凡例  

1:この翻訳はジルベール・シモンドン(Girbert Simondon)が1965年から1966年まで行った講義の記録“ Imagination et Invention ” (Les Editions de la Transparence, 2008)の部分訳(46‐48p)である。 
2:イタリック体の文章は「」に置き換えた。書物題名は『』、強調や引用を示す《》はそのまま用い、文中の大文字表記は〈〉に替えた。〔〕は訳者による注記である。
3:訳文中の青文字は訳注が末尾についた語や表現を指し、灰文字は訳者が自信なく訳した箇所を指している。また、太字強調は訳者の判断でつけたもので、著者によるものではない。
 


2、畏れのイメージの独自のアスペクト――二重化

 否定的な期待、つまり畏れには、イメージの組織化の独自のモードがある。これは批判的精神と共に、人類から畏れの効果、つまり引き起こされたり生じて誇張されたりするイメージを取り除く手段を、哲学的思考に編み出すことを願っていたルクレティウスによって研究され叙述された。ルクレティウスに従えば、人間に襲いかかる根元的な畏れは死の畏れである。例えば病気や貧困といった、副次的な畏れはすべて、死の脅威を前にした反応の歪んで小さくなったアスペクトでしかない。想像力のこの効果において、死の畏れの本質的性格は、人間が自らを二重化〔分身〕se dédoubleすることにある。つまりは、死んだ友を見るときに少し似てるが、自分自身の死体に側に立ち、自分自身であるその惨めな死について嘆き悲しむ姿を見るということだ。その死体たらん時、にも関わらず、意識と感受性が維持されているだろう時があるということを仮定すると、この想像的幻影的な二重化は予測によって大きな苦悩を感じるようになる。人間が死んで、それを構成していた原子(分子)が拡散するとき、ルクレティウスは厳格な原子論的唯物論を用いて、二重化と闘い、二重化に抗った。つまり、身体という包みのなかに含まれている軽い原子の結集の形でしか存在しない魂は拡散して、意識はもうなくなる。存在しなくなった生物の合成物を作ってきた結びつきの諸力は、決してその合成物を存続させずに要素は誕生以前と同じく死以後も拡散される。以後の虚無と以前の虚無とは完全に類似的だ。誕生以前を、私たちは感じないし意識もしないだろう。死以後を、私たちは感じないし意識もしないだろう。しかしこれでも畏れによって刺激された想像力の幻影の叙述には十分ではない。闘うためには二重化の効果を分析する必要もあるのだ。

 恐怖に襲われたとき、動物は、自分の恐怖を逃走の反応に使い切る。嵐や雷雨といった、危険が全方位的であるとき、人間は先んじて逃走の無益さを知る。物理的世界のなかで避難できる場所の一切を奪われた人間は、より強力な存在に対する超越的な頼りを発明する。つまり懇願できるように、神々のイメージが鍛えられるのだ。実際、人間が自分に類似しつつもより強力な存在を自分の外部に置きながら二重化を行うことは、イメージそのものに由来してもいる。不幸なのは、危険を経て、二重化し、実現し、具現化したイメージが残存し、天の頂きにいる人間を脅かすことだ。イピゲネイアの生贄のように、イメージの憤怒を鎮めるためには、それを崇拝し讃えて、恥ずべき血にまみれた罪深い生贄を差し出す必要がある。結局、一時的に畏れを和らげることのできたその二重化によってこそ、人間は自らの自由を喪失したのだ。のちにフォイエルバッハによって用いられる表現を使えば、人間は自己疎外されている。実現して儀礼化したそのイメージ、イメージをそこで結び直す儀式に結ばれた迷信的畏れが宗教である。(ホラティウスにおいて用いられた)ルクレティウスの分析は、現実的なものと人間の生命とから引き出してきたイメージの集合のような超自然的なものを見させ、続いて、懇願の振る舞いの支持体、畏れによって人間が導かれるところの生贄や儀式の目的に役立つように、イメージは幻影的に膨れ上がり分離される。
 
 とりわけ恋愛の情熱のなかで、人間から自由を奪うイメージの威信や幻影を伴う、想像力の力と闘うための方法を、ルクレティウスは副次的な仕方で提示している。つまり、自然の客観的表象を介して、ひとつの情熱の医学が姿をみせ始めるのだ。エピキュリアンの知恵は、情熱の限界だけでなく慎ましい現実的欲求(苦痛を避けることと自然的で必要最低限の欲求を満たすことで十分)の正確な認識を個体に与えようとした。エピキュリアンの知恵は、現在時をアクチュアルに与えられていないすべてのものの探求に投じるために、永続的に予測して人間を現在時から引き剥がす想像力の諸力を用いて、食い尽くされることがないようにしながら、現在時に完全無欠さを与えることで成立している、といえる。現在時の限界で休息し続ける代わりに、人間は海を駆けめぐり、権力を奪おうと試み、富を欲し、そしてその富のみを乱費する。生きていくには時間が足らない。想像力とは現在時から引き剥がす力であり、平穏無事ataraxieの状態での休息を妨げ、予測された未来やアクチュアルな感覚のない諸現実を引っ張ってくる力のことだ。想像力は目の前の状況に対して異邦の人にさせる力をもち、現実的に彼に与えられたものに対してまるでなかったものであったかのように無関心にさせる。アクチュアルという用語は、少くとも最近では、イメージが感覚を変化させ、感覚を歪めdénature、現在時の力を減少させ、知恵を基礎づけることを意味している。

 予測の力としてのイメージと闘うために、結果的にルクレティウスはイメージを性格づける投影の効果へと導かれた。しかし、二重化はとりわけて畏れを含む否定的期待の状態に結ばれているようにみえる。つまり、イメージが表現しているにも関わらず主体から切り離された、イメージの目立った独立性は、主体が主体そのものと二重化によって置かれた現実との間に創出した障壁に対応している。畏れのなかで、主体は割り振られた能力で築いた、一種の濠をめぐらせた陣地camp retranchéたる内部を好むようになる。未来は外部にあるから異邦的なものなのだ。障壁の出現は防御や排出の運動の結果であるために、世界は内部と外部とに二分される。脅迫的な諸現実に対して闘うために想像された神々そのものは、その防御的障壁の彼方であるために、主体のアクチュアルな人間的秩序にとって異邦なものである。出発点にあるのは、遠いものと近いものを切り離し、近い現実を維持するために防御を設け、より強力な神という形になった自分自身の密使を派遣するため、また外の陣地での脅迫的な逆境と闘うために、いくつかの仕方で二重化する防御的身振りである。主体が濠をめぐらせた陣地の外へと、主体の現実を少しだけ持っている他なる自己une autre moiを派遣すると、そこで疎外の出発点、実際のところ、二元化duallisationが創られるのだ。
 

【訳註】
 
ルクレティウス――過去訳註参照
イピゲネイアの生贄――イピゲネイアはギリシア神話に登場するミュケナイの王女。父アガメムノンによって女神アルテミスの生贄に捧げられた。
エピキュリアン――古代ギリシャの哲学者であるエピクロスの思想を継承する者。エピクロスは肉体的=物質的な快楽主義を退け、精神的=禁欲的な快楽主義を掲げる。具体的には自然で必要な欲求(友情、健康、食事、衣服、住居)の追求だけが幸福である主張した。最終目標はアタラクシア(刹那的でも享楽的でもない 精神的に落ち着いて心が安らいでいる状態)。