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↑『ブラジル植物記――身近な有用植物の知識』、帝国書院、1962。

 橋本梧郎(1913‐2008)。植物学者。21歳のときにブラジルに移民し、そこから死ぬまで現地の植物採集とその研究をし続ける。後年、サンパウロに自然科学博物館を設立させる。日本政府より受賞多数。主著は『ブラジル植物記――身近な有用植物の知識』(帝国書院、1962)、『ブラジルの果実』(農林省・熱帯農業研究センター、1978)、『ブラジル産薬用植物事典』(アボック社出版局、2002)。その他多数。
 


1913年 静岡県小笠原郡にて誕生。
1930年 県立掛川中学校(現、掛川西高校)を卒業。このころから本格的に植物採集を開始。
1932年 日本植物学会会員となる。日本から離れるさい、植物標本4000点を国立科学博物館に寄贈する。
1934年 ブラジル国サントス港上陸。
1936年 サンパウロ市エメボイ農業学校卒業。日本語学校校長就任。
1938年 サンパウロ市栗原自然科学研究所生物学部長。リオ・デ・ジャネイロ市の第一回南米植物学会議に出席。
1950年 サンパウロ市博物研究会を創設、その顧問になる。
1954年 パラナ州グァイラ市に創設のマテ・ラランジェイラ会社経営の農事試験場場長になる。
1958年 ブラジル移民50年祭典にあたり、日本国外務大臣より大杯受領。
1961年 グァイラ市にセッテ・ケーダス博物館を創設、館長になる。
1962年 『ブラジル植物記』刊行。
1965年 パラナ州グァイラ市のグァイラ国際学園園長になる。『ブラジル動植物分類表』(Sao Paulo)刊行。
1977年 パラナ州ローランジア市に創設の、パラナ日伯文化連合会経営のパラナ開拓農業博物館の資料収集に当たり、初代館長になる。
1978年 ブラジル移民70年祭典にあたり、日本国外務大臣より大杯受領。パラナ州グァイラ市の市長から、褒賞牌を受領。『ブラジルの果実』刊行。
1983年 サンパウロ市フェラース・デ・バスコンセーロス市に創設の自然科学博物館の経営に当たる。『ブラジルの野菜』(農林省・熱帯農業研究センター)刊行。
1984年 サンパウロ市博物研究会の本部に植物標本を主とした標本館を設立、館長となる。
1988年 ブラジル日本文化協会より、学術交流貢献者として表彰される。
1990年 日本国政府より、勲五等双光旭日章を受賞。
1995年 日本・富山における第四国際伝統医学シンポジウムに招聘される。
2002年 『ブラジル産薬用植物事典』刊行、第33回吉川英治文化賞受賞。
2008年 多臓器不全により死去。
 


・ブラジルで研究生活

 Bom serviço!!

 …さて、特に知識も興味もないポルトガル語から始めてみたわけだが、今回取り上げるのは、在野植物学者の橋本梧郎である。橋本は一研究者であると同時に、日系ブラジル人(移民)として研究生活を長年続けた移民研究者だった。

 海外で名を上げたグローバル研究者としては、前に取り上げた南方熊楠が有名であるが、橋本の場合は移民であることもあって年季が違う。21歳のときに渡伯したから、なんと70年以上も異国(というか、もはや本国)の地で研究生活を営んでいた。

 戦前にブラジルに移住した日本人のほとんどは農業に従事していたが、橋本の場合は、先ず日本語学校の校長となり、続いて栗原自然科学研究所部長、日本館庭園部長、農事試験場場長、博物館館長など、なかなかインテリな経歴を作ってきた。橋本は端から研究目的で、つまりアマゾンもある広大なブラジルの自然植物に惹きつけられて、イチかバチか移住してきた男だった。


「私は7人兄弟の末っ子で、わりあい恵まれた家庭に育ち、早くから植物が好きでした。出身は静岡県の真ん中あたりに位置する所で、その当時、植物を採集して歩いて、日本は非常に狭いと感じたのです。ここにいても、もう植物採集のおもしろ味がないと思ったのでしょうね。それから、もっと広い場所で、あるいはもっと熱帯の暖かい所で少し採集したり研究してみたいという気持ちになりました」(橋本梧郎「ブラジルの薬用植物研究誌」、『プランタ』、2000・1、48‐49p、以降頁のみ記す引用はこの記事から)
 

 で、ブラジル行きが決定される。植物採集を趣味にしたことがないので、よく分からないが、このぶっ飛んだ発想には素直に驚かざるをえない。素人からすれば、静岡県が終わったのなら、九州や沖縄にでもいけばいいんじゃないの、と思ったりもするが、橋本が記すに「自分の行けるのはまずブラジルしかない」(49p)と、海外行に行くのは前提になっているようであった。


「サンパウロ市の郊外の農業学校が生徒を日本で募集していることを朝日新聞の広告で知り、東京で選考を受けて渡航したわけです。その学校でまる2年、ブラジル農業とか言葉をまず覚えました。それが私の学歴です」(49p)
 

