凡例1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録“ Imagination et Invention ” (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(53‐57p)である。2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
諸対象の変身が超自然的な力の符号を要求する変身であるとき、おとぎ話への接近はときによって超自然的なもののニュアンスを帯びる。その場合、生成する対象、姿形、現実、死体や生物の変換が実行される。このような自然の変化は、人間存在がただ願い待ちわびることを実現しようとすると、超自然的な力を呼び出すかのように現れる人間的感情の運動を引き伸ばし増幅させる。極端な期待の後に到来するものこそ奇跡である。例えば《喪ってしまった我が子への愛のために、童貞マリアを目指す少女についての》伝説。ここでは、最も強い人間的感情である母性愛が、障壁を飛び越えて奇跡を呼ぶ。また、死んで既に冷たくなったマラの子供が、ヴィオレーヌが乳を飲ませると変身しながら息を吹き返す、クローデルの『マリアへのお告げ』にも言及することができる。ここでの奇跡はひとつではない。というのも、ハンセン病にかかって孤独で見捨てられた若い娘が、子供に乳を与える母へ、そして忠実に彼女を愛したピエール・ド・クラオンの精神的な妻へと変身することでもあるからだ。より単純に、しかし同じくらい一般化していえば、伝説は増幅したものと名づけれる変身において超自然的なものの現前を支えている。なにもないそこで、なにかが顕現し、枯渇していたものが若返り、死体が生体へ蘇る余地が残される。例えば、小樽の水一滴を汲むことのできなかった「樽の騎士」は、悲しみで心が裂けんばかりになり、過ぎ去った誤ちを想起して涙する。涙が小樽の開いた栓口に落ちると、すぐにその涙が溢れ出し迸る。すると小樽があふれて清らかな水の小川を生み出した。ペニアを経て、ポロスは、ペニアの過剰そのものから到来するのだ。このようなことは、乾燥して節の多い「巡礼者の杖」が、葉や花が生じて、生命ある木に再び生成する聖人伝説にもある。変身において、超自然的なものの現前は不可逆性から解放された不可逆なもの、そして不可逆性を見出す生命をもはやもたないものを認める。これによって、聖なるものとは不可逆的な流れを逆転させるものであり、取り返しのつかないものirrémédiableはもう存在しなくなる。例えば夜中小さな子供三人を殺した屠殺者の家に訪れた聖ニコラが、子供たちがもたれかかっている塩づけ壺の淵に手を置くと、子供たちは生き返る。超自然的なもののおかげで、後悔と呵責regret et remordsは贖うことrepentirに変質することができる。なぜなら、どんな個別の行動であれ許されざるものを《もう決してjamais plus》創り出さないことを通じて、未来のその無制限的な次元と開かれた方向が新しく存在するからだ。この意味で、未来と畏れに従って考えられた予測としての可能性の一貫したイメージは哲学で《道徳的生命》と名づけられたもの、もし義務として認められたものと同じくらい本質的な役割を演じないならばと自問する生命に介入する。ベルクソンはこの道徳的生命に開かれた必然性に深く受け止め、義務を「推力vis a tergo」に、つまりは主体に発揮される社会的圧力という諸原因の秩序に従った決定的必然的な力につなぐにも関わらず、生命を運動の直観に結びつけるのだ。
(例えば恩寵、超自然的なものの増幅的力の介入によって、例えば生命と創造的進化の運動によって)生成が増幅器として理解されないとき、個体的ないしは集団的に向けられたような未来のイメージは諸限界に出会い、閉ざされた畏れを抱く。プラトン的神話において神官が《神はその責任を負わない》と告げて、魂が選択される生命のように、イメージは判断され予定prédéterminableされている。先行する生命のなかで被った欲望と苦痛だけに相関して、魂の大部分が戦士、暴君〔支配者〕、傲慢な者〔国民〕の身体に受肉される。
これら未来のイメージは、正に神が神責任を負わないのだから、創造的な〔完全に新しい〕要素を含みこまない。現実的に被り知覚した状況の複写でしかない。〈グレート・イヤー〉の果てに自らに回帰していく時間のサイクルという着想においては、理想の国のイメージそれ自体は完全に決定され制限されている。
