凡例  

1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録“ Imagination et Invention ”(Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(50-53p)である。 
2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。
3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
 


4、混合的状態での予測のイメージ――混合的予測のカテゴリーとしてのおとぎ話

 増幅的投影はいつも予測的なイメージの作品に現れる。例えば超越化した畏れにおいては、遠ざかるために間を開ける身振りの遠心的指揮が伴い、〔他方で〕希望に従えば一新することの予測が特徴的な宗派や通過儀礼的コミュニケーションの直接の探求を伴うだろう。疎外に通じる二重化は通過儀礼に入ることと反対のことだ。

 しかし、とりわけて宗教的なイメージによく見れる、これら純粋なケースは、稀なものだ。畏れと希望とが様々な比率で混ざり合う、期待の状態の〔否定的と肯定的の〕混合的mixteなケースこそ頻発する。プラトン曰く、愛とは、ポロスとぺニア(豊穣と欠乏)の息子である。それは、混じり合った畏れと希望の息子でもある。その場合、増幅的投影は存在し続けるが、投影は偶像に生成する二重化されたイメージが超越論的なものを措定する外部への運動という排他的方向を持たないし、直接的な「イマココ」における誕生世界に従った内的参加の運動もない。一方は超越に向かい、他方は内在に向かう、この二つの運動の衝突によって、真の超越のイメージと主体と関連した内在のイメージとの間の中間的な隔たりに投影された、イメージの不動化のようなものが生じる。すなわち、私たち自身と地平の間にいつもある虹のように動かない、極端な隔たり〔超越〕と完璧なる近さ〔内在〕の間に浮かぶ予測のイメージ群の想像的世界が構成されているのだ。ここで問題になっているのは、文化や情報伝達のいくつかの現象を特徴づけるためにエドガール・モランが使用した表現に従えば、《第三の現実trierce réalité》である。

 この第三の現実の例示は王子、芸術家、女優の今日的おとぎ話によって提供されている。これら登場人物たちは、最高の要職ではないけれども、最高の要職を取り囲んで、彼らと商売する。取り巻きではあるが君主ではない。取り巻きは町に向かい日常性に接近する、つまり中途で留まる仲介に向かう。今日的おとぎ話のヴェールを織るためには、王女は王妃より優れている。なぜならば、王女たちは任命されていないが、遠ざかっているわけでもなく、とりわけ潜在的であるがために、王妃に生成することができるからだ。おとぎ話への参加は、出版(とりわけ週刊の大判グラビア印刷のもの)、ラジオ放送やテレビによって可能になる。これら手段は基底の現実と主体との間に浮かぶ中間的〔=媒介的〕intermédiaireなスクリーンを正しく構成する。これらスクリーンに接近する時とは、諸状況の現在時での拘束、それと放心状態や旅の間の中間的カテゴリーの一部をなす暇な時である。

 注意すべきはその中間的世界への参加は、おとぎ話の登場人物たちが、私たちの人生と比較的共通した事情のなかで、描写され、グラビア印刷され、撮影されるという事実によって可能になるということだ。これは主体の接近の結果として生じる。ただし、その登場人物たちは、誕生や所属や甚だしい富や宇宙的な隔たりに由来する、接近できず高級で遠い世界に、帰属appartenanceの記号を持ってくる。中間的世界としての歴史的なおとぎ話への参加も同じ仕方で、つまりは最高級の歴史的人物の存在の日常的アスペクトを描写することで確立される。王の愛情や《歴史こぼれ話petiite histoire》の年代記などだ。

 おとぎ話の中間的世界における欲望の吐露は現実的なものの地平の貧困と相関的である。つまり日常生活で抱かれた諸限界から生じるおとぎ話に頼ることは、社会に統合されている、動機づけの一部であるその現実的な生を剥奪する効果をもたらす。おとぎ話に頼ることは、限界づけられ決定づけられたかのように受け止められた自身の条件を見、自分を変化させるse transformer大きな希望をもたない主婦やタイピストの存在よろしく、強力な制限と状況ないしタスクの単調さの存在に訳される。小説は長いあいだ逃避の力として想像力のアクティヴィティーの支持体たりえた。主人公の身振りに参加することで個人的な力の想像的発揮を実行していた。とりわけて、連載小説の形になると、挿話のあいだに創られたサスペンスによって期待と予測の状態を極めて直接的に養うことになる。ここで本質的である、この一時的なモード性は、余りに早くに結末がバレてしまったときに介入する興味の喪失が説明してくれている。小説の終りを経た期待の状態が保存されていると、19世紀の小説にみられたような、多数の続きや、挿話の無制限的な連鎖が呼び起こされる。

 期待状態のひとつひとつはそれに対応したおとぎ話を呼び起こす。例えばシンデレラCendrillonは王子を夢見る。彼女は戦いの脅迫の混乱の中心で、また不安と危険のさ中で、正確な原因がクリアされて超自然的なものの支えが自分に授かるはずの明快で華々しい大きな戦闘のことを考えている、軍人たちである。おとぎ話の特性は生きられた現実的なものの特性の複写contretypeなのだ。