 普通なら、専門の教育機関で訓練を積んでから、専門的研究に入っていくのが適当なようにも思うのだが、橋本はそんな腑抜けたルートには目もくれずブラジル行きを決めているようにみえる。まったくブレない橋本梧郎、恐るべし。


・在野研究の先輩

 この決心の強さには、先行して活躍したブラジルの先輩が念頭にあったようだ。「中学の教科書にも、博物学、あるいは博物通論というのか〔「が」では?〕授業にあ」り(49p)、これによって二人の偉大な在野人を橋本は知っていた。一人は進化論を唱えたチャールズ・ダーウィンであり、もう一人が『ブラジル植物誌』を計画したマルチウスだった。


「ダーウィンは、若い時にビーグル号に乗って約6年間かかって世界を一周し、それが進化論の一つの基礎になりました。調べると、そのダーウィンがビーグル号に乗った時が22歳。それから『ブラジル植物誌』という有名な膨大な本があります。〔中略〕その最初の計画・編集をしたのがマルチウスというドイツ人。その彼が最初にブラジルに来たのが23歳の時。対する自分は21歳だから、彼らよりちょっと若いわけで、これだったら負けないという気持ちで、私はブラジルに行ったわけです」(49p)
 

 うん、なんというか、あまり説明になってない気もするが、個人的にはよく分かる。過去の偉人に同一化して己を震え立たせるような体験は、とりわけ在野研究者にとって重要かもしれない。在野には大学の先輩や先生といった、先達者がおらず、目指すべき目標のイメージは、しばしば自分自身で調達して来なければならない。そういったものが迷わないための道しるべになる。そんなとき、過去の研究者のちょっとした類似点で自分が励まされることは私にも経験がある。

 なによりも、この連載自体がそのような経験のちょっとした入口になってくれればと思いやっているところもあるわけで、私達は過去をろくに知らないくせに、簡単に、学校に属してないと勉強できないとか、大学にポストの用意がないからもう終わりだとか、しきりに言いたがる。しかし、過去に関する知識があれば、この世界には様々な例外者たちがいたことに気づく。ともかくも、ダーウィンとマルチウスは、橋本に移民を決意させるだけのモチベーションを与えたのだ。

 また、馬場淑子の児童向け伝記『ブラジルに夢をおって――移民植物学者 橋本ゴロウ物語』(講談社、1988)によると、中学時代、世界各国を飛び回っていた探検家・菅野力男が各地の学校で行っていた講演もブラジル行きを決意させる遠因となったようだ。「いつかいってみたい。世界中でいちばん植物の種類の多い国へ! そこでばりばり勉強するんだ!」(『ブラジルに夢をおって』、36p)、だそうである。

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・ブラジルでの新生活


「なぜ、ブラジル移民かというと、労働力不足のためにブラジルが希望したからなのです。それはおもにサンパウロ州のコーヒー園に関係があります。コーヒーが非常に利益になったから、サンパウロ州にはたくさんのコーヒー園がありました。そういう所がブラジル政府と契約して、政府が日本人をいれたわけです」(50p)
 

 橋本が指摘するに、移民とは単なる労働力に過ぎなかった。率直にいえば「初期の日本移民というのは、いわば奴隷の代り」(51p)として求められた。このような移民政策は、ふつう家族単位(ただし赤ん坊がいては困るから子供は15歳以上である必要がある)で雇われ、橋本のように単身ブラジルに渡ることは稀だったようだ。しかし、この特殊事情が幸いして橋本は少なくともそのような「奴隷」的生活をせずに済んだ。


「独りで来たのですからもちろん自分で稼がなければなりません。一方でやりたいことがあって、どうするかということになります。一口で言えば、なるべく植物の研究のできるような仕事を選んで、何とかやってきたということです」(54p)
 

 最初に橋本が始めたのは日系人の植民地にあった日本人学校の教師だった。人が足りなかったのか、その仕事は多忙を極めた。馬場淑子が記すに生徒からは「ゴロちゃん先生」(『ブラジルに夢をおって』、94p)と呼ばれていた。


「小間使い兼校長兼事務員兼というのを全部1人でやりました。しかも複式ですから、何学級かを1人で教えなければなりません。ブラジルのそういう日本人学校なんて、決して整ったものではないから大変なことです」(54p)
 

 学校業務、蛇の脅威、原始林で迷子、初めての自炊など新生活の困難のなかで、しかし橋本は「でも植物採集はしていました」(54p)と述べる。研究の意志によって渡伯までしたそのモチベーションは、そんなことでは消えなかったのだ。


・研究所に所属

 新生活と研究の両立に戸惑いながらも、なんとかバランスをとろうとしていた橋本に転機が訪れる。栗原自然科学研究所の創設である。ここでは機関誌『自然』(1940年から刊行)に論文を発表し、編集も手がけた。


