使った場合、トレッキング解散後の帰路は、馬たちにとってすごく不経済なことになる。

最終日まで一緒に過ごすものと思っていた人たちの突然の出発、夜中の2時というあり得ない出発時間、そしてチャリングまでの困難な道のりを考えると、そんなことやめてくれと言いそうになる。

こういうことで動揺するのは、自分の心の弱さなのだろうか。
私は、平静を装った。

「そう」

とだけ答えた。
わたしが今しなければいけないことは何かを考えようと思った。
まず、トレッキングのメンバーの集合写真を撮ろう。そもそも、サクテンに連泊だから明日時間を見つけてゆっくり撮ろうとしていたのだが、ロブザンとリンチェンが夜中に発ってしまうなら、今夜のうちに撮らないとだめだ。

もうひとつ、忘れてはいけないことがあった。チップだ。

ブータンには米国のようなチップの習慣はない。でも、外国人ツーリストがガイドや運転手、トレッキングのクルーにチップを渡すのが慣行化している。これは旅行ガイドブックにも記載があり、カルマからもらった旅行の注意書きにもチップの金額の目安が書かれていた。金額はそれぞれの仕事内容によって違うが、旅行中に慌てないように金額を計算してそれぞれ小さな封筒に入れて用意してあった。ロブザンとリンチェンに、トレッキング出発日から今日まで4日分のチップを、今晩渡さないといけない。

自分が信じたくないことは先延ばしにしたくなる。
でも、もたもたしていられない。私は部屋に戻り、彼らに渡すチップを用意した。

ファイヤピットに戻ると、ジャムソーとロブザンがいた。ジャムソーが通訳してくれた。

「ロブザン、今晩発つの?」

ロブザンはいつもの穏やかな顔で、そうだという仕草をする。

「今日までどうもありがとう。ロブザンはいつもにこにこしているから、一緒にトレッキングしていて楽しかった。それから、毎日火をおこしてくれてありがとう。ロブザンのおかげで、夜いつも暖かく過ごせたよ」

ロブザンに封筒を差し出すと、この土地の人がいつもそうするように、両手で受け取った。ロブザンがにこにこしているので私もうれしくなった。私はジャムソーに、リンチェンを呼んでくるように頼んだ。

ロブザンと違い、リンチェンはあまり表情がない。写真にも、いつも同じ顔で写っている。馬と一緒に暮らしていると、表情も馬みたいになってしまうのだろうか。ただ、よく見ていると、同じ顔をしていても、うれしい時は何となくわかった。

でも、ファイヤピットにやってきたリンチェンは、おとなしく草を食べている馬みたいに、ただ落ち着いているだけだった。

「リンチェン、今晩出発するんでしょう?」

ジャムソーが通訳する。

「いつも重たいお弁当箱と魔法瓶を運んでくれてありがとう。リンチェンのおかげで、暖かいランチを食べることができた。寒い山道で、おいしいミルクティーを飲むこともできた。それから、いつも一緒に歌ってくれてありがとう。とても楽しかった」

封筒を差し出すと、ロブザンと同じように両手で受け取った。そしてどこかへ行ったと思うと、サクテンの帽子を手に戻ってきた。ジャムソーが言う。

「リンチェンが、この帽子を君にあげるってさ」
「…ちょっと待ってて」

私は部屋に戻った。ダッフルバッグからコットンの日よけ帽を取り出した。いつも砂漠の瞑想センターに行くとき持っていく帽子で、私のものとわかるよう大きなワッペンが縫い付けてある。マヤ暦の、私の誕生日のサインをデザイン化したワッペンだ。それなりに思い入れのある帽子だけれど、これをブータンに置いていくのもいいだろう。

帽子をもって、私はファイヤピットに戻った。

「この帽子とトレードしたい。いい?」

私たちは帽子を交換した。
リンチェンは日よけ帽をかぶったが、男の子っぽい顔立ちのリンチェンには申し訳ないくらい似合っていなかった。

この日は、ドルジの知りあいだという村の男の子が二人、ゲストハウスを訪ねてきた。
メラクの村で女性たちが訪ねてきた時と同様アラをいただいたが、男の子たちは話すこともあまりないらしく、静かな夜になった。

ファイヤピットの隅に三脚を立てて、全員で記念撮影した。

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湯の沸かしかた

昨夜同様、夜が更けると雨が降り出した。深夜の出発に備えるためか、ロブザンとリンチェンは早々にファイヤピットから姿を消した。ドルジは出かけてしまった。きっと実家に行ったのだろう。ジャムソー、ギレ、私の3人はキャンプファイヤを囲んで座った。拍子抜けするくらい静かだった。ジャムソーが沈黙を破った。

「君が昼間シャワーを浴びたときのお湯、どうやって沸かしたか知ってる?」

実はこの日の午後、シャワーを浴びたのだ。シャワーといっても、ビニールのライナーのついた防水の丈夫な袋の下のほうにチューブが付いていて、そのチューブの先端から少しずつ水が出るという仕組みだ。自分の部屋のトイレの壁にこの袋を吊るして、髪と身体を洗ったのだ。恐ろしく寒かったが、とりあえずさっぱりした。

「知らない。鍋で沸かしたの?」
「違う。ペットボトルで沸かしたんだ」

ペットボトルで湯が沸かせるのだろうか?

