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↑『赤松啓介民俗学選集』第五巻、岩田重則編、明石書店、2000。

 赤松啓介(1909-2000)。民俗学者。本名は栗山一夫。「夜這い」の研究で有名。柳田民俗学の「常民」概念に対抗した「非常民」をキーワードに、差別や性に関する村落共同体の習慣を独自のフィールドワークを頼りにして探究した。主著は『非常民の民族文化』(明石書店、1986)、『夜這いの民俗学』(明石書店、1994)。その他多数。


◎赤松啓介略年譜

1909年 兵庫県にて誕生。
1915年 神戸市への転居
1926年 大阪へ出て商業学校・工業学校などに通う。独学で得た知識をもとに遺跡調査を始め、帝塚山古墳を発見、京都帝国大学の浜田清陵に報告する。これが縁で東京人類学会に入会。
1929年 小学校准教員検定試験に合格。郵便局の通信事務員として勤務。
1930年 初めての活字調査報告「下里村の民潭」を『旅と伝説』に発表。
1931年 プロレタリア科学研究所、日本戦闘的無神論者同盟に入会。
1933年 3月、検挙される。翌年から自転車での行商を続ける傍ら、民俗学・考古学の本格的論考を次々と発表していく。
1936年 民間伝承の会に入会。処女出版『東洋古代史講話』(白揚社)。
1941年 治安維持法違反により、懲役2年の刑が下る。
1948年 『天皇制起源神話の研究』(美知書林)。
1949年 民主主義科学社協会神戸支部局長になる。2月、石井澤枝と結婚。翌年、長女の啓子が生れる。生活苦に陥る。
1950年 『結婚と恋愛の歴史』(三一書房)。
1956年 『一揆 兵庫県百姓騒擾史』(庶民評論社)。
1958年 神戸市編集委員になる。
1968年 神戸市埋蔵文化財調査嘱託。関西地方に地方による自主的学習サークルどんぐり会の講師を務める。
1980年 『神戸財界開拓者伝』(太陽出版)。
1986年 『非常民の民族文化』(明石書店)を刊行。大きな反響を呼ぶ。
1991年 『非常民の性民族』(明石書店)。
1994年 『夜這いの民俗学』と『夜這いの性愛論』(明石書店)。
1997年 『赤松啓介民俗学選集』(岩田重則編、明石書店、全七巻)が刊行開始。 
2000年 3月26日、肺炎のため死去。
 


・エロ民俗学のススメ

 私のなかでは吉野裕子南方熊楠、そして今回のエントリによって、エロ民俗学三部作が完成することになる。社会学者の上野千鶴子によって「下半身の民俗学者」(『猥談』、現代書館、1995)とあだ名された男こそ、今回とりあげる赤松啓介である。

 日本民俗学の大ボスである柳田国男が性の問題を無視してきたことは、吉野裕子のエントリのときに述べたが、正規の民俗学の対象から外されてしまった性の営みの数々、とりわけ「夜這い」を収集することで、反柳田民俗学を打ち立てたのが赤松の大きな功績である。赤松は柳田のキーワード「常民」に対抗して「非常民」という言葉を作って、マージナルな領域に宿る人間の生の本質を強く主張した。



「いわゆる民衆、市民、常民といわれるような階層の他に、その底、あるいはそのまだ底、その下の底などにも、いくつも人間集団があり、かれらがどのような生活意識をもち、どのような生活民俗を育ててきたか。その極めて概要を説明してみたいと思ったのが、「非常民の民俗文化」である」(『非常民の民俗文化』、ちくま学芸文庫、2006、15p、以下特に断りのない頁数はこの書物からの引用)
 


 「民衆、市民、常民、ありゃなんじゃ。どこにも実体のない、われわれの共同幻想だ」(13p)と、吉本隆明タームを用いて「非常民」の現実を語る赤松の文体は、ときに乱暴な口語を織り交ぜつつ、極めてパワフルに展開していく。アカデミックな文体からは程遠いが、「非常民」を語るには、洗練された上品なお行儀のよい語り口よりもずっと効果的なのかもしれない。


・流動性の高さ

 小学校時代の赤松は「当時の用語で言う低能児」(「わが心の自叙伝」=『赤松啓介民俗学選集』第五巻収、331p)で、学校の勉強はカラキシであった。しかし、不思議と記憶力には自信があり、立川文庫(講談や戦記、史伝などの子供向け文庫)を読破して、中学校には行けずとも、勝手気ままな勉強をやろうと独り決める。



