以下は、彼が生きてきた二十三年間の小話です。
 一部虚偽も混じっていますが、小説ではありません。


 平日よりも幾分部数も多くチラシの多い土曜日の配達を終え家に帰ると郵便ポストには彼宛に一通の知らせが届いていた。時刻は朝の六時十分過ぎだった。
 その知らせは、ほんの二日前に受けたばかりの彼が現在暮らしている区にある役所の期間限定の臨時アルバイトの合否を告げるものだったが、開けるやいなや「不採用」の三文字が彼の目に飛び込んできた。彼は一つ浅い溜め息を吐いたが、すぐに残りの朝御飯を食べてしまい、そのまま眠りに就いた。

 早朝七時、彼はいつものように一番乗りで七階にある教室に入った。そして、窓際の自席にカバンを置くとそこから直進した先にある予備机の上にもう何ヵ月も前から無造作に放っておかれているハーフパンツを一つ掴むとそのまま部屋を出て男子トイレに向かった。和式の個室に入った彼は左手だけを使ってベルトを外し、ズボンとパンツを降ろした。ハーフパンツが握られた右手は当然のように鼻の高さにあった。
 彼と祥子とは三年間同じクラスだったが会話は数えたほどしか交わしたことはなく、彼が唯一知っている彼女の情報は同じプロ野球チームのファンであるということだけだった。しかしながら、祥子はとにかく声がでかかったので彼は彼女の存在を嫌でも意識することになった。
 高校三年間、彼は受験勉強に明け暮れた。もともと勉強にはあまり興味がなく、中学時代もテスト前にちょこっと勉強する程度であった。しかしながら、通っていた中学校のレベルがそれほど高くなかったこともあり、そこそこの内申点が貰え、さらに大学入学まで続く受験運の強さも加わって彼はこの高校に授業料免除の特待生で入学した。
 入学当初は、隣駅にある高校に通う同じ名字の知人と駅で待ち合わせをして満員電車のなか通学していた彼だったが、五月にもなると連日のように満員電車を降りる頃には髪の毛とハンドタオルが汗でびしょびしょになった。幸い、その頃には彼らの交わす会話もほとんど形式的な挨拶程度になり、知人が待ち合わせ時間に遅れてくることも増えたので彼は「朝早く勉強がしたい」などと適当に理由を付け少し早めに一人で通学することにした。以来、高校三年の夏休みになった現在もその習慣は続いている。

 教室の右隅にある机の上にはハーフパンツとセットになったシャツも放たれていたが、このごろの彼はいつもハーフパンツの方をトイレに持ってきていた。ハーフパンツから何か特別臭いがあるわけではない。その一方で、シャツの方からは祥子がいつもつけていた強い香水の臭いがした。
 とにかく何でもよいから臭いがほしかった初期の頃は祥子自身の体臭ではないにしろいかにも祥子を連想させるその香水の臭いは彼を充分に刺激した。しかしながら、二回、三回と回を重ねるーー学校が夏休みに入りそのペースは激増していたーーごとにその香水の臭いと祥子との結び付きは希薄になっていった。
 祥子の魅力は強い香水にも増していかにも祥子らしいその太い太股だった。つねに短くされたスカートもそれをさらに強調していた。彼は休み時間になると教室中に響き渡る祥子の馬鹿でかい声に反応するついでにその太股を目に焼き付けた。臭いのないハーフパンツからはその太股が連想された。
 五分もすると彼の性器は祥子の太股みたくぱんぱんになった。その段になると彼は鼻に当てたハーフパンツで自らの性器を強くしごき、最後にその真っ青のハーフパンツに射精したいという思いを毎度のように抱くことになったが、最後の最後でなんとか踏みとどまるのだった。

 彼には同じクラスに典子という名前の彼女がいた。二年のクリスマス前に思い切って告白をし、付き合うことになった彼にとって初めての彼女である。
 入学早々のオリエンテーションで典子の笑顔を見て一目惚れした彼は少しずつ典子との距離を縮めた。典子は彼が応援しているプロ野球チームのライバル球団のファンだったこともあり、会話は主に相手球団のユーモアを交えた悪口の言い合いだった。
 交際してすでに半年以上になっていたが、二人は手を何度か繋いだだけでそれ以上のことは何もなかった。彼は典子の歪んだ顔をイメージ出来なかったし、見たいとも思わなかった。典子にはとにかく笑っていてほしかった。
 彼はこれまでにも何度か女の子に一目惚れをしたことがあったが、その際の彼女たちはどういうわけか皆同じように微笑んでいた。そして、彼は彼女たちの笑う姿を見ることに強く執着した。
 彼は好きになった女の子に性的興奮を覚えることがどうしても出来なかった。一度、典子の体操着を早朝の教室で探したことがあり、その際、典子のロッカーから体育館シューズが出てきた。とりあえず、と両方の靴の臭いを嗅いではみたが、当然のように性器の反応はなかった。