「ペットボトル?溶けないの?」
「溶けないよ。やって見せようか? ギレ!」


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ジャムソーはギレに何か頼んだ。ギレは台所に使っている建物へ行って、半分に切ったペットボトルに水を入れて持ってきた。それを焚き火の熾の上に置く。本当に溶けないのだろうか?

…溶けなかった。
しばらく経つと、ペットボトルで作ったカップの中の水は激しく沸騰した。

ジャムソーが得意気な様子を見せないのが不思議だった。

「ブータンでは何でも可能なんだ」

芝居じみた言い方だが、山の中では毎日信じられないようなことばかりだった。何があっても何を言われても、信じて受け入れるしかなかった。


ロブザンとリンチェンの出発

明日はサクテンに連泊で移動はないけれど、そろそろまともに眠って疲れを取らないとダメだな、と思いながら横になった。たぶん、私の情緒は毎日のできごとに対処し切れていないのだ。疲れていないわけはないのに、うとうとするばかりで、いつまで経っても深い眠りは訪れない。

ゲストハウスで私にあてがわれた部屋には、窓が3つあった。明るいのは素晴らしいけれど、困ったことにカーテンがついていなかった。屋外灯に面した窓には、寝台にかかっていたシーツと安全ピンで即席のカーテンを作ってかけた。それ以外のふたつの窓は、仕方ないのでそのままにしておいた。どうせ夜のあいだ、外は真っ暗だ。

寝台の上に広げた寝袋の中で、いつまでも眠れなかった。窓の外を一筋の光が動いた気がした。懐中電灯を点けて腕時計を見た。午前1時だ。ロブザンたちは出かける準備をしているのだろうか。

身体を起こして外を見ると、向かいの建物のポーチで何か動いている。

暗くてよく見えないが、ロブザンが荷物のパッキングをしているようだ。強い雨が降り続いている。しばらくするとまた懐中電灯の光の筋が動くのが見えた。リンチェンが放牧地から馬を連れて来た。この雨の中、雨具を着るわけでもなく、トレイルを歩いていた時と同じ服装だ。

いま出て行って挨拶したのでは、彼らの作業の邪魔になるだろう。私は部屋の中から、彼らの準備を見守った。いつもと同じように、6頭の馬の背にそれぞれブランケットを載せる。リンチェンがどこからか厚手のビニール袋を持ってきた。鉈を手に取るとロブザンと二人で袋を切り裂き、ブランケットの大きさに合わせてきれいな四角形に切った。それをブランケットの上にかけて、さらに荷物用の鞍を載せる。その上に自分たちの荷物をくくりつけて、夜のあいだ外してあったベルを馬たちの首に取り付ける。準備完了だ。1時45分だった。

私はジャケットの上からポンチョを着て、外に出た。

風はないが雨が強く、時代劇の仇討ちの場面のようだった。屋外灯の弱い光は、建物の影には届かない。そこらじゅうが水たまりで、暗闇の中、うまく歩けない。馬たちがゲストハウスの木戸を出て行くところだった。先頭がロブザン、最後尾がリンチェンだ。早くしないと、行ってしまう。

木戸のところでリンチェンに追いついた。リンチェンは驚いた様子もなく、こちらを見つめている。この先もう決して会わない人との別れなんて、実は世の中にはあふれているのだけれど、自覚することで、私の集中力は研ぎ澄まされる。

気をつけて、と言い終わらないうちに、思い出した。

”リンチェンは英語がわからない!”

彼が英語を解さないことも、同じように自分が彼の言葉を理解しないことも、どういうわけかすっかり忘れていた。雨の中で立ったまま、一瞬言葉を失った。挨拶できないならせめて握手しようと思って、手を差し出した。チップの封筒を受け取った時のように、リンチェンは私の手を両手で受けた。そして、ぺこりと頭を下げた。

頭を上げると、木戸でもたもたしている馬たちに向かい、チョウ、と声をかけてせきたてる。最後の馬が木戸から出てしまうと、後ろ手で扉を閉めて出て行った。

私は雨の中に立ちつくした。ゲストハウスの横の坂道を、馬を連れたロブザンとリンチェンが手を振りながら登っていくのを、しばらくのあいだ見送った。


寝袋の中で

部屋に戻った。自分のやったことにどういう意味があるのか、まるでわからなかった。ぬれたポンチョを脱いでフックにかけ、もう一度フリースのパジャマを着て寝袋に潜りこんだ。リンチェンは私に何も言わなかった。彼の言語で私に何を言ったところで、私にはわからない。だから何も言わなかったのだろうか。それとも言うことなど何もなかったのだろうか。

