(本文、画像編集、構成/東間 嶺、以下すべて同じ)
サンドゥルップの町
おそらく国境線の真上に建てられた「門」の下を通ってすぐのところで、ラヒムは車を停めた。入国管理の役所なのか、道の両側には小さな建物がぽつぽつと建っている。その背後はもう雑木林で、20年以上も前にオートバイで通過した、グァテマラ~ホンジュラス国境の様子を思い出した。
車を降りると、ブータンの伝統的な衣服を着た、大柄な男性を紹介された。男はソナム・ジャムソーという名前で、私のガイドだという。彼にエスコートしてもらってブータンの入国手続きをすませた。入国管理事務所はITシステムを導入したばかりで、係員は「システムの動作が遅くて」としきりに謝っていたが、指紋を取り生体認証の写真も撮り、無事に手続きを終えた。
車まで戻ると、ラヒムが別の男性と談笑している。ジャムソーと同じような伝統服を着ている。ドライバーのネテンという人物だという。ここで、ネテンの運転する韓国製SUVに乗り換える。ラヒムはそこで帰ってしまい、お礼もそこそこに唐突に別れることになってしまったが、旅の出会いというのはそういうものかもしれない。
国境の町、サンドゥルップ・ゾンカー(Google Maps)はブータンの東南の端にある。とても小さな町で、入国管理から車で3分も移動すると、もう町の真ん中だった。国境という地の利を生かして、最近になって発展した町なのだろう。通りには鉄筋コンクリートの3~4階建ての建物がまばらに並んでいる。外装だけは伝統的なデザインを踏襲している中途半端な建物のひとつが、この日の宿だった。
チェックインをすませると、ホテルの男性が部屋まで荷物を運んでくれた。渡された部屋の鍵は、鍵というより正確には鍵と錠前だった。部屋にはベッドとイス、クローゼット、それに小さなテーブルがふたつ。建物の3階の角にある部屋から、すぐ隣の市場がよく見える。そしてその背後には、ラヒムが「ブータンだよ」と言っていた山が連なっている。
建物の2階に、ホテルのレストランがあった。他に誰も客のいないそのレストランで、ジャムソー、ネテンと3人で遅めのランチを食べた。銀行が閉まる前に両替しておいた方がいいだろうということで、食事のあとジャムソーと出かけた。
ブータンの衣服
そういえば、両替のことをすっかり忘れていた。空路でも陸路でも、ふつう入国すれば通貨の両替をする場所がある。しかしサンドゥルップの国境には、そういうものは見当たらなかった。国境を通過する外国人で一番多いのはインド人に間違いないのだが、インドルピーはブータンでも普通に使うことができる。だから両替は必要ない。インドルピーを持たない訪問者は少なく、国境に両替所を置くほどでもないのだろう。
ブータンの観光局の規則で、インド人以外の外国人のツーリストは旅行代金を先払いする。代金には宿泊、食事、移動がすべて含まれるので、ブータン国内を旅行中は現金はあまり必要ない。それでも、土産物の買い物や非常用に多少は必要だ。両替のために訪れた銀行は町はずれにあった。プレハブ風の建物だが、建物の壁面は伝統的なデザインでペイントされている。
サンドゥルップは標高100メートルほど。緯度は沖縄と同じくらいで、当然暑い。銀行の天井にはシーリングファンが取り付けられ、両替をしてくれた銀行職員のデスクの上でも卓上型の扇風機が首を振っていた。でもこの気候なのに、男性職員も女性職員も暑苦しそうな伝統服だ。どこかの国でクールビズを推進している役所の人がみたら、卒倒しそうな光景だ。仕事中、そして役所や学校、寺院など公式の場所に出向くときは伝統的な衣服を着用するという規則がある。男性は長袖で膝丈くらいのゴという服、女性はキラという、床まで届く長い巻きスカートに、テゴという長袖の上衣。仕事中なので、ガイドのジャムソーもゴを着ている。やっぱり暑そうだ。
両替をすませ、町を見物がてら買い物をすることになった。ブータンへ出発するまえ、自己紹介とブータンでやりたいことをまとめたメッセージを書いて、カルマに送ってあった。ガイドに渡しておくよう頼んでおいたのだが、それはちゃんとジャムソーに転送されていた。やりたいことのひとつが、ブータンの服を買うことだった。
「キラを買いたいんでしたよね。手織りのと機械織りのと、どっちにしますか?手織りだとちょっと高いんですが」
