(↑平岩由伎子著編『狼と生きて』、築地書館、57p、1998)
平岩米吉(1897-1986)。ヨネキチ。動物学者。専門はイヌ科。「動物文学」という言葉を造り、雑誌『動物文学』を創刊し、動物研究の媒体を形成する。自宅に犬科生態研究所を構え、多くの野生動物を飼育。日本の狼研究の先達となる。主著は『犬の行動と心理』(池田書店、1976)、『狼――その生態と歴史』(動物文学会、1981)。その他多数。
◎平岩米吉略年譜
1897年 東京で誕生。乳母の廣瀬みせに愛育される。1914年 この頃から登山、短歌、連珠に熱中する。短歌は与謝野晶子に認められる。1916年 府立第三中学校卒業。『萬朝報』社主の黒岩涙香に認められ、平岩麗山として連珠初段。以後、順調に累進。1925年 高橋貞子(佐与子と改名)と婚姻。定石の研究に没頭。1926年 『連珠斜引花月必勝法』(大野万歳館)を刊行。1927年 長女、由伎子誕生。1928年 斎藤弘、鏑木外伎雄らと日本犬保存会を設立。犬保存運動に力を注ぐ。1930年 『連珠随筆』(連珠白日会)、『人形の耳』(梓書房)を刊行。以降、連珠から犬科動物の生態研究に専心する。犬科生態研究所を設け、狼その他野生動物の飼育を始める。1931年 雑誌『変態随筆』と『母性』を創刊。1933年 『母性』を『子供の詩・研究』と改題。科学と芸術の融合を目指した『科学と芸術』を創刊。1934年 次男・阿佐夫誕生。『科学と芸術』を改題し『動物文学』として創刊。フィラリアによる愛犬の死をきっかけに、フィラリア研究会を設立。フィラリア治療の道を開く。1936年 動物文学会を設立。月一回例会を開く。1939年 次女、登和子誕生。1942年 『私の犬』(教材社)を刊行。1956年 『犬の生態』(同和春秋社)を刊行。1968年 犬だけでなく猫に対する研究も始める。1976年 『犬の行動と心理』(池田書店)を刊行。1981年 『狼』を刊行。1982年 『犬の歌』(動物文学会)を刊行。1985年 『猫の歴史と奇話』(動物文学会)を刊行。日本猫保存運動をはじめ、純潔日本猫の会を発足。自身の手による最後の『動物文学』(第51巻第3号)を刊行。1986年 6月27日、死去。享年88歳。
・超イヌ派研究者
私は完全なるイヌ派であるのだが、この世界にはイヌ派? ネコ派? という質問に「動物はその二種類だけじゃないでしょ」とか「その設問そのものがナンセンス」とか答えるヤカラがいる。……は? こういうのは話題のタネとして問うているのであって、こっちだってお前のマジで好きな動物なんて知りたくないし、そもそも、そんなにお前に興味ないよ、って話である。こういうヤカラは、きっと、綾波とアスカの二者択一でも「ミサトさん」とか答えるに決まってるし、アベノミクスの評価をするときもつまらん大喜利で答えるに決まってる。そういうのいいから、ちゃんと質問に答えろよってんだよ、このスットコドッコイ!!
さて、今回とりあげるのはネコ派かイヌ派でいえば完全にイヌ派な研究者、平岩米吉である。平岩の研究生活上での大きなポイントは、「動物文学」という今日私たちが慣れ親しんでいる言葉を発明し、雑誌『動物文学』を自ら立ち上げたことだ。また、これに付随して、野生動物の研究のために自宅を研究所にして、日本では未だ本格的な研究のなされていなかった狼や、その他様々な動物を直近で観察し研究したことを挙げてもいい。また、飼っていた愛犬の死をきっかけにフィラリア(犬心臓糸状虫)治療の道筋をつくったことを付け加えてもいいだろう。
雑誌『動物文学』は戦争をまたぎ、高齢になった平岩の手を離れてからも、非売品の会員誌として今も続いている歴史ある媒体となった。また、不治の病であったフィラリアも平岩の働きかけのおかげで、(犬を飼っている方は分かるだろうが)今日では月一回の予防薬を飲ませるだけで防げるような病となった。こうしてみると、平岩の偉大さがよく分かる。
自宅からは狼やハイエナの不気味な鳴き声が聞こえ、その怪しさやキツイ臭いから隣人はすぐに引越ししてしまい、「変人」として知られていた在野動物学者。彼をいま知っている人は少ないかもしれない。完成しなかった自叙伝の代わりに参考になる二つの書、平岩由伎子著編『狼と生きて』(築地書館、1998)と片野ゆか『愛犬王 平岩米吉』(小学館、2006)を手がかりに、平岩の研究生活のささやかな紹介を試みよう。
・連珠の有段者から動物研究者へ
平岩の経歴で異彩を放っているのは、彼が元々連珠の有段者だったということだ。連珠とは五目ならべを改良したゲームで、明治の世に、黒岩涙香が五目ならべの先手必勝法を(自身が主幹であった)『萬朝報』で発表した結果、注目が集まり、涙香が改めて連珠と命名して人気を博した。