おとぎ話に、つまりは超自然的なものに頼ることは、投影された時間における現実の要因、つまりは増幅的な力を発揮する未来の想像的予測への唯一の道筋ではない〔おとぎ話以外にもある〕。より慎ましく、人間個体における、運動的図式を実行し具体化させるところの温存させておいた世界を構築する生産的な諸力のなかにもある。例えば愛好家の仕事、つまりは、為すことの愛によって振舞う人間の仕事がそうだ。愛好精神の第一原理は集団的義務的な時間と場所、それと積み上げてきた情熱の舞台と対象とをを引き離す相対的な二分法である。けれどもしばしば、想像的世界の糸口は集団的義務的アクティヴィティーの緩い緊張の時々にもある。長年かけてオテリーヴに理想宮を作った郵便配達夫のシュヴァルは、巡回中に幻想的集合に組み立てられる独特な形をした石を発見した。もしそれらの石がもっと軽ければ、ずっと早くに集まっただろう。最も重いのはずっと後の方で手押し車を使って運び積んだ。ただただ長い年月をかけて働いたこの男は、自分の物語に従って、抱いてしまった夢を肉づけしていったのだ。このように創造された諸々の形の間にあって、多数のもの(とりわけ大きな立像の形)が《再生的想像力l'imagination reproductrice》のカテゴリーに属している。つまり、それらの形はシュヴァルが兵役の間に見ていたカンボジアの寺にインスピレーションを受けている。しかし、〔多数の石以外の〕他のものは、石の非-姿形的non-figuratifsな配置によって、運動的図式の輪郭の最重要の直観にのみ導かれる、前進するにつれて多様化する構築の身振りを増幅し増殖するその力を真に表現している。シュルレアリストたちが重要だと認めていたのは模倣の道筋の外で発揮される人間の想像力のその顕示だった。『アングルのヴァイオリン』と題された映画は、他の愛好家におけるこれと同種のアクティヴィティーの産物の別の例示である理想宮を紹介している。
同時代の産業社会societes industriellesにおける器用仕事bricolageの発達は、社会-経済的なある種の必然性(奉仕者の減少、いつも使う主な物のメンテナンス代や修理代の値上げ)に対応していないばかりか、脱中心化された住環境での複雑な施設の利用にも対応していない。個体にとってブリコラージュは、暇と自由の体制のなかで、道具や就業用具の不断の操作的自由さの組織化のようにも現れてくる。それは産業社会が捨てた暇の枠組みにおける、私利私欲のない栄誉ある職人aritisantの再設置réinstallation〔再インストール〕なのだ。例えば私的な仕事場atelierは国有地や領地の経済から独立した地域的生産の次元を回復させる。その仕事場のおかげで、労働者、給与生活者、従業員、公務員は、生産道具への直接的接近を見つけ出し、イメージの直観に従って最初の下書きから実現が具体的完成に至るまで、作品の集合の主人に成ることができるのだ。このように予測としての想像力にはもはや、現実から切り離す機能や、非現実的なものないしは虚構的なもの中で展開する機能はない。というのも、イメージを投影する主体が生産道具の所有者や必要な就業用具の保有者であるが故にこそ、想像力は実現の効果的アクティヴィティーの糸口となるからだ〔道具が主体の所有でない場合は糸口にならない〕。想像的なもののモード性とは潜在的なモード性である。つまり、もし個体が実現の諸条件〔例えば道具〕への接近を剥奪されていれば、想像的なものは非現実的なもののモード性に生成することはない。器用仕事用の装備の性格を細かく分析していくと、しばしば非-機能的な過剰さにまで推し進められる想像的直観に関連した製作操作の自由さの心配事に舞い戻ってくる。愛好家にとって機械とは、完璧なまでに互換的で、あらゆるタスク、あらゆる資材に適合的で、どんな電流の流れでも補給することができる……かのように、自発的かつ体系的に現れてくる。実際には、フレキシビリティーflexibilitéとは現実では多く見かけ上だけのことで、〔機械の〕自由の印象は見かけ上のことにすぎず、それか別のタスク用に機械設備の組み立てと組み合わせを変える必要がある時間の大きなロスで埋め合わされるのだ。このような設備は虚構的な利用の心配事に従ってというよりは、仮想的virtuelな利用の無制限的自由の感情に従って(即ち純粋な未来のパースぺクティヴにおける、心配事に従って)考えられていたように思われる。これら何にでも役立つ機械は長期的予測に従った完璧なる自由を抽象的に温存しているが、続いて利用の様々な操作の非-同時性を、つまりは実行のタスクの内部-知覚的組織化を性格づける現在時における短期的予測と適合を妨げるものを要求している。