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【チュウタブタブ】ブータンについて---07から続く
(本文、デジタル画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)

マダム、お茶の支度ができました

自宅以外の場所で眠れないのはいつものことで、これはもう体質だから仕方がない。いつまでも横になっていてもしょうがないので、5時半に起きた。寝袋の中に座ってしばらく瞑想する。テントの外で物音がする。みんなもう朝の仕事を始めているのだ。朝食がすんだらキャンプを撤営して、馬に荷物を積まないといけない。食事前に自分の荷物を整理しておいた方がよさそうだ。馬に運んでもらう荷物をダッフルバックにしまい込む。

その最中に、ギレが魔法瓶を持ってテントまでやってきた。

「マダム、ユア ティー イズ レディ」

マダム、なんて呼びかけられたのは初めてで、面映ゆかった。でもヒマラヤの小さな国のこんな山奥なら、何が起こっても不思議じゃないような気がした。

「ギレ、ありがとう、お茶はキャンプファイアの横でもらってもいい?パッキングがすんだら、すぐに行くから」

パッキングを終えてファイアピットまで行くと、昨日と同じように折りたたみテーブルの上に丁寧にお茶の支度がしてあった。こんなにちやほやされるのは生まれて初めてで、気分がいいというより困惑してしまう。お茶をいただき、しばらくのあいだ日記を書く。ギレが朝食を持ってきてくれた。昨夜の夕食はみんなで一緒に食べたけれど、朝食は一人だ。他のみんなは、食事用のテントで食べたのだろう。こういう時、自分はお客さんだということを実感せざるを得なかった。

食事がすみ、一息つくかつかないかのタイミングで撤営が始まった。朝食前に荷物をまとめておいてよかった。

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キャンプの装備をパッキングして馬の背に取り付ける。毎朝これをやるのは大変だ。

8時半過ぎ、準備が整いキャンプサイトを出発した。昨日7頭いた馬が、6頭になっている。荷物のつけ方がよくなくて、怪我をした馬がいるのだという。

「その馬は、どうしたの?」

私はジャムソーに聞いた。

「リンチェンが親戚の家に預けた。チュウタブタブのちょっと手前に、家があったでしょ。あれはリンチェンの親戚の家なんだ。そこで馬を預けて、怪我の手当てもしてもらって、帰る時に引き取ることになってる」

そういえば昨夜はリンチェンの姿がなくて、どうしたのだろうと思ったのだ。きっと、親戚の家に泊まったのだろう。

ロブザンが馬を先導し、クルーがそれに続く。
歩きながら、私は旅行の日数を数えた。
カリフォルニアの自宅を出発してから、ちょうど一週間目だった。

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トレイルで着る服

山歩きのウェアは一通り持っていたけれど、今回のトレッキング用に新調したものも多かった。ファスナーが半分壊れたデイパックと子供サイズのハイキング用パンツは古いものをそのまま使ったが、ハイキングブーツは新しく買った。途中で洗濯できるかどうかわからなかったので、山歩き用のソックスも買い込んだ。今まで使ったことはなかったが、トレッキングポールも購入した。

カリフォルニアの平均的なアウトドア愛好者と比べれば地味な装備だったが、トレッキング・クルーの服装と比べると、ばかばかしいくらい『アウトドア』だった。ジャムソーは一応『ハイキングの服』で歩いていたが、他のメンバーはハイキングでもアウトドアでもない、屋外で着る普通の服だった。

私が一番気を使ったのはハイキングブーツで、そこそこの値段のものを買い、ちゃんと慣らしてから持ってきたが、ギレはスニーカー、ロブザンとリンチェンはゴム長靴で歩いていた。ゴム長靴じゃ歩きにくいのではないか?と思ったが、歩き始めて納得した。トレイルの上を水が浅く流れている所が多く、防水のハイキングブーツでも歩けないことはないが、ゴム長靴なら足を濡らす心配をしなくてすむ。

