(↑『大槻先生還暦記念帖』、東京精神分析研究所、1951)
大槻憲二(1891‐1977)。精神分析学者。モリスを中心にした文芸評論から出発し、昭和初期にフロイトの翻訳と精神分析に関する論文執筆を盛んに行う。日本初の精神分析専門誌である『精神分析』を主宰。また、日本初の精神分析辞典である『精神分析心理学辞典』(岩崎書店、1951)を刊行。主著『精神分析概論』(雄文閣、1934)、『精神分析性格改造法』(東京精神分析学研究所出版部、1940)。著書多数。
◎大槻憲二略年譜
1891年 兵庫県淡路にて誕生。中学時代に神経症にかかる。1910年 東京美術学校入学のために上京。西洋画志望。1914年 美術学校を中退し、早稲田大学英文科に入学。1918年 大学卒業。上京して運輸局旅客課・東亜案内に属官として勤務。この間にドイツ語の勉強をする。1923年 翻訳、モリス『芸術の恐怖』(小西書店)刊行。1924年 関口岐美と結婚。長男貞一誕生。官吏の職を辞し、文筆業に入る。翻訳、シュニッツレル『ギリシャの踊女』(新潮社)刊行。1928年 矢部八重吉、長谷川誠也らと東京精神分析学研究所を創設。1929年 春陽堂「フロイド精神分析学全集」の翻訳が始まる。翻訳、フロイト『夢の註釈』刊行。1930年 翻訳、フロイト『日常生活の精神分析』刊行。1933年 雑誌『精神分析』創刊。1934年 『精神分析概論』(雄文閣)刊行。1936年 『精神分析読本』(岡倉書房)、『精神分析社会円満生活法』(人生創造社)刊行。1941年 『日本の反省』(道統社)、『経済心理と心理経済』(岡倉書房)刊行。1942年 『精神分析社会生活』(人生創造社)、『勝利者の道徳』(東京精神分析学研究所出版部)、『国語の心理』(育英書院)、『映画創作鑑賞の心理』(昭和書房)刊行。1945年 栃木県那須野に単身疎開、続いて妻も疎開。以後、那須野に定住。1946年 『わし姫物語』(株式会社大日本雄弁会講談社)、『天皇象徴論』(東京精神分析學研究所)、『男らしさの心理学』(東京精神分析学研究所出版部)刊行。1947年 『善悪の研究』(東京精神分析学研究所出版部)、『女性の愛情』(コバルト社)、『現代犯罪心理の分析』(さくら書房)、『結婚と性格』(卍書林)刊行。1951年 日本初の精神分析辞典、『精神分析心理学辞典』(岩崎書店)を刊行。『病床の修養』(池田書店)刊行。1952年 東北大学医学部にて精神分析に関する研究発表を行う。1956年 『精神分析図解入門』(育文社)、『男らしさ女らしさ』(池田書店)刊行。1957年 『性教育無用論』(黎明書房)、『才能の発見と伸し方』(池田書店)刊行。1961年 辞典の改訂版である『精神分析学辞典』を刊行。東京精神分析学研究所三紀年記念行事の会編集の『私は精神分析で救われた』(育文社)を刊行。1966年 『共産主義分析』(東京精神分析学研究所)を刊行。1968年 『雷神の歌』(東京精神分析学研究所)、『続・私は精神分析で救われた』(東京精神分析学研究所編、育文社)刊行。1977年 2月23日、死去。
1978年 『人間はどこまで正気か』(育文社)を刊行。1984年 『民俗文化の精神分析』(堺屋図書)、『全人類への訴え』(大槻憲二遺選集刊行会)刊行。
・フロイト受容の立役者
「私の説はほとんど顧みられることがなかった。嘲笑家アナトール・フランスの言い草ではないが「学者は好奇心を持たない」。学問にも復讐というものがあっていいのなら、私のほうでもこの書物の初版以来来世に出た文献を無視して差し支えなかろう。学術雑誌に掲載されたわずかばかりの批評を見ても、それらは私の所説に対する無理解と誤解に充ちみちていて、もう一度この本を読んでみてくれというよりほかは何とも答えようがないくらいなのである。ひょっとしたら、こう要求しても差し支えないのかもしれない、「一度は読みたまえ」と」(フロイト『夢判断』上巻、新潮文庫、1969、121‐122p)
「一度は読みたまえ」、人生で一度は言ってみたいセリフである。
フロイトの精神分析が「学問」であるかどうか、「科学」であるかどうかは知らない。しかし、思想史を学ぶとき、フロイトという固有名や無意識という未知なる領域の発見は避けては通れないだろう。少なくとも精神分析は、心理学史の巨大なトピックであることは間違いない。