仮想性の修辞学〔美辞麗句〕は部分的には、フリードマンの表現に従えば《細分化された労働travail en miettes》における、日常生活のタスクの細分的性格や自律の欠如、強制的規則性などの埋め合わせのモードのようにして生まれる、器用仕事のアクティヴィティーの特徴的な想像的予測の指標である。注意していいのは、裕福な階級の重要な参加を伴う、より高い経済的水準にある、アメリカ合衆国のような社会におけるアクティヴィティーのその種類の発達の重要性だ。これは貧しい階級の《不法労働travail noir》と《雑用係favtotum》の職の名残とに直接の関係がない。構想と実現が独立〔分離〕しており、「雑用係」は喫緊の偶然事に従って、計画によって準備されたのではない予見不能な要求に応答せねばならない。
要約すれば、運動的予測としてのイメージは、対象の増幅的変身をもたらしながら文化的文脈に従って広がっていく。例えば現実的なもの光輝を増すところの背景において、主体の代わりとして別のものが振舞う想像的世界への同一化によって。また例えばおとぎ話や超自然的なものに頼ることによって。そして最後に暇状態で就業用具を用いた真の行動を通じて。けれども、そのどんな場合でも、「アプリオリ」なイメージとしての予測の効果は主体のなかに位置づけられた唯一の起源に由来する増幅的増殖である。つまりこの増殖は未来における道筋と形態を増やすのだ。これは存在することの差異化と追加を含みこんだ成長、成熟、発達と類似している。予測は主体の現在時の潜在性potentialitésの増幅的投影を未来に向けて行うのだ。
【訳註】
・クローデルの『マリアへのお告げ』――中世風奇跡劇。らい病と奇跡が二本の筋となって話は展開。ヴィオレーヌが、ハンセン病者のピエールに憐みの接吻をして自ら病み、それを神の召命(ヴォケーション)として受容し、出家して孤独な成聖の生涯を送る。
・「樽の騎士」――フランスの騎士物語(?)。不敬虔な騎士が隠者の家を訪れる。隠者が小川の水を樽に汲んできてくれと頼むが、騎士は何度やっても水がすり抜けて失敗してしまう。最終的に罪を悔いて騎士が死ぬ話。
・「巡礼者の杖」――les batons de pelerin。詳細不明。
・不可逆なもの――原語はirréversible。しかし、文脈からすれば「可逆的なものréversible」とすべきではないか。
・聖ニコラ――ミラのニコラオス。サンタクロースの原形になったといわれている。七人の子供を殺して七年間塩漬けにしていた悪い肉屋を訪れ、子供達を生き返らせたという伝承もある。
・ベルクソン――フランスの哲学者(Henri-Louis Bergson, 1859-1941)。主著『創造的進化』において生命の進化を押し進める根源的な力として「生命の飛躍」(élan vital)の仮説を想定した。道徳と社会の関係を考察した『宗教と道徳の二源泉』では、生命の躍動する力を道徳の根底におき、「生命の飛躍」から「愛の飛躍」へ、「閉じた道徳」から「開いた道徳」への移行が主張されている。
・プラトン的神話――プラトンが『国家論』で展開した議論。身体が死ぬと、魂は天界で上り、転生のチャンスに際して、次の生涯を決定するクジを自分の責任で引く。プラトンによると、人間の魂は知性、気概、欲望でできており、これはポリスにおける支配者、戦士、市民に対応している。・グレート・イヤー――la Grande Année。天文学の用語。地球の軸が公転するときに生じるずれ(歳差)が元へ戻る周期の約25800年を指す。占星術で重要な概念とされた。・郵便配達夫のシュヴァル――1879年から33年間かけて郵便配達夫のシュヴァルは、自力で巨大な城塞を建設した。ポストカードの絵で空想を膨らましていた彼は、仕事中転びそうになり、その石をきっかけに石収集を趣味にし、やがて孤独な建築作業を初めていく。
・再生的想像力――カントにとって想像力とは感性と悟性を媒介する「共通の根」であったが、これは積極的なものと消極的なものとに区別できる。前者が産出的想像力であり後者が再生的想像力。再生的想像力は対象の現前なしの表象、経験の再生を可能にする。
・『アングルのヴァイオリン』――1939年に発表されたジャック・ベルナール・ブルニウスのショート・フィルム。・細分化された労働――技術文明を論じたフランスの社会学者ジョルジュ・フリードマンGeorges Friedmannの著者名『細分化された労働』。