ブータンの衣装になじみのない私が着るのだから、安物で十分だ。迷うことなく、機械織り、と答えた。ジャムソーが町の人に聞いて、衣料品店を探してくれた。着方を教えてもらわないとお話にならないので、女性店員のいるところで買いたかったのだが、探し当てた店の店番は中年の男性だった。その男性が、山積みになった衣類からピンクのキラと黄色のキラを取り出した。ピンクにした。今度はテゴだ。最初に出してくれたのは黄色い生地で、襟とカフスの部分が赤の組み合わせだった。いくら私が服装オンチでも、これがピンクのキラに合わないことはわかる。取り出したテゴを私が気に入らなかったのを見て、店番は別なものを2~3枚出してくれた。その中から、すみれ色のテゴを選んだ。
さてこれをどうやって着るか。店番の男性とジャムソーがああだこうだと教えてくれるが、二人とも自分では着ないので要領を得ない。2軒先の床屋から、ジャムソーが若い女性を連れてきた。テゴのほうはジャケットのように着て袷の部分を安全ピンで留めればおしまいだが、キラはプリーツを取って身体に巻きつけるので着るのは難しい。彼女に教えてもらって、とりあえず理屈は理解した。
買い物がすんで町の通りをぶらぶら歩いた。見物する所もないくらい、小さな町だ。ドラム缶ほどもある、大きなプレイヤー・ホイールがあった(写真参照)。日本語だと、マニ車、というのだろうか。これはブータンの村や町ならどこにでもあるのだけれど、初めて見たのでもの珍しかった。教えてもらって、回してみた。ホイールが回るたびに、チーンと澄んだ鐘の音が鳴る仕組みだ。
鐘の音を聞きながら考える。金曜日の夕方に自宅を発ってから、ずっと駆け足だったような気がする。月曜日の夕方、サンドゥルップでプレイヤー・ホイールを回しながら、やっとブータンまでたどり着いたと思った。遠いところまで来た。ここにいれば安全だ。誰も私に届かない。私を呼び戻すことなんて、できない。
ジャムソーとネテン
夕食の時間、ホテルのレストランに現れたジャムソーとネテンはまるで別人だった。就業時間は一応終わったので、二人ともオフの服装だ。伝統服を着ていないと、日本の休日のサラリーマンみたいだった。彼らはブータンでは都会の人間だ。ゴを着なくてもいい時は、こんな服装で過ごしているのだろうか。彼らの住まいは首都ティンプーで、そこからインド経由で2日間運転してサンドゥルップに来たのだという。なぜインド経由なのか?インドのほうが道がまっすぐで運転しやすいのだという。ということは、ブータン国内はよほど山道だらけなのだろう。
ともかく、ゾンカ語で冗談を言い合いながら食事する彼らは、まるで日本人に見えた。
「ふたりとも、本当は日本語が話せるのに、話せないふりしてたりしない?」
私がそう言うと、二人は、「そうかもしれませんね!ま~最後に分かりますよ、多分」と冗談めかして答える。
ブータン人は体格や顔つきが日本人と似ているだけではなく、表情や仕草も日本人に似ている。彼らと一緒の食事だと、食べる前に条件反射で「いただきます」と言ってしまう。これはふたりともすぐに覚えて、食事のたびに3人で「いただきます」と言って食べた。
ただ、ブータンにはブータンの、食事の時の習慣がある。食べ始める前に少量の食物を神様に捧げるのだ。屋外での食事なら、米粒やスープを薬指の先につけて飛ばす。レストランなどでは、チキンの骨などを置くために用意された皿に、ごく少量の食べ物を置く。私は少量でも食べ物を放り投げてしまうのは抵抗があったが、ふたりとも何か飲んだり食べたりする前に、必ずこれをやっていた。
音
私は、旅先だとよく眠れないことが多い。
ただ、この時はよほど疲れていたのか、そうではなかった。うとうとしたと思ったら、次に気づくと、もう部屋の中は明るかった。
外から音が聞こえる。それは自動車の音でも、合成された音声の案内でも、録音・再生された音楽でもなく、通りを歩く町の人たちの話し声だった。家族同士、知り合い同士で話しているのだろう。3階にあるホテルの部屋の中で聞こえるのだから、相当しっかりした声で話しているに違いない。
まだ朝食には時間があった。バスルームで顔を洗い、ベッドの上で座り、短時間だけ瞑想した。
瞑想するとき、音楽やテレビの音声が聞こえるとうっとうしいものだ。でも聞こえてくる話し声は、不思議と耳障りではなかった。まるで誰か知っている人の話し声を聞くような心地よさと安心感があった。ブータンの人は、声を出し、話すことで意思疎通する。先進国に住む人間は、こんな当たり前のことができなくなっているんじゃないだろうか。ブータンにだって、ネットを利用してメッセージを送る人もいる。ブータントラベラーのカルマとは、そういうふうに情報交換してきた。でも、私の住んでいる国では、電子化されたメッセージを送るばかりで、きちんと心の通った話のできない人間も少なくないような気がする。