そんな中、10代後半の平岩は涙香の前で行われた試合でその才能を認められ、18歳で初段、平岩麗山と名乗り活躍する。それ故に、平岩の処女出版は動物の本ではなく、連珠の定石をまとめた本だった。
しかし涙香が死んでから、連珠人気は下落していった。その代わりに平岩が熱意をもって打ち込んでいったのが、動物の研究だった。元々、幼少期、乳母の廣瀬みさに教えて貰った馬琴の『椿説弓張月』で登場する狼に魅せられていた平岩は、1928年に、すでに日本犬保存会の設立に参加していた。他にも日本シェパード犬協会に参加し、展覧会(ドッグショー)の審査委員長をするなど、小さな運動はしていたのだった。
佐代子との結婚、そして長女の誕生を経て、何十頭という犬を飼える荏原郡碑衾町(現在の自由が丘)に引越ししたのは1930年、平岩が30代前半のこと。奇人生活の始まりである。
・『動物文学』創刊
平岩米吉の名で忘れてはいけないのは、「動物文学」という言葉の発明である。今日、何気なく用いているこの言葉も、平岩による長年の努力がなければ定着しなかったかもしれない。動物関係で出版した初めての本『私の犬』の序で平岩は次のように述べている。
「私が始めて動物文学といふ言葉を用いたのは、昭和八〔1933〕年十一月、雑誌「科学と芸術」を創刊した頃であつた。然し、当時は単に知友に対して物語つたといふ程度に過ぎず、実際にこれを文字に現はし、私の生涯の仕事の一つとして公然使用するに至つたのは、翌九年六月、該誌を「動物文学」と改題するに際してであつた」(『私の犬』、教材社、1942)
では、「動物文学」とはなんなのか。それは単に動物が登場する文章のことを指すのではない。要約していえば、そこには動物に対する「理解と愛」の必要である。
「動物文学とは何か? 動物を扱つた文学と云ふ意であらうか。無論それに相違ない。然し、動物を扱へば、直ちに動物文学と言ひ得るかと云ふに、私は決してさうではないと思ふ。〔中略〕動物文学の基礎をなうものは、実は動物に対する理解と愛とであつて、この一大事なくして特殊の文学は成立し得ないのである」(「後記」、『動物文学』、1934・10)
『動物文学』の果たした文化的貢献は大きい。シートンを始めて日本に紹介したのもこの雑誌だし、後の『狼』につながる狼民話の収集や狼特集号の企画もなされた。南方熊楠、柳田国男、折口信夫、徳富猪一郎(蘇峰)、寿岳文章、室生犀星、小川未明、新美南吉など、著名な論客を含む書き手たちが「動物」という統一テーマのなかで寄稿していった。『動物文学』は戦後も続き、1978年に一旦の幕が下ろされたが、その後も不定期に会報の刊行をする長寿雑誌となった。
・自前のメディアを立ち上げる
『動物文学』は『科学と芸術』を改題した雑誌だった。これに先立ち、平岩は1931年に『母性』と『変態随筆』を発行し、前者は2年後に『子供の詩・研究』と改題され、のちに『動物文学』に合併される。彼の仕事の大きなウェイトは実のところ、この編集作業に捧げられていたといっていい。
編集や校正の作業は平岩の研究時間を圧迫し、平岩はフラストレーションをためこむようになっていった。また、それは「動物文学」という新しい観念の無理解にも起因していた。
「実際に動物を手がけてゐる人の書くものは確かに内容があり、注目すべき事柄も少くない。然し、この畑の人にはやゝもすれば殆ど表現の様式を念頭においてゐないやうな難文を書く傾向があつて、筋の通るやうにするだけでも随分苦しむことがある。/ところが、これとは反対に、文学畑の人の書くものは、流石に文章で悩まされることは少いが、今度は動物に対する独断や誤解が著しくなり、これまた掲載の障害となることが多い。創刊以来この両潮流に挟まれて、常に人知れぬ辛苦をせねばならぬのは、まことに本誌の如き特殊の立場にある雑誌の編輯に当るものゝ宿命なのであらう。そして、編輯の後継者を得ることの困難さも、勿論この点にかゝつてゐるのである」(「編輯後記」、『動物文学』、1939・5)
ただし、愚痴をこぼしつつも、戦中のやむなき中断を経て戦後にすぐ雑誌を復刊させたことをみても分かる通り、根本的には平岩は雑誌作りを愛していた研究者だといっていいだろう。そして、自身の研究成果は基本的にこの自前のメディアで発表し、その蓄積の末にやがて文学系から自然科学系まで一般誌にも執筆する機会を得るようになっていった(『文藝春秋』『オール読物『科学とペン』『中央公論』『山小屋』等等)。
この点は在野研究的に興味深い。在野の研究者にとって、研究成果をどのように発表するかという問題は、個々の専門や目標によって異なり、それぞれで引き受けて考えなければならないものだからだ。勿論、既存の学会誌を用いるのも悪くない。しかし、学会に所属するにも年会費がかかり、また学会誌の多くには査読の制度があって論文の作法やテーマの設定如何では誌面に載らないことも多々あるものだ。