そんなフロイトの受容(翻訳や紹介)に一役買ったのが、今や忘却された知識人、大槻憲二である。日本におけるフロイト受容自体はすでに大正期から始まっており、実際、明治期における自然主義文学の評論で有名な長谷川天溪はフロイトにも興味を示し、早稲田大学の授業で精神分析を取り扱った。そして、その授業を大槻は受けていた。
大槻の大きな業績は、第一に昭和初期のフロイト全集の翻訳(春陽社とアルス社の二社があったが、大槻が担当したのは前者)をほぼ一人で手がけたこと。第二に東京精神分析学研究所を創設し、雑誌『精神分析』を公刊したこと。そして第三に、日本初の精神分析の辞典であるところの『精神分析心理学辞典』(岩崎書店)を出版したことだ。これらの歴史的に意義深い仕事を在野の知識人が成し遂げたことは現在、完全に忘却されている。
考えてみれば精神分析学とは、元来、在野の学問であった。ユダヤ人(アシュケナジー)であることを理由にウィーン大学の教授から研究職に対する絶望を言い渡されたフロイトは、当時流行していたヒステリーの治療に取組む一人の精神科医として開業する。精神分析の手法はその過程で生じたものだった。大槻はそのようなフロイトの衣鉢を継いで、生涯、著述家としてその生をまっとうした(フロイトでさえ1902年に員外教授となり、1909年には博士号をもらっている)。フロイトの在野精神をフロイト以上に継承したのが大槻憲二だ。
・大学教師を諦めてから
彼の幼少期から青年期までのことは、大槻が還暦を迎えたさいに非売品として出版された『大槻先生還暦記念帖』(東京精神分析研究所、1951)のうちの「精神分析的自伝」で本人が言及している。憲法発布の翌年次男として生まれたから「憲二」と名づけられたこと、大きな家に住み「ナルチスムス」が膨れ上がったこと、そして、中学時代から30代まで続く神経症のために随分悩まされたこと。この神経症が後々フロイトへの興味に結びつくきっかけになるが、ただし大槻は最初から精神分析に興味をもっていたわけではなかった。
「〔大学〕卒業と共に私は大学に残つて講師になりたい願望はあつたが、自分のやうな赤面癖と対人恐怖のある神経症者が教壇に立つことは以ての外であるといふ躊躇もあつた。恐らくは教授の間にも私の学才を認めて講師にしようと云う説をなすものもゐたかも知れぬが、私の神経症的性格への反感がそれを妨げたものと思はれる。私は大学の講師にならなかつたことを或る意味では残念に思ひ、また別の意味では幸と思つてゐる。もし卒業と同時に大学の教師になつてゐたら、恐らくはたゞの一英文学教師で終つたであらう。さうすれば、日本の精神分析学界は一人の適材を得損つたであらう」(『大槻先生還暦記念帖』、29‐30p)
なんと凄まじい自信なのか、といったたぐいのツッコミは、大槻の場合、際限がないのでやめておこう。ともかく大槻の教師願望は、しかし持病と化していた神経症のために、挫折を強いられる。しかし、その挫折の行く着く先が正に在野精神分析学研究の道に通じていたのだ。
大学卒業後、鉄道省の東亜(支那、朝鮮、日本)案内の属官として働き始めた大槻は、しばしば外国との英文通信の仕事を請け負い、英語の勉強として賃労働を活用していった。在野研究の基礎体力作りである。
・ウィリアム・モリス研究からの出発
大槻は「一英文学教師」と書いている。最初からフロイト研究に取り組んでいたわけではなかった。彼が知的営為の出発点としたのは19世紀イギリスの思想家であるウィリアム・モリスであり、その他の英米系の文芸作品だった。
大槻のモリスへの傾倒は徹底しており、モリス研究会を立ち上げ、モリス生誕百年の記念(1934年)として丸善書店での展覧会を企画したのも大槻だった。なにより、大槻が一番最初に出した本は、モリスの講演集の翻訳『芸術の恐怖』(小西書店)だった。
早稲田大学在学中に「夏目漱石論」や小説「夜霧」(『早稲田文学』1918・7)などを書き、その文学的才能を示していた。それに加えて、戦前の大槻はモリスに詳しい文芸評論家としての側面があり、そこから、当時勃興してきたマルクス主義文学論と論争をすることも多々あった。曾根博義「『精神分析』創刊まで――大槻憲二の前半生」(『復刻版 精神分析〔戦前篇〕』別冊、不二出版、2008)によれば、『社会思想家としてのラスキンとモリス』の著者・大熊信行とも論争した(そして、無残にも敗北したそうだ)。