靴だけではなく、服もみんな適当なものを着ていた。

寒ければスウェットシャツの上に運動着のジャケットか使い古しのダウンジャケットを着る。下は中学生みたいなジャージや緩めのジーンズだ。こんなでたらめな服装で、私がしりもちをつきながら歩く山道を、みんな楽々と歩いてゆく。

その様子が、ほんとうに格好よかった。
ハイキングポールなんて使っている弱虫は、もちろん私だけだった。


トレイルでうたう歌

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トレイルから石を投げて遊ぶ。この人たちには、こういうことをする体力と気持ちの余裕がある。

チュウタブタブからトレイルを登り、しばらく歩くと整備された未舗装の道に出た。建設中の自動車道路だ。まだ開通していないので車は来ない。歩きやすいのはありがたかった。旅行ガイドブックには、この自動車道路は1~2年のうちに開通する予定だと書いてあった。開通すればこの先の村まで車で行けるようになる。生活は便利になり、それと同時に村の様子も大きく変わってゆくだろう。

道がきつくない時は、ギレかリンチェンのどちらかが歌を歌っていることが多かった。

ドルジと、まれにジャムソーが歌うこともあった。民謡みたいなのんびりした調子の歌だが、山道を歩く時にテンポの速い歌を歌うのは苦しい。民謡というのは歩きながら、あるいは何か単純な作業をしながら歌うのに都合がよくできているんだなと、納得した。

彼らにばかり歌わせるのは気の毒な気がして、誰かが歌っている時は私も一緒に歌った。旋律は単純で、歌うのは難しくない。ただ、歌詞はわからないので、でたらめだ。

歌う理由は、もうひとつあった。話ができないのだ。

ジャムソーとは普通に英語で話ができた。ギレもそこそこ英語が話せるが、ややこしい話になるとうまく通じなかった。ドルジは基本的なことならわかるレベルで、リンチェンは挨拶と単語がわかるレベルだった。ロブザンは英語は話さない。

本当に伝えたいことがあれば、ジャムソーが通訳してくれた。でもこれでは、通訳を頼むほどではないただの世間話をすることができない。ロブザンはいつも馬を連れて先に行ってしまうので一緒に歩くことはあまりなかったが、ギレやリンチェンやドルジと一緒に歩く時、黙ったままだとまるで仲が悪いみたいでいやだった。だから、歌うのがちょうどよかった。リンチェンと歩いている時などは歌いっぱなしだった。


トレイルでする話

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トレッキングの仲間のうち、唯一世間話ができるのがジャムソーだった。トレッキングガイドという職業柄、歩くスキルは村人レベルではあったが、彼は基本的に都会の人間だ。歩きながらいきなり一人で民謡を歌ったりはしない。移動の最後尾はジャムソーなので、ギレやリンチェンが自分のペースで歩き始めると、追いつけない私はジャムソーと歩くことになる。

彼も黙ってしまうことがあると後になってからわかったが、この時点ではいつも話し続ける人間なんだと思っていた。ブータンは話好きの人が多いが、ジャムソーもよくしゃべった。外国人相手のガイドをしていれば当然なのかもしれないが、ブータン大好き人間のジャムソーは、旅行者の私に話したいことが山ほどあった。

何語で話していても、私は会話はあまり得意ではない。話したほうがいい状況だと、たいてい相手に何か質問して向こうがしゃべるように誘導する。ジャムソーと会話する時も、ほとんどこの戦略で彼に話してもらった。そして彼が話すのを、そうかそうかと相槌を打ちながら聞いていた。

でもこの朝は、彼が私に質問してきた。

「ひとつ質問があるんだよね。個人的なことで、いや、ほんとに個人的なことなんで、答えたくなかったら、答えなくていいけど」

何なんだろう。

「ボーイフレンドとかは、いないの?」

これはよくある質問で、答えも簡単だ。

「いないよ」
「結婚したこととかは、ある?」
「ないよ。生活は単純なほうがいいもの。生まれたのと、将来死ぬのと、人生のイベントはこれくらいで十分かなって思う」

単純化しすぎかもしれないが、自分の人生を複雑に考えるのは好きじゃない。

「でも、ボーイフレンドがいたことはあるでしょ」
「いたよ」
「最後のボーイフレンドは、どうしてるの」
「私と別れたあと、ガンになった」

ジャムソーは、悪いことを聞いてしまった、という素振りを見せた。私は私で、不用意な受け答えをしてしまったことを後悔した。そんなにびっくりするような話でもない、ということを強調したかったので、続けた。