朝食を食べにレストランまで行ったが、ジャムソーもネテンも現れない。しばらく旅行するうちにわかったのだが、ガイドとドライバーは、ふつう旅行客とは別に食事する。そう言ってくれればいいものを、わからないのでずいぶん長いあいだ待っていた。お茶をもらって日記を書いていたので待つことは不都合ではなかったが、しばらくして現れたネテンが、僕たちはもうホテルのキッチンで食べましたよ、と言うのを聞いて私も朝食にした。このせいで出発がだいぶ遅くなった。
インド人労務者
SUVに荷物を積み込んで出発する。私の分だけではなく、ジャムソーとネテンの分もあるので、相当な量の荷物だ。私の一人旅のためにこの人たちが20日間も旅行するというのが不思議だった。道はすぐにサンドゥルップの町を出て、昨日ラヒムが「ブータンだよ」と教えてくれた山の中に分け入っていく。標高がどんどん上がり、眺めがいい。
ただ、道はよくない。カーブの多い山道は、舗装だったりダートだったり、路面の状態が一定でない。道幅の狭い所が多い上、ゆっくり走るトラックも多いのですれ違ったり追い抜いたりするのは大変だ。そして、道路工事がとても多い。道路工事にはブルドーザーやパワーショベルといった重機がつきものだが、人力だけで工事をしている現場も多かった。古代ローマの街道建設とあまり差がないのではないかという光景だった。
道路工事の労務者は、ほぼ全員がインド人だった。
女性も少なからずいて、ひらひらしたサリーをまとい、工事現場に転がる石を両腕で抱えて運んでいる。
こんな山奥の工事現場にどうやって通うのだろうと思ったが、現場のすぐ近くにはたいてい労務者のキャンプがあることに気がついた。トタンで作った掘っ立て小屋で、非常に粗末なものだ。こんな劣悪な環境での労働が合法だというのが信じられなかった。
ジャムソーの話だと、インドの道路建設公社とのあいだに協定があり、そこから期間契約のインド人労務者が派遣されてくるとのこと。一家で「派遣」されてくる労務者も多いのか、キャンプの周辺で小さな子供を見かけることも多かった。インドは多様性に富む国で、なんでもありなのだと思う。でも、こんなに美しい場所で最低の労働環境で働くインド人がいるということは、覚えておいてもいいかもしれない。
そういう工事現場は、車の交通を止めて工事をすることがある。通行止めの正確な情報を事前に手に入れるのは難しい。ジャムソーも通行止めになる場所があるらしいのは把握していたが、時間まではわからなかったようだ。その地点に到着した時は通行止めになっていて、次に車を通すのは2時間後だという。2時間、何もない山の中で時間を潰すことになった。私たちだけではなく、他の車やトラックも次々にやってきて、道路が開くのを待つ車の長い列ができた。
ジャムソーやネテンを待たずに、さっさと朝食を食べて出発すればよかったと後悔した。2時間は長かったが、自己紹介を兼ねて彼らとそれぞれ話ができたのはよかった。おかげでお互い、どんな人間で何を考えているのか、少しずつわかってきた。
時間になり、通行止めが解除されて出発した。しばらく行くとタイルで飾られた小さな祠があった。
道路建設工事の事故で亡くなったインド人労務者のために建てられたヒンズー教の祠で、ここで旅の安全を祈る習慣があるのだという。メキシコにもこういうところがあったな、と思い出す。街道沿いのその礼拝堂に、ふつうの乗用車は止まらないが、トラックの運転手がロウソクを供えるのだ。小さな礼拝堂の中は暗く、たくさんのロウソクが煤を吹きあげながら燃えていて、異様な雰囲気だった。でもこの小さな祠は、明るい日差しの下、年老いた堂守がひとりでさみしく守るだけだ。故郷を離れて劣悪な環境で重労働をして事故死した、おそらくたくさんのインド人のことを考えると、もの悲しい場所だった。
ネテンが車を停め、堂守の老人に紙幣を渡す。老人は水差しにいれた水をネテンの手のひらに注いだ。聖水なのだろう。そして、手に持った細い棒の先端を彼の額に押し付けた。ネテンの額に、紅い点がついていた。ジャムソーに言われて私も手を差し、同じように聖水をもらい、額に紅い点をつけてもらった。堂守が祠の鐘を鳴らした。"旅が安全でありますように"と。
私たちは、ヒンズー教徒の紅い点を額につけて出発した。
お断り:ブータンの地名については、英語で会話した場合の読み方に基づいて日本語表記しました。そのため一般的な日本語表記と一致しない場合があります。