 「あなたがどれだけわたしの性器のなかをかき乱してもここからあなたが求めているものは何も出てこないわよ」
 「そんなこととっくの前から知ってるよ。それでも…」
 「それでも?」
 「この作業を僕に続けさせてほしい」
 「満足いくまでどうぞ」
 「ありがとう。終わったら君も僕の性器を好きなようにして良いから」
 「わたしは良いわ」
 「どうして?」
 「わたしが求めているものはあなたのなかにはないからよ」
 「じゃあどこにあるの?」
 「ここよ」と彼女は自らの額辺りを指した。
 「ここにあなたがぶっかけるのよ」
 「出来ない」
 「どうして?いつも気持ちよさそうにしてるじゃない。わたし、あなたのためにセンター分けにしたのよ」
 「知ってる」
 「この髪型が嫌になったの?」
 「そんなことないよ。君のいまの髪型はこの世で一番興奮する髪型だし君のおでこはこの世で最も顔射するに相応しい場所だ」
 「じゃあやって」
 「出来ない」
 「どうして?」
 「だってそれは僕が望んでいることに過ぎないから」
 「そんなことないわよ。わたしも望んでいる。いや、わたしが望んでいるの」
 「でも、どうしておでこなんだろう?」
 「なかじゃなくって」
 「うん」
 「額の方が汚れてる感が出るからじゃないかしら。ほら、なかだとそのまま表に出てもわからないし」
 「そうだね。でも、おでこの精子は君には見えないじゃないか」
 「鏡で見れるわ」 
 「それは駄目だよ」
 「どうして?」
 「君自身は何も見ていないから」
 「温もりは感じられるわ」
 「と、とにかく、君にも興奮してほしいんだよ、僕自身に」
 「あなた自身に」
 「僕のどこが好き?性器とか顔の一部分とかそういうの以外で」
 「あなたはどうなの?」
 「え?」
 「あなたはわたしの髪型や額以外でわたしのどこが好きなの?」
 「僕の口からは言えない」
 「原理的に」
 「そう、原理的に。でも、君なら僕に僕の好きなところを言えるし、そもそもそれは君にしか僕に言えないことなんだ。だからずっとこうして待ってる」
 「それ、わたしもおんなじだって気付いてた?」

 祥子のハーフパンツを鼻に押し当てたまま和式の大便器に射精した後、誰もいない教室の左隅の自席で彼はしばし考え込んでいた。そして、ある決意をした。一生涯女とはやらないと。もしこのまま好きな女の子に性的興奮を覚えることが出来なければ、自分がやる相手は祥子のような女に限られるだろう。すると、必ずや行為の後には後悔することになる。なぜなら、彼は自身が性的興奮を覚える女の性格やら態度やら話し方をこれまで一度たりとも好きになったことがないからだ。事実、彼が興奮する女は例外なく皆がさつでとにかく声がでかかった。
 他方で、一目惚れする笑顔の可愛い女の子ともやれない。彼女たちは軒並み痩せていて身体的な魅力が皆無である。おまけに、こちらのタイプの女の子はほぼ間違いなく話がつまらない。典子との悪口の掛け合いも最近は完全にパターン化して来ていた。要するに、単に可愛い笑顔が好きなだけだった。

 そもそも彼は包茎である。真性か仮性かはわからない。知りたくもないのだ。小学生の頃、頻繁に性器にバイ菌が入り排尿時に痛みが生じた。そして、その度に近くの病院に行き、性器に黄色い液体を投入された。
 この頃、同じ府営住宅に住んでいた二つか三つ年上の野球友達の河村君も同じように包茎で将来的に手術をしないといけないというどこから聞いたのかわからない話を母親はよく彼にし、必ず最後にはお前も同じ道を辿る旨を通告された。
 しかしながら、幸か不幸かはわからないが、あれから十年経ったいまでも彼は手術を経験せずにいる。おそらくだが、高熱を出して病院に連れていかれた際に、別室で性器を覆う皮を思い切り引っ張られたことがあり、それが何らかの転機になったと思われる。その際に医者が笑顔で発した「もう大丈夫、大人になった」という言葉をその時はあまりの痛みから素直に受け取れなかったが、十年が経ったいまでは信用することが出来るようにもなった。しかし、女性にこの酷い性器を見せる勇気はまだ持てておらず、それが彼を性行為からさらに遠ざけている。