精神分析への関心が前景化してくるのは、文芸評論家の後でのことだ(ちなみに、雑誌『精神分析』にはモリスに関する論考が載ったりもしている)。早稲田を卒業と同時に父親が亡くなり、鉄道省運輸局旅客課に就職したさい、大槻は労働心理の調査をしていた矢部八重吉と出会って精神分析の重要性に気づき、それがモリス以後の(終生とりかかることになる)仕事に接続していったのだ。
・精神分析と民俗学
役所の上司であった種田虎雄からの寵愛を受けつつ(毎日出勤するしなくてもよい、これにより大槻はドイツ語をマスターすることができた)、前述した矢部八重吉、大学時代の縁で参加していた文化研究会、その中心にいた先生であるところの長谷川誠也(天溪)など、人とのつながりを頼りにして、大槻は次第に物書きとして自立していく。
フロイトの翻訳を経て、大槻は精神分析の専門誌である『精神分析』を創刊する。創刊のためのカネは父の遺産を頼りにした。最初は400部から、後の方になると1100部ほど刷り、赤字がなくなる程度には売れたそうだ(『大槻憲二先生還暦記念帖』、45-46p)。
創刊号の巻頭には「我が国の文明と精神分析」が載っている。大正期に輸入された既存の精神分析研究者たちの欠点を挙げ、我こそ真にフロイトを受け継ぐ者であると宣言した声明文だが、興味深いことに、ここで大槻は精神分析には特別な医学の知識は必要ではなく、それよりも、より広範な学問分野に関係するのが精神分析であると主張している。
「医学の知識は必要ではあるが、この方面の知識は、他の諸々の精神科学上の知識と共に、必要なれども未だ十分ならざる知識であつて『必要にして且つ十分なる』知識では、決してないのである。〔中略〕精神分析にとっては、医学の知識は相対的重要さを要求し得べきものであつて、それは民俗学の知識、夢の知識、伝説、神話、文芸学の知識などゝ並行して必要とせらるゝ知識である」(「我が国の文明と精神分析――本誌創刊の辞に代へて」、『精神分析』、1933・5、6p、)
大槻にとって精神分析とは医学の一部門ではなく、多領域に跨るインターディシプリナリーな学問であった。その領域の第一例に「民俗学」が登場していることは興味深い。というのも、大槻はいっとき柳田国男に師事していたことがあったからだ。
「私もまだ若かった頃に柳田先生に師事したこともあったが、私が民俗学に興味を持ったのは精神分析学を通じてであって、従って私は同先生が「手をつけないで残した空白の部分に取組む姿勢を見せ」たから、先生は私をあまり歓迎しなくなったらしい」(『民俗文化の精神分析』、堺屋図書、1984、195p)
大槻にとって精神分析は民俗学のような民間学問の延長線上にある。実際、精神分析を武器にした大槻の様々な評論活動は、ジェンダー問題や政治問題など固い論題は当然のこと、文学作品や漫画やおとぎ話など、一般市民が何気なく消費している物語にまで及んで、その知性が発揮されている。
大槻にとって精神分析は明らかに民間の学として存在している。ここから大槻の在野意識、つまり反官の意識が育まれていったように思われる。
・「大学を自らおん出てから自由の言論をなすべし」
「国家の経営する大学の教授たるものは国家の官吏であることは勿論だ。その官吏が国家の意志に反する言論を公にすることの自由を主張するなどは、盗賊の子供の正直論や、乞食の子分の独立自尊論と同様、誠に噴飯事ではないか。〔中略〕一人前の頭のある人間なら、先ず大学を自らおん出てから自由の言論をなすべし」(大槻憲二「編輯後記」、『精神分析』、1933・7、89p)
大槻は基本的に保守に分類される価値観をもっている。マルクス主義には批判的であり、伝統的な家族制度には好意的であり、戦後にできた憲法九条には破棄を求めた。それ故、国立大学教授の自由な言論を認めなかったことも一見当然であるようにみえる。
しかし、大槻は自由な言論そのものを認めていなかったわけではなかった。官吏を辞職して文筆業に入った彼にとって、国家に飯を食わせてもらいつつ国家に批判的な意見を表明することの矛盾こそ欺瞞の本質であった。京大事件(京都帝国大学法学部の滝川幸辰教授が行った講演が無政府主義的だとされ、滝川の休職処分が決定された事件)に同情を示しつつも、大槻にとって学問の道と官吏の道は決して交わらないものとしてあった。
