shintaku-1 (1 - 1)
#01 " LIFE feat / 牛丼の滝(Cup noodle Seafood )" 


Flickr Photo album
LIFE feat/牛丼の滝 】---
流れ(落ち)るのは我が涙、ではなく牛丼、生卵、味噌汁、お新香、チーズ、カップ麺、そば、焼きそば、など--- 
https://www.flickr.com/photos/108767864@N04/sets/72157648592726737/



◆ "流れよわが涙"という台詞をディックがバックマン本部長に言わせたのは、本部長が人間である証であり、それがあの有名な小説においてはとても重要であって云々、とかなんとか世間では言われているらしいのだけど、2013年2月10日の午後に、落合南長崎駅の撮影スタジオで薄ら笑いを浮かべながら脚立へ登った画家から流れ落ちたのは涙、ではなかった。ビニールシートを敷いた床とステンレスボウル、寸胴に投下され、降り注いだのは牛丼と生卵、味噌汁、お新香、チーズ、そば、焼きそば、カップ麺だった。

◆ 照明機材の強い、ドラマチックとさえ形容できそうなまばゆい光の中でそれらは一瞬のうちに落下し、続けてまた投下され、落下し、さらにまた繰り返し投下、落下、投下、落下、投下、落下と続けられ、そのたび寸胴から飛沫がはじけ、シート上にはスープと肉と米と野菜の混じりあった不毛の沼地が形成されていった。

shintaku-6 (1 - 1) shintaku-9 (1 - 1)
#43 " LIFE feat / 牛丼の滝(Noodles, garbage)" shintaku-5 (1 - 1)
左上:#31(Cup noodle / SOBA) 右上:#35(Cup noodle Curry)
左下:#43(Noodles, Garbage) 右下:#41(Bowl, Garbage) 

shintaku-52 (1 - 1)
shintaku-4 (1 - 1)
shintaku-2 (1 - 1)

上:#44(Bowl, Noodles, Garbage) 中:#45(Saucepan, Noodles, Garbage)
下:#42(Noodles, Garbage)



◆ 繰り返される投下→落下の軌跡は三脚上に設置されたカメラによって高精細なデジタル画像として記録されていた。わたしは、行為の全体をパフォーマンスのようなものとして俯瞰的に観察しながら次々にシャッターを切っていた。画家によれば、パフォーマンスは、《牛丼の滝》あるいは《LIFE feat》と呼ばれる絵画のために行われているのだった。約一年八ヶ月後、それらは公開されることとなった。


新宅睦仁個展:《牛丼の滝》
会期:2014年10月2日(木)~10月14日(火)
場所:沢田マンションギャラリーroom38
 


◆ …とまあ、なんだか思わせぶりな書き出しをしてみたわけだけど、上掲引用のように先月エン-ソフでも告知を掲載した新宅さんの個展、《牛丼の滝》が高知県の沢田マンションギャラリーroom38で行われ、無事終了した。個展のために行われた撮影作業からは約一年八ヶ月が経過していた。冒頭のFlickrのアルバムは当時の様子である。

◆ 落下するモチーフ群の撮影自体はフォトグラファーのKoki Shinmiさんが行い、わたしは全体の様子などを記録していた。撮影終了後ほどなくFacebookへとアップロードして以降、きちんと見返す機会も無かったのだけど、個展のさいポートフォリオへ載せてあった撮影風景がそれなりに好評だったという話を新宅さんから聞きおよんだため、先日改めて画像を収納したフォルダを開いて見たところ、ぶちまけられた各種モチーフが混沌とミクスチャーされる様や、それを行う新宅さんの狂気じみた笑顔は確かにとても印象に残るものであったから、今回改めて記録作品として仕上げ直してみた次第なのだった。

◆ そして、最終的に完成をみた新宅さんの絵画作品及びインスタレーションである、《LIFE feat》、《牛丼の滝》は下記図のようなものだ(こちらは沢田マンションギャラリーでの展示風景)。

◆ 実物を見ると肉や麺などのモチーフを猫写する方法、全体の充実度には大きな疑問があるのだけど、画面構成としては、本人語る(下記引用参照)ところの〔大衆の胃袋に無秩序に際限なく落ちていくイメージ〕というコンセプトが非常に上手く表されているのではないだろうか。現在はオノマトペを用いるのは止めてしまったみたいだが、イリュージョンを多層化、複雑化する手段としては効果的だと感じる。

gyuudonnotaki_6905_zoom
新宅睦仁《牛丼の滝 #69-05》2014年 木製パネルにモンバル紙、水彩 162×336cm

life_2013_no7_zoom
新宅睦仁《LIFE feat 7,797kcal(吉野家:牛丼並盛×11+けんちん汁×1+玉子×3+生野菜サラダ×2) on オノマトペ》2013年 木製パネルにワトソン紙、色鉛筆、油性ペン 53.0x72.7cm