 祥子のような下品な女には性的興奮を覚えることが出来る彼だったが、男の汚さ、自分の汚さには我慢ならなかった。どうして男はこうも下品なのか。声がでかいし足音もうるさい。絡んだ痰を吐き出す音と咳き込む音は彼がこの世で最も嫌悪するものだった。そして、そんな汚ない男を愛す女ーーとりわけ、典子のような笑顔の可愛い女性ーーの心情がまったく理解出来なかった。
 しかしながら、そんな性的興奮や汚なさを巡る問題は二次的な問題に過ぎなかった。彼が最も頭を悩ましていることは、自分自身が誰からも愛されたことのないという事実だった。
 彼の父親は彼がまだ三才の頃に家を出ていったため彼は父親の記憶を持たない。父親代わりの存在もいたにはいたのだが、埋めようのない距離はどうしようもなく生まれ、結果どこまでも父親代わりの存在でしかなかった。
 母親の方は女手一つで彼らーー彼は二卵性双生児だったーーを育ててくれたが、小学一年の時に精神的な病を患い、一ヶ月ほど精神病院に入った。入院する直前に、母親が何度も死にたいと祖母に訴えていたり、入院当日に廊下のフロアーから飛び降りようと足を実に高く上げていた姿を彼は鮮明に覚えている。現在では随分体調もよくなったが、当時の記憶が強烈でどこか遠慮してしまうところがある。

 彼女は足下に積み上げられた教科書の一番上にある一枚の紙を見た。
 「わ、凄い!やっぱりレベルが違うね!」
 「あ…うん…」 
 
 別の彼女は坂の上から彼を呼んだ。
 「ドラえもーん」
 「あ…うん…」 

 彼は誰かを、それが叶わないのならば、せめて何かを愛したいと強く望んだ。しかし、彼には愛がどういうものかわからない。
 彼が愛しているのは祥子がつけていた強い香水の臭いだろうか?ーー違う、と首を横に振る。祥子の太股?ーー違う。祥子のハーフパンツ?ーー違う。では、典子の笑顔だろうか?ーー少し考えてまた首を横に振る。
 彼はそこでふと誰かに、いや、自分が愛している女性に抱きしめてほしいと思った。しかし、その当時の彼は具体的な女性の姿をイメージすることが出来なかった(少なくとも母親ではないようだ)。そして、当然のように涙も流れなかった。
 
 目が覚めたときにはもう真っ暗だった。カーテンのないすりガラスが一層その暗さを強調している。そして、今晩もまた配達に出ていかなければならないという事実をゆっくりと受け入れた。
 五月上旬から当面の生活費を稼ぐために始めたこのアルバイトも早くも半年が経とうとしていた。ただし、当面の生活費とは言うものの実際は生活費の四分の三は彼の双子の兄の稼ぎで、彼が稼いでいるのはせいぜい毎月の家賃を払える程度の額に過ぎない。しかし、そんな家賃程度の稼ぎしかない仕事でも月に一度の休刊日を除くとまったく休みがなく、学生時代に数ヶ月のアルバイト経験しかない彼には時間にして高々三時間とはいえなかなか堪えるものだった。

 初めの頃はとにかく毎日が新鮮であった。まず、これまで日が暮れるとよっぽどのことがない限り表に出ることのなかった彼にとって毎晩二時半に家を出ることはただそれだけでわくわくするもので、初めてくっきりとした満月やぎらぎらとした星を目にした際には似合わず感動したりもした。
 また、毎日三時間の自転車による移動は、中学時代、週末になると二つ隣の市の軟式野球チームの練習に参加するため自転車で一時間半ほどかけて通っていた頃のことを彼に思い出させ、結果彼は幾分か若返ったような感覚を持つことが出来た。自転車に乗りながら気持ちよく歌った鼻歌や坂道を下る際に感じることの出来た気持ちのよい風を配達途中に感じることが出来た。

 しかし、十月になり、配達中に陽が昇ることもすっかりなくなり、目が覚めてからしばらくして買い物に出掛ける頃にはすっかり陽も落ちるようになると次第に彼の気分も滅入るようになってきた。
 配達途中に意味もなく悲しくなることは日常茶飯事で、それに呼応するかのように彼の身体や彼の乗る自転車も意味もなく重たくなった。
 
 今晩の予報は久方ぶりの雨である。
 その予報だけで彼の気分はさらに重たく悲しいものになった。


 杏ゝ颯太