「一方官吏としての職業的地位に執着しながら、他方学問の自由を要求することは、結婚してゐながら色道の豊富にして自由なる鑑賞権を主張する我儘亭主のやうなもので、その態度の滑稽なることに於いて変りはないと感じたことは、今なほ私の正当な感覚であつたと信じてゐる」(大槻「時評」、『精神分析』、1935・5、79p)
「学問への純粋な熱情と完全(可能な限りで)な自由を要求するものは、官学の教授とはならない筈であるが、その他不純なさまざまな利益があるので、学徒にとつてもこれは大きな誘惑となつてゐる。極端な言ひ方をすれば、一切の官学徒は曲学阿世者となるべき勇気あるものでなければなつてはならない」(大槻「時評」、『精神分析』、1935・5、79p)
実に厳しい。全国の教官たちから袋叩きにされそうな意見であるが、大槻はこの文章で、福沢諭吉の『学問のすゝめ』を例に出している。つまり、学者の本分は政府の役人になることではなく、自由な立場で社会を指導することにあるとする福澤に対し、加藤弘之、森有礼、津田真道、西周などの官学派はこれを反駁した。当然、大槻は福澤派の方に賛成する。
・技術的学問と指導的学問
ここで、大槻は文系教官をさらに激怒させるようなことを述べる。つまり、国立大学における文系学問不要論である。
「官学の畑には結局、技術的学問が最も適当してゐるのだ。医学、薬学、物理学、化学、工学、機械学、電気学などをやつてゐる分には、如何にその学問的分野内で独創力を発揮しても官吏としての職業的地位に抵触しないであらう。併し哲学、文学、心理学、社会学、法学などの方面であまり独創を発揮することは危険である」(大槻「時評」、『精神分析』、1935・5、79‐80p)
今日だと日比嘉高の「国立大から教員養成系・人文社会科学系は追い出されるかもしれない」ような記事に真っ向から反対するような構想であるが、大槻にとって自由によって発展していく文系学科を国立に置いておく意味はない。
「学問自体は常に実践ではない、批評である。為政者は常に廟堂にあつて実践し、学者は常に野にあつて批評(指導)してゐればよいのだ。〔中略〕古来(ソクラテス以来)最も偉大な学者や宗教教〔校正ミスか?〕や詩人は当代への叛逆者であり、時の権力に依つて犯罪者として処罰又は虐待されてゐるものであることを考へて御覧なさい。(叛逆のために叛逆せよと云ふのではない。)而も事実上、彼等こそは当代文化の促進者であつたのだ。かゝる叛逆者は官学の畑から出てはならないし、また出もしないのだ」(大槻「時評」、『精神分析』、1935・5、80p)
大槻は日本の民衆の官学への妄想的な帰依を、精神分析でいう「父コムプレクス」になぞらえている。自分(民衆)たちは息子であり、対して官学は母を所有している絶対的な父親として表象されているのだ。しかし、そんなものは妄想にすぎない。だからこそ、「理論的指導的の学問は、文科系統の学問は、私学又は民間に移すべきものだ。やはり野に置く蓮華草だ」、「官学徒よ、自由の天地に還れ!」(82p)ということになる。
・勝手に精神分析実践
在野で生きる大槻の収入源は、第一に著述活動であり、そして第二に精神分析を用いて患者の相談に乗る医療(?)行為であったように思われる。大槻は郵便を用いて全国の患者と連絡(「精神指導」)をとり、彼らの心的症状の改善に努めた。その成果は『私は精神分析で救われた』と『続・私は精神分析で救われた』という極めてアヤシイ謝恩文集に記されている。
「わが大槻憲二師は真の意味に於いてフロイドの学説を正しく受け継がれ、更にこれを真実正しい方向に発展せしめ、フロイドが久しく望み、且つ努力して遂に到達できなかった二元的一元論――保存、安定両傾向間の拮抗調和(分裂可能)説――を以て宇宙万物、森羅万象に共通する存在(生活)原理を確立せられたのであります。而してそれは必然的に、従来は単に心理学の一分野にとどまった精神分析学を、更に大きく、人間学としての生命分析学にまで高め、広め、そして深めると云う偉大な業績を達成することになったのであります」(谷内正夫「あとがき」、『続・私は精神分析で救われた』、313p)