「栗原自然科学研究所―現在はもうありませんが―というものがサンパウロ市に出来ました。当時のサンパウロの総領事館がバックアップしてくれたので多少の資金を仰いで、スタッフ5~6人で発足したのです。1938年のことです。〔中略〕それで暇が得られましたから、私はまずブラジル植物園や専門家のところに行くべきだと思って、少しは言葉も出来ましたから、サンパウロ植物園に通い、採集品を持参して同定してみたり、ついには蔵書を自由に閲覧できる許可を得たり、自分の研究を進めました」(57p)
 

 しかしそんな中、橋本に不運が降りかかる。太平洋戦争である。日独伊の中軸国側の国籍のある者は、様々な制限がかけられる。橋本にとって一番大きかった打撃は、大きな旅行ができにくくなったこと、いちいち警察に出頭し届出を出さなければ旅に出ることができなくなった。これが2年間ほど続く。

 戦争が終わり、ふと見渡してみると、研究所にいた日本人は戦争が生んだドサクサでほとんど残っておらず、橋本独りとなっていた。それ故、「研究所の資料というのは、結局私に押し付けられて、ずっと持ち歩くはめに」なった(58p)。

 橋本は都市サンパウロから離れることを決め、パラグアイ国境に近い奥地にできる予定の農事試験場で働かないかという勧誘を受けることにした。「ここは例の大滝イグアスに近く、その向こうはもうパラグアイ。そういうところならおそらく植物調査もされていないだろうし、これはおもしろいということで、そこへ飛び込んだわけです」(58p)。


・ブラジル植物探検史四期

 1962年、橋本は初めての著書『ブラジル植物記』を刊行する。身近な有用植物を記録したこの本には「ブラジル植物探検略史」という珍しい歴史が記述されている。橋本はその略史を四つに分けている。

 第一期「本草期」は、ブラジル発見から1636年までで、本格的なブラジル植物学の前史。第二期「黎明期」は、1636年から1817年まで、ヨーロッパの学者がブラジルを訪れ、真の意味のブラジル植物学が始める。第三期は「発展期」、1817年から1906年まで、探検が最も活発に行われ、ブラジル内で生物関係の研究機関が多数創設された。第四期が「現代」、橋本の活動している時代である。

 この四分割は橋本の研究の集大成といってもいい『ブラジル産薬用植物事典』の冒頭部分にも採用されている。橋本の大筋のブラジル観は50歳くらいのときに確立され、それ以後はあまり変化せずいたといえよう。


・アマゾン探索のために

 ブラジルの植物を網羅しようとする橋本にとって、アマゾン地帯は魅力的であるが、その分容易に足の踏み込めない世界だった。飛行機のない時代では、船を使って片道1週間から10日ほどかかる旅を覚悟せねばならない。

 アマゾン攻略のために60歳を過ぎた橋本が準備したのは二つのことだ。一つは、既に大家族化した移民のコミュニティから押し付けられる様々な役職(初期移民者としてのまとめ役)を断り、研究に没頭しようとしたこと。「研究に専念するということと同時に、世間のわずらわしいことから自由でいようと思い定めたのです」(61p)。

 もう一つは、トヨタ財団に研究助成金を申請して資金を調達したということ。その成果が2000頁を超える『ブラジル産薬用植物辞典』である。トヨタ、good job!


・若いときの「志」と「理想」とのバランス

 橋本は自身の研究生活を振り返って次のように述べている。


「私の経験から言えば、やはり若い時に何か志を、一生かけてやろうということを持てた人は幸福だと思います。私は21歳の時すでにそういう決心をしました。〔中略〕標本館を作ったのがやっと2年前です。それまでは身の置き場にもこまるような狭い所で暮らしていたということです。だから私の研究は十分にいくはずがない。ですから私は最初の理想であった植物分類学を諦め、応用方面を選びました。これならできると。もちろん今も植物採集はしていますけれど」(60‐61p)
 

 大事なことが二つある。一つは、若いときの「志」が意外なモチベーションの源泉となって、以降の研究生活の推進力になるということ。そして、もう一つは、在野故の諸限界によって当初企てていたすべての研究計画を実行することはできず「理想」を修正したことの重要性だ。

 この二つは一見矛盾しているようにみえる。しかし、長く続く「志」は、ひとつのリアリズムとして、「理想」に対して実現可能性/不可能性の峻別を冷静に要求する。橋本はそれに成功して、体系的な「植物分類学」から、見知らぬ土地に移住した移民者にとってすぐにその実生活に役立つ「応用方面」に突き進んだ。「志」は「理想」を監督する。これが橋本梧郎の在野精神である。

 日本に一時帰国したさい、橋本は、中学時代に世話になった恩師である勝又秀丸教諭からある言葉をサイン帳に貰ったそうだ。曰く、「あす死ぬつもりにて今日生きよ。永久に生きるつもりで今日学べ」(『ブラジルに夢をおって』、187p)。


※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。