 別のケースでは、現実的なものと関連する想像的なものの補足的アスペクトが、主人公(主体の参加を可能にする者)の行動の二重化のなかで描かれる代わりに、対象に宿る。まるで「黄金時代」、或いはコントや神話のなかにあるかのように、期待を負い欲望の機会の担う対象が、変身の力を受け取る。実際、〔おとぎ話において〕動物はしばしば、大きな愛や勇気、ときには真の犠牲でもって罪を贖い救われなければならない、失寵した人間存在である。その未来への鍵は、外見は卑しいが姿を変えることのできるtransfigurable対象へと向かう、欲望の現在時の状態の強度のなかにある。ヒキガエルは王子に戻れるが、それには彼をベッドにおく勇気をもつ者が必要だ。『青い鳥』でも王子は天命により動物の状態に拘束されている。対象が変身しないこともあるが、その場合は死に隣接した状態におかれ、欲望の強度だけが彼に生命を戻す。糸巻棒によって怪我をした、『眠れる森の美女』は、なるほど血色の良さを保ってはいたが、彼女は幽霊が出ると言われ、人食い鬼が住み着いている言われている茨と藪に囲まれた塔のなかにいる。すべての大木、茨、藪が身を開き、王子が通り抜きたときにまた閉じるようになるには、《全身が炎》と感じられるほどの王子の熱情が必要だ。甚だしい欲望が出現し変化する対象に投影される。待っていた王女は、《あなたが私の王子様?》、《ずいぶんお待たせしてしまいました》と彼に言う。

 変身可能な対象と、欲望や畏れを負う期待の支持体と、変身を受け付けないが別の現実の「類似analogon」は残っている対象-象徴との間にある重要な差異を明確にしなければならない。シンデレラが失くした(クロテンの)毛皮の部屋履きは「類似」であり、若い娘を見つけ出すことを可能にする象徴だ。ペローの別のコント、『抜け目ない王女』のなかでは、フィネット、のんびり屋、そしてお喋り好きのガラスの糸巻棒はその処女性の「類似」である。フィネットだけはその糸巻棒に触れないでいる。王子が菓子のなかに見つけた『ロバの皮』の黄金の指輪もまた、みなが軽蔑する下女のなかから、真実の王女を見つけ出すことを可能にさせる「類似」の役目を演じている。この後者のコントでは、期待によって欲望が激化すると同時に、指輪-象徴は下女が王女に変身する糸口として役立っている。都会の上流階級から田舎の下級階級へと進みながら、最後には七面鳥の世話係さえ来させなければならず、指輪はもう既に国のすべての女性にむなしくも試されていた。諸対象間に存在する、予測のカテゴリーに従った象徴的結びつきは、二つの現実〔実在〕の間の知覚的交流の表現ではない。つまり下履きや指輪は知覚的に欲望された女性と結ばれているわけではない。対象-象徴は、象徴化された対象と同じ欲望と畏れを、小型に、呼び起こすから、下履きや指輪は類似analogieを基礎づける生成の諸モードなのだ。例えば、黄金やダイアモンドの指輪は貴重であり、なくなることがある。指輪試しのさいに、煤で汚れた着物と頬の下に隠されていたロバの皮が脱げ、白いドレスの輝かしさのなかで〔王女という正体が〕明かされるように、指輪は小麦粉のなかに隠されており、突然発見されることになる。ガラスの糸巻棒が処女性の象徴なのは容易に元に戻らない仕方で壊れるからだ。知覚的象徴は精神分析も研究していたが、おとぎ話の象徴は知覚ではなく、行動のカテゴリーを巻き込んだ前-知覚的な予測的生成の諸モードの次元に従って存在している。



【訳註】

プラトン曰く、愛とは、ポロスとぺニア(豊穣と欠乏)の息子である――『饗宴』において議論されたエロス論。
エドガール・モラン――Edgar Morin(1921-)は、フランスの哲学者・社会学者。諸学問の境界を横断する超領域性で知られている。主著に『人問と死』(L'Homme et la mort)、『方法』(全六巻、La Méthode)、『自己批判』(Autocritique)など。
黄金時代――ギリシャ神話において、神と人間が共生できていたクロノス統治の絶頂期の時代。クロノスとゼウスが取って代わると白銀時代、青銅時代が始まる。
『青い鳥』――オーノワ夫人が書いた「フランス妖精物語」中の「ロゼット姫」。継母にいじめられていた王女と青い鳥に姿を変えられたシャルマン王の不思議な結婚騒動。以下で分析されるおとぎ話は、有名なシンデレラ物語の様々なヴァージョンである。
『眠れる森の美女』――元はヨーロッパの古い民話・童話。魔女に死の予言を受けた王女を助け出すため、魔法で茨に囲まれた城から眠り続けた王女を助け出す物語。
『抜け目ない王女』――ペロー版『シンデレラ』。オーノワ夫人では『サンドリオン・フィネット』。継母や継姉のいじめに耐えて、靴を手がかりに王子と結婚する女性の物語。
『ロバの皮』――王に求婚された王女が、城を抜け出し、ロバの皮を身につけて身分を隠して働く。指輪を手がかりにある国の王子と結婚するに至る。