「治療を受けて治ったけど、故国に帰ったよ。5年前の話だけど」
「故国って?」
「ポーランド。今でも半年に一度は連絡を取って無事を確認している。元気にしているみたいだけどね」

こんなやり取りがあると、いろんなことを思い出す。人間の頭脳はおもしろい働き方をする。私の意識は、目の前の景色とまったく関係のないどこかを歩いていた。これだけ生きていれば、私だって付き合った相手の一人や二人くらいはいる。ただ、どういうわけか、私と関わりあった人たちはみんな薄幸だ。あるいは薄幸だから、私と出会ってしまったのだろうか?故国に帰った元恋人の前に付き合った相手は、もう他界している。でも、そこまで話そうとは思わなかった。

黙っているのも間が悪いので、いつもの戦略でジャムソーにしゃべってもらうことにした。

「ジャムソーは?ガールフレンドはいるの?結婚はしたことある?」
「……僕は離婚しちゃったんだよね」

しょんぼりした様子で、あああこれはまずいことを聞いてしまった、と思った。さすがにあとの質問が続かない。困った。でもうまいことに、向こうから質問が来た。

「きみは何歳なの」

これは秘密でもなんでもないが、こういうことを話さなくてもいいように、カルマに送付したガイド宛のメッセージに『1962年生まれ』と書いておいた。計算すれば年齢はわかるはずだ。でも説明するのが面倒なので、そのまま答えた。

「52歳。ジャムソーは何歳なの?」
「何歳だと思う?」

何歳なんだろう。女性の場合は少なめに言っておけば問題ないが、男性の場合はあまり若く見るのも考えものだ。

「35歳から40歳のあいだ」
「あたり」

気を使う会話になってしまった。楽しく話すのは難しい。こういう時に歌えるような、日本の民謡でも覚えてくればよかったと思った。


英語が通じない時の話し方

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しばらく先でリンチェンが私たちのことを待っていた。お昼の弁当を運ぶ係なので、私をおいて先に行ってしまうわけにいかないのだ。トレイルは峠を越え、川に沿って続いていた。対岸の静かな木立を眺めながら、散歩気分で歩く。途中の草地でランチ休憩になった。ドルジとギレが、チュウタブタブで朝食の時にランチも作って、弁当箱に詰めてくれたのだろう。私がお茶を飲んで朝食を食べている短い間に、どうやってこんなに手の込んだものを作ったのか、と思う。

食事が終わり、また歩き始める。
しばらく行くと、トレイルに沿って丸木小屋が2軒建っていた。

小さいながらも商店で、何か売っているようだ。このトレイルを歩く村人や道路工事で働く人たちが利用するのだろう。こういうところで売っているのはキャンディなどの駄菓子や飲み物、携帯電話のプリペイドカード、そしてドマだ。

ドマというのはビンロウジュの実で、パネイという植物の葉と石灰の粉と一緒に口の中に入れて、チューインガムのように噛む。ブータンで男性が口をもぐもぐ動かしていたら、間違いなくドマを噛んでいる。公共の場は禁煙で、喫煙は一般的ではないが、ドマを噛む人は多い。健康に害はなく虫歯の予防になるのだというのだが、中毒性はあるのかもしれない。ジャムソーもドマが好きだった。青臭いツンとした匂いがするので、彼がドマを噛み始めるとすぐにわかった。

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ドマ。ブータンのチューインガム。

ジャムソーが手前の店で何か買い物をしている。多分ドマか、プリペイドカードを買っているのだろう。リンチェンはもう片方の建物に歩いていった。いつもジャムソーの後をついて歩くのは子供のようでいやだった。それで、リンチェンについていった。