正直、宗教臭くてドン引きなのだが、しかし大槻自身は宗教と距離を置いていた。大槻はアメリカの精神分析者、ルイス・ポール(Louis Paul)の「精神分析者の心得九条」を引きながら、「分析者が宗教教祖のように、患者の模倣、同一化の対象となっていい気になってはならない」ことを大事としている(大槻「精神分析者と患者」、『続・私は精神分析で救われた』、156p)。
加えて、大槻は患者からきちんと代金をとることを重視している。料金をとることで、分析者と患者の明確な立場が明瞭になるからだ。
「分析のような精神指導に料金をとることは法律で禁ぜられていると威嚇して来るものもある。仮りに法律に禁ぜられているとしても、無料で奉仕せよと云う法律もない、と反駁してやれば黙ってしまうが、そう云う者は経済的に十分余裕のある家の者である。こう云うのを誠意のない患者と云うのであって、その無誠意に負けることは分析の妨げとなる」(大槻「精神分析者と患者」、『続・私は精神分析で救われた』、164p)
正直、まったく納得できない応答であるが、ともかくも大槻は在野でヒステリー治療に尽力したフロイトのように、一民間医療者として研究生活を続けたのだった。
・在野の精神科医
「精神分析と云うものはそう急に身につくものではないし、学校で教わりさえすれば誰にでも身につくと云うものでもないし、また大学附属の診療所や精神病院などでは、どうもこの療法は自然に育たないし、また施行出来にくいものではないかと云う気がしております。と云うのは、これは決して事務的には行えないもので、誠に家庭的な個人的な雰囲気(分析者と患者との間の密接な相互親愛、信頼の関係)が必要なものだからであります」(大槻『人間はどこまで正気か』、育文社、1978、6p)
大槻は晩年の著書『人間はどこまで正気か』の中で、精神分析と在野との関係性を簡潔にまとめている(20p)。第一に精神分析は「根っからの民主的な学問」、第二に「事務的形式的なものでない」、第三に「大学や精神病院」のような大規模な商売にならないこと、第四に官学にはその適任者が皆無であること。以上である。
大槻が行っていたことの正当な評価を下すことは専門家ではないためできない。しかし、在野の師匠としてのフロイトに師事したその研究成果は、フロイト翻訳や精神分析辞典の完成など、確実に学問的達成に貢献しているといっていい。たとえ、トンデモ感があったとしても、数ある仕事は後世から見たときに決して無視できない存在感をもっている。
「学者とはデータや事実をたゞ蒐集するだけではなく、更にその意味を発見して、新たな見解を立て組織化する独創力のある人を云ふのである。その意味で、大学教授と云ふものは大抵はその独創力を去勢せられてゐる」(『大槻先生還暦記念帖』、51p)
大学創立者や学部創設者には独創的な人は多いが、二代目になると「先輩の鼻息を伺つて地位にありつかうと思つて御殿女中式の苦労をして来た人々」(『大槻先生還暦記念帖』、51p)なので、独創力など皆無である。大槻の最大の武器は在野で磨かれたこの独創力にあり、もしかするとトンデモという評価も彼にとってはひとつの栄誉なのかもしれない。
「学問や芸術は常に平民的、在野的でなければならない。官僚的であつてはならない。その力は実質的、内容的でなければならない。形式的、地位的であつてはならない」(大槻「時評」、『精神分析』1935・5)。フロイト本人から貰った直筆の手紙は、大槻憲二という埋もれ忘れられた在野研究者の再評価を要求している。
(↓『民俗文化の精神分析』、238p)
◎文中に引かなかった参考文献・平山城児「「水晶幻想」前後――昭和初年代の日本におけるジョイス、フロイトの受容の実際についての一考察」、『英米文学』、立教大学文学部英文学研究室、1971・3。・曾根博義「フロイトの紹介と影響――新心理主義成立の背景」、『昭和文学の諸問題』、昭和文学会編、笠間書院、1979。・安齊順子「日本への精神分析の導入における大槻憲二の役割――雑誌「精神分析」とその協力者・矢部八重吉を中心に」、『明海大学教養論文集』、明海大学、2000・12。・小田光雄「フロイトの邦訳と大槻憲二」、『日本古書通信』、日本古書通信社、2003・12。・勝俣好充「ウィリアム・モリスと大槻憲二」、『純心人文研究』、長崎純心大学、2014。
※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。