とりわけ、既存の学問領域にはない野心的な研究にとって、査読をパスすることはしばしば困難かもしれない。その場合、平岩のように自前でメディアを立ち上げ、無視されつつも自由な研究生活を獲得することは決してありえない選択肢ではないようにみえる。
・「会」の結成
自前メディアの確保に続いて、平岩は様々な「会」を作ることで自身の研究に多くの人々を巻き込んでいったことは注目に値する。日本犬保存会から始まり、『動物文学』に後続する形で動物文学会、フィラリア克服を目指したフィラリア研究会、晩年には純潔日本猫の会を立ち上げた。また、1949年に始めた哺乳動物談話会は、日本哺乳動物学会となり、その後の1987年に日本哺乳類研究会と合併して日本哺乳類学会として現在でも活動している。
在野に珍しく、平岩には孤独が似合わない。動物の世話にしても妻である佐代子や、娘の由伎子の助力を存分に活用して編集と執筆の生活と両立させた。由伎子に至っては、父親の遺志を受け継ぎ、『動物文学』続刊に努め、日本猫の保存運動を展開していった。
なぜ平岩がこれほどまでの厚い信頼を得ることができたのかについては分からない。しかし、明らかにいえることは、もし平岩が独りで動物研究を続けようとしていたならば、多忙さゆえに、その目論見は早々に挫折してしまっていただろうということだ。家族は勿論のこと、他の他人がどれほど自分の研究に協力的になってくれるのか。在野研究者の残した重要な問いだ。
・科学と芸術、動物と文学
平岩の著作の特徴は、今日で言う生態学的ないしは動物行動学的な観察と民話や伝説といった民俗学的な視点が織り交ざりながら展開していくということだ。平岩は、文理の区別を無視して対象となる動物の理解を深めようとする。『動物文学』での文章をまとめた『私の犬』や『犬と狼』の時点では単なる随筆の感が強いが、『犬の生態』、『狼』、『猫の歴史と奇話』などでは、大量の文献と図表を扱いつつ多角的視点から動物を捉えようとしている。科学的かつ文化的に。
しばしば別々のものとして表象されている二つの対象を統合していこうとする姿勢は、平岩のひとつの思考の癖だったように思われる。例えば『動物文学』の前身『科学と芸術』では次のように書いている。
「問題は科学を芸術化することでも、又芸術を科学化することでもなく、恐らく両者の深い理解と黙契を形作ることでなければなるまい。しかも、それは実際問題として詩魂を有する科学者、科学を理解する芸術家によつてのみ可能である」(「編輯後記」、『科学と芸術』、1934・2)
科学だけでもいけないし、芸術だけでもいけない。この態度は「動物を手がけてゐる人」だけでも「文学畑の人」だけでもダメだとされた「動物文学」の考え方に引き継がれる。「動物文学」とは動物に対する「理解と愛」が不可欠であり、平岩の力点がその「と」にあっただろうことは想像にかたくない。
・平易志向
「学問というと、とかく専門の学者だけが関与し、一般の人とは直接縁のないもののように思われがちである。そして、その論文となると、一定の形式があって、全く無味乾燥、近寄りがたい気がするものである。そのうえ、時には、わざわざ難解の字句を並べて、その内容をいかにも深遠なものに見せようとする人さえある。/しかし本当の学問とは、決してそんなものではないと思う。どんなに難しい事柄でも、できるだけ平易な、また簡潔な表現で、気軽に世人の親しめるものになすべきである」(『猫の歴史と奇話』、3p、1985)
「如何にむづかしい事柄、複雑な事柄でも、これを平易に簡潔に表現するのが本当である」という言葉が1933年12月に出ていることを思えば(『科学と芸術』、「編輯後記」)、その平易志向は一生変わらなかったようにみえる。
平岩の著作はどれも読みやすく、専門的論文にあるような格式張った硬さはほとんどない。しかし、このような俗っぽい性格は逆に、狭義の研究者や大学人からの低い評価を形成したかもしれない。実際、片野ゆかは「米吉の活動や発言は、動物を専門とする研究者のあいだで決して好意的なものばかりではなかった」(265p)と述べている。
しかし、考えてみれば、平岩にとって「愛と理解」の対象たる動物たちは彼の目の前におり、自宅こそが研究の最前線であった。だとすれば、他人がどうのこうのという評価などそもそも気にもとめなかったのかもしれない。しかも、発表のためのメディアは手中に収めている。独立系研究者のもっとも成功した姿を私は平岩米吉に見たいと思う。
※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。