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リンチェンが4~5人の男女と何か話している。顔見知りのようだ。多分、よくここに来るのだろう。男性の一人が、手に糸巻きを持っている。何だろう。黒くて太い繊維にぶら下がった糸巻きをくるくる回しながら、糸を撚っているようだ。私にもできるだろうか。

「私がやってもいい?」

言葉が通じなくても、この程度のことなら仕草でわかるものだ。糸巻きを貸してもらい、糸を撚ろうとしたが、どっち方向にどういう風に糸巻きを回せばいいのかわからない。ああしろこうしろとみんなが教えてくれる。立ったままではダメで、腰かけて太ももの内側に糸巻きの軸を当てて、それを手のひらで回して糸巻きにスピンをかける。糸巻きが回ると、繊維の撚りがきつくなっていく。

買い物をすませたジャムソーが来た。糸巻きはヨコールという道具で、黒い繊維はヤクの毛なのだという。ヨコールできつく撚ると糸が丈夫になるのだと教えてくれた。

興味深い話だったが、それとは別に、この土地の人たちと話ができたのがうれしかった。言葉が通じなくても、話しかければきちんと反応が返ってきた。もしかしたら、私は何か勘違いしただけなのかもしれないが。

たとえ勘違いでも、この時からこの土地の人たちに話しかけるのをためらわなくなったのは確かだ。


ゲングーへ、そしてメラクの村へ

トレイルは川岸を離れ、上り坂になった。しばらく登り、川は見えなくなり、登りきると視界が開けた。さらに進むと、まばらに人家があるのが見えてきた。ゲングーの村だ。昨日チェリングを出発して以来、初めて見る集落だった。

ゲングーに向かってトレイルを進む。村の少し手前にマニ壁があった。お祈りの言葉を刻んだ石のパネルを並べた壁だ。横を通り過ぎようとしたら、後ろからジャムソーに注意された。

「左。マニ壁の左側を通って」

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ブータンでは信仰に関係のある建物はその左側を通り、その建物の周囲を回る場合は時計回りに回る、という規則がある。徒歩の時だけでなく、自動車の場合も同じだ。道路はイギリス式の左側通行だが、中央分離帯にチョルテンを建設して、どちらから来た車も左側を通れるようにしている所も多かった。ブータンで米国式の右側通行を導入するのは、まず無理だろう。

ゲングーでお茶休憩になった。
村の家の縁側を貸してもらう。

女の子がヨコールで羊毛を紡いでいた。さっきヤクの毛を撚った時に使ったヨコールと、大きさも仕組みも大体同じだ。やらせてもらったが、糸を撚るのと違って繊維から糸を紡ぐのは難しく、私の紡いだ糸はぼこぼこになってしまった。この土地の人たちは、こんなふうに糸を紡ぎ、染め、布を織り、服にする。もちろん、機械で織った布を工場で縫製した服もある。でも手で糸から作る衣類も、普通に作られ、普通に使われていた。

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ゲングーで。女の子が、ブラスチックのたらいに入った羊毛を紡いでいる。女の子の服は工業製品、右端の女性は伝統的な手織りの服を着ている。

ゲングーを出発し、放牧されたヤクを眺めながらしばらく歩くと、もうメラクの村だった。

川に向かって傾斜する草原がどこまでも続いていて、4~5人の子供たちが走り回って遊んでいた。どうしてあんなに走りたいと思うのだろう。私だって日頃走っているけれど、それはトレーニングのためで、走るのが楽しいから走っているのではない。

でも、あの子供たちは違う。
傾斜した草原を走り、重力の変化や遠心力を感じるのが楽しいのだろう。

息が苦しくなるほど笑い、今が楽しい瞬間だと自覚する余裕も必要もない。楽しみは浪費したって構わない。きっとまた、すぐに別の楽しいことがあるのだから。そんなふうに楽しみを味わう能力は、私にはない。

今日はメラクで一泊する。


【メラクの村】ブータンについて---09へ続く