◆ しかし、それにしても、だ。ここまで書いてきたような作家の振る舞いというか行いは、果たして倫理としてどうなのか、ということをわたしは考えてしまったりもする。新宅さん本人によれば、作品のコンセプトは下記のようなものだという。要するに、〈危機感〉へ基づいた〈問題提起〉をするための手段として何個もの牛丼や卵、カップ麺を〈廃棄〉したわけである。


早くて安くて旨いというコンセプトで、サッと出てきて、チャチャッと食べる。惰性的に、作業的に、あるいは単なる熱量、カロリーとして食べる。それは、味わうものではなく流し込まれると言ってもいいような食文化であり、そこには本来の「食べること=生きること」というような生命観、あるいは倫理観は微塵もない。それは現代日本をはじめ、飽食の先進国においては至極普通のことであるが、立ち止まってよくよく考えてみると、どこかそら恐ろしい感じがしやしないだろうか。そのような危惧と問題提起を、日本の代表的なファーストフードである牛丼に象徴させて、大衆の胃袋に無秩序に際限なく落ちていくイメージを、牛丼を落下させ”牛丼の滝”のような構成にすることで表現している。
 
新宅睦仁ウェブサイト《 牛丼の滝シリーズのコンセプト》 
 


◆ 新宅さんの意図からすれば、それは〈芸術〉を目的とするものである以上、本来想定される用途(「食べること=生きること」)からかけ離れた醜い行為、許されざる冒涜に見えたとしても、けして無駄ではないのだと抗弁するだろう。

◆ そもそもからして、牛丼に限らず日本、というか世界の先進国では今日も明日も明後日も明々後日も、昨日も一昨日も一昨昨日も、消費の期限とされる時間を過ぎた大量の加工食品、調理済み食品、惣菜、食材等々が、とにかうもう大量!に、食べられることなく捨てられてきた/ゆくではないか、と。生産者、労働者には労力分の対価が支払われたとはいえ、まったくのゴミでしかなくなるそうした無残に比べ、自分の行いは作品を生み出す、むしろ価値ある〈告発〉だとさえ言い出すかもしれない。

◆ …とまで書くのはさすがに度が過ぎるかもしれず、何かが〈芸術〉であることは、場合によってそれが犯罪や反倫理行為になることと少しも矛盾せず共存し、免罪されることもないのだけれど、結果的に作家を利用して自分の写真を作ってしまったわたしにも些か共犯性があるとすれば、なにやらそれらを倫理的に擁護するかのようなロジックというか陳腐な屁理屈をこさえて、後ろめたさを覆い隠さなければならない気がするのだった。

◆ まあ、こさえてみたはいいが、美術という営みになんら興味も関心も無い多くの人々からすれば、わたしのこのエントリも含めて、《LIFE feat/牛丼の滝》のために為された行いの全体が端的に不気味であり、意味不明な妄言/妄動として響く/見えるかもしれない、というか実際のところ響くし見えるだろう。


わたし:「…あのですね、こうやってね、牛丼をぶちまけることでね、あなたの胃袋に無秩序にね、際限無くね、無批判に落ちていく倫理性のメタファーとしての機能が…」
世間の人:「え、ちょっと待って、何?何?えちょっと何言ってるか分からない、全然分かんない!」

(参照:ジェーン・スーの疑問 なぜカレー好きの男はこだわりが強いのか?
 

◆ それはまったく普通の反応だし、〈おかしい〉のはわたし(たち)なのだけど。

◆ 個展を終えたあと、新宅さんの《牛丼の滝》は、第18回岡本太郎現代芸術賞の応募結果を待っているとのことだ。審査員の一人である美術批評家、椹木野衣氏はわたしの恩師のお一人でもあるのだけど、かれが《牛丼の滝》へどういう評価を下すのかは、興味深いところだ。その点において、結果を注視したい。

(それにしても、何かの賞へ応募する作品のモチーフが〈落下〉というのは、なんというか、ちょっとばかり凄いのではないだろうか)

#53 " LIFE feat / 牛丼の滝(Cleanup)"
#53 " LIFE feat / 牛丼の滝(Cleanup)"

(了)