私が寝袋の中で考え事をしているこの瞬間、ロブザンとリンチェンが馬を連れて雨の中、真っ暗なトレイルを歩いている。何が現実で何が考え事なのか、私の現実と彼らの現実はどう違うのか、理解して受け入れないといけないことは何なのか…。

チャリングまでは、40キロ以上の道のりだ。サクテンを出発して、ミクサテンを過ぎ、その後は1000メートル上ってナチュングラの峠を越える。ここでこの雨なら、峠は間違いなく雪が降っているだろう。雨や雪の降る夜の山道を歩くのは、いつものことなのかもしれない。でも、だからといって、辛くない訳がない。

そんなことはまったくないと理屈ではわかっていても、彼らの出発を、まるで自分の責任のように感じていた。彼らは今、どのあたりを歩いているんだろう?服が濡れたり、ぬかるんだ山道で困ったりするようなことはないのだろうか?暗闇の中、馬たちは迷子にならず、ちゃんと歩いてくれるのだろうか?私の心のどこかがショートして、焼け焦げているようだった。どうしてこんなふうに感じるのだろう。


夜の闇、深い森、降り続く雨、困難な道のり。おとなしい馬たち、雪の降る峠、まっすぐにこちらを見つめる、動かない瞳。もう二度と会わない人たち。

…どうしてなのかがわかった。

こういうとき、呼吸を乱さないのが習慣になってしまった。
私は寝袋の中で涙を流した。


つながった糸

どうしてなのか、わかった。
すでに亡くなった、昔の恋人だ。

2008年に、私の空手の先生が亡くなった。もう高齢だったが、癌にかかり、1年近い療養ののち旅立った。人が病気になり、次第に衰弱して死ぬというプロセスを間近に見たのは初めてだった。生命や死について考えることが多くなった。お礼を言うべき人には、先延ばししないで、すぐ会いに行って伝えるべきだと思うようになった。

それで、2009年の春、昔の恋人に会いに行った。
その当時、彼は新幹線の止まる大きな町で、自分の過去とはまったく関係のない仕事をしながら相変わらず一人で暮らしていた。

でも、いつものように、それがしんどいことだと気がつかず、幸せにしているのだと思った。半分冗談で、「冥土の土産に会いに来た」と言ったら、彼は「冥土の土産なら、もっといいもの持たせてやる」と言い返した。半日一緒に過ごして、別れる時の彼の顔を覚えている。さみしいというより、動揺していた。もういい、と言って、くるりと後ろを向き、帰っていった。相変わらず大げさだと思った。でも、もしかしたら彼のほうは、もう会うことはないと予感していたのだろうか。

その一年後、彼は亡くなった。
奇跡のような条件が重なって、私はそれを知ったのだった。

彼の携帯電話に電話をかけるとお兄さんが出て、弟は亡くなりました、と言った。それを聞いた瞬間、山の中で首を吊った!と思った。そして実際、その通りだった。ということは、言語化できないレベルで、私はすでに何かのサインを感知していたのだろうか。

その後、詳細が明らかになると、私にはこの事態を変える可能性があったことがわかり、その可能性を行使しなかったという事実が、私の情緒の回路から現実を締め出してしまったのだった。思考は過去へ向かい、あり得ない現在を探し続けた。彼を一人で逝かせてしまった。その道のりは、暗くて辛かったが、一緒に歩かなくても見守っているのだということを、どうして伝えなかったのか。

彼は私に、考えていることを語らなかった。でも、もしかしたら、話したいことがたくさんあったのかもしれない。

私は、そのことに気がつかなかった。

彼が私に宛てて書いた最後の短い手紙にも、どうして死を選んだのか説明はない。気休めとわかっていても、私は手紙に『返事』を書き、四十九日が過ぎるころ、それを燃やした。

ロブザンとリンチェンは、私にとってまったく別の世界の人たちだった。

でも、彼らも私に言いたいことがあったのだろうか。彼らは私の情緒の表面にかすり傷をつけて去っていった。その痛みは、古い傷の記憶を呼び起こした。

昔の恋人が亡くなってから、私は定期的に長期の断食をするようになった。そして、瞑想するようになった。何かせずにはいられなかった。断食は死者に寄り添うため、瞑想は偽善や理想の下に埋もれている自分自身を知るためだった。

でも、結果的に、断食は私の身体を、瞑想は私の情緒を健康な状態にしてくれた。それが目的ではなかったが、私には生きる運とセンスがあるのだろうか?

お兄さんのほうは、そこまで運がよくなかった。

半年後に病気で倒れ、七ヶ月入院し、いまも半身が麻痺したままだ。情緒も麻痺していると、私が判断することはできないが。