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(↑寺田寅彦変態詩。案外イイじゃないか)。

 寺田寅彦論第二弾である「潜在・日本・必然――寺田寅彦のナショナリズム」を書いた。寺田のフロイト『夢判断』受容から出発して、俳諧の本質的性格を司る「日本」的風土性とそこに宿る「必然」性の位相を、ナショナリスティックな意識と共に考える。「ディテール・プロバビリティ・モンタージュ」の続編。文字数は21808字、原稿用紙に直すと55枚。またひとり、大学生を卒業させてしまった……(私の学校では卒論は50枚程度の分量だったのである)。目次は以下。


序、寺田寅彦の偶然論復習
一、フロイトの「潜在」構造とモンタージュ論
二、偶然論と両立する「必然」
三、社会主義思想批判
四、俳諧と「日本」的風土
五、新興俳句運動批判
六、開放的なナショナリズムを支える概念連鎖
七、「黴菌」に対する危機感

 


・フロイトと俳諧にチャレンジ

 今回の論文は、長年わりと倦厭していたものに取り組んでみた、(私自身にとって)チャレンジングなものだった。つまり、フロイト(精神分析)関係と俳諧の問題である。

 私は実存主義者なので「無意識」など認めておらず、当然、フロイトなどトンデモ以外の何物でもないと思っており、また、私には詩の才覚が皆無なので俳句や短歌のようなポエムに対してまったく理解がない。その意味でとても難儀した。構想も入れると結構な時間がかかった気がする。フロイト受容に関しては「在野研究のススメvol17 : 大槻憲二」を書いたときの資料が役立ったが。

 しかし、自分の得意でないフィールドを一から学ぶことは案外に楽しいものである。フロイト受容や昭和俳諧論に関する書物など、こういう機会がなければ読むことなどない。未だ十分でない論述もあるかもしれないが、私にとってはとても有意義な一本になった気がする。不十分な所は書籍化するときにでも追記することにしよう。

 何はともあれ、これが今年最後のWeb論考。これで安心して新年が迎えられるというものである。


・「交通」の論点

 拙稿では余りに長くなりすぎてしまったので、「交通」のテーマには触れられなかった。しかしこれは偶然性を考える上で、決して無視できない問題だ。例えば、人と偶然出会うこと(=遭遇)、この偶然性の強度は交通機関の発達の度合いによって変化する。交通のない未開の土地における遭遇は希少な偶然の性格を帯びるだろうが、交通機関と交通網が整備され、安価にそれを利用できるような技術条件を満たせば、その希少性は薄れるはずだ。「交通」は伝染の問題とも無関係ではない。交通によって、本来はその国や土地になかったような異種の要素が密輸され、予想できない反応を呼び起こしてしまうことがある(例えば、鳥インフルエンザのような)。

 寺田寅彦はしばしば、交通の問題をエッセイのなかで論じている。


「ギリシア人と中央アジア並びにインド人と交渉のあったことは確かであり、後者とシナ人、シナ人と日本人とそれぞれの交通のあったことも間違いないとすれば、歌謡のごときものが全く相互没交渉に別々に発達したと断定するのも少し危険なような気がするのである」(「短歌の詩形」、『勁草』、昭和八年一月)
 

 その通りである。しかし、では拙論で論じた「日本」的風土のもつ多様なレヴェルでの多様性とは「日本」特有の特性とはいえないのではないか。多様性を「日本」の固有性に回収することはできないのではないか。寺田によれば「永代橋から一樽の酒をこぼせば、その中の分子の少なくもある部分はいつかは、世界じゅうの海のいかなる果てまでも届くであろうように、それと同じように、楽器でも言語でも、なんでも、不断に「拡散」を続けて来たもの」(「日本楽器の名称」)である。この「拡散」の哲学を徹底すれば、日本であれアメリカであれ、世界中の「一樽の酒」とのグローバルな相互感染を免れえず、その混淆的世界を「日本」という単位に押し込めることは恣意的な操作以外の何物でもないのではないか。

 以上のことは、やはり書籍化するときにでも追記することにしよう。


・イリッチ『脱学校の社会』読書会

 さて、最後に告知である。

 今月27日(土)にイヴァン・イリッチ『脱学校の社会』の読書会を行う。時間は18時〜20時、場所は新宿のルノアール(マイスペース新宿区役所横店2号室)、場所代(ドリンク一杯込)は1100円、レジュメは荒木担当。第四章「制度スペクトル」は人によってはたぶん難しいので、ダメそうだったら飛ばしていい。終了後には忘年会を行う。新参者だろうがなんだろうが、お気軽に参加して欲しい。

 さて、今年もおしまいだ。今年はWeb論考を7本、「マガジン航」に原稿を2本、6月に有島武郎研究会で発表、となかなかに仕事した一年だった。実は前回書いた寺田論は丁度一年前の12月で、そこでの「後記」では「二冊目の単著の序章を書き始めるくらいには前進したい」とかほざいており、案の定そんなことはできてないのだが、タメの年としてはまぁ結果オーライという気がする。来年あたりは今年のタメを爆発させて、一発ブレイクしたいものである。

 では、良いお年を!