「学校の成績は良くなかったが、自分でも記憶力が抜群であると信じていたので、好きな勉強を気ままにやろうと思ったのである。しかし高等小学校を卒業してみると、遊んでいるわけにもいかず、五郎池にあった株式取引所の証券屋へ給仕で入った。どうにも株屋は性に合わず、一ヶ月足らずでケツを割り、世話する人があって大阪の果物屋へ丁稚奉公に出る。小店の丁稚奉公だから勉強もできず、待遇もよくないし、そのうち友人もできて、あちら、こちらと移り歩いた」(279p)
 


 最近の若者は三年で仕事を辞めるとか何とか言ってる場合じゃない。赤松の年表を一覧していて気づくのは、その流動性の高さである。夜間商業学校に入学するが面白くなく、昼の工業学校へ転校するが、これもつまらず退学。商店員をやったり、祭りや縁日で瀬戸物を売ったり、零細工場の職工となったりして小学校教員検定試験を目指す。検定はとれたが、当時の月給が大したことなかったので教員にはならなかった。そのあとに郵便局吏員となる。

 このような多彩な経験が後に「非常民」民俗学にとって大いに活かされることになる。1926年には、古墳を発掘し、京都帝国大学の浜田清陵に調査報告をしたことをきっかけに浜田から考古学を学び、彼の勧めで東京人類学会に入会している。


・「夜這い」論の基礎

 そんな独学の日々のなかで、赤松は歴史学者の喜田貞吉(1871-1939)の個人誌『民族と歴史』に出会う。ここから民俗学――当時の言葉遣いでいうところの「土俗学」――への興味を掻き立てられた赤松は独自に民俗採集することにした。これが後年に赤松の代表的な仕事である「夜這い」研究の基礎を作る。



「十七になっていたが若く見えて、十五くらいより見てくれず、女たち、とくに嬶どもにはだいぶんなぶられている。民謡を聞かせてやるから酒一升はずめというのでおごると、夜這いのきわどい唄ばかりで、どお、今晩、夜這いにおいで、ええこと教えたるかとからかわれた。しかし子供だと安心して、新婚の柿の木問答などの秘儀も教えてくれる。功罪ともにいろいろあったが、民俗学、考古学志向の地盤は作れた」(280p)
 


 赤松の夜這い論が世に出て一気に有名になるのが1986年のことだから、およそ60年越しに研究の労が報われたわけだ。無駄なようにみえても世の中、案外後々に役立つものである。

 しかし、注目したいのはそこではない。ポイントは、赤松の代名詞といってもいい「夜這い」論の実は彼の研究生活の最後期になって初めて世に知らされたということ。逆にいえば、赤松にはメディア受けする「夜這い」論に先立つ民俗学の蓄積と波乱な人生があった。波乱といえばとりわけ、戦前共産党での活動により検束された経験が挙がるだろう。


・丁稚から左翼へ

 赤松が左翼運動に参加し始めた根本的な動機づけには丁稚制度の撤廃という構造的な原因があった。



「大正十二、三年頃までは大阪の百貨店も下足制〔建物に入るさい、履物を預ける制度〕で、入口で履物を渡し、出口で受け取って帰った。スラム街など貧民階層は、預けられるような下足がないから、百貨店へは入れない。そんな〔江戸風な〕時代なので丁稚も縞の着物に角帯で応対するし、女店員も和服で上着を着ていた。しかし学歴は尋小卒が多く、漸く高小卒に変わりかけ、レジや事務は高小卒になっている。ところが昭和二、三年頃から大丸〔フロントリテイリンググループの百貨店の屋号〕が高女卒を採用するようになり、またたく間に高小卒を追い出して、完全に洋装姿に変わってしまった。男の方も高小卒を主として丁稚に採用して養成していたのを、中等学校卒の「学校出」を採用し訓練するようになる。そうなるとたちまちのうちに寄宿舎収容が廃止され、自宅から通勤させることになり、呉服など特殊な売場を除いて背広の洋服姿に変わった」(299p)
 


 労働が近代化されるにつれて、古き良き(?)徒弟制度や丁稚制度は危機に瀕す。コミュニティ・レヴェルの学びは学歴をの母体となる学校という教育制度に取って代わる。「古い呉服屋の垢を削り落とし、近代的な百貨店、デパートメントストアに進化した」(299p)。この過程で、例えば年季奉公の習慣は廃れ、月給制となって共同体がアトム的に個体化していく。

 百貨店だけではない。この流れは工場労働者や女工を生み出し、みなが賃労働に従事していく過程でもあった。これに同期して、「勤労者」という言葉もやたらに使われ始めた。それは工場主や商店主なども指し、労働者と資本家、小作人と地主といった階級対立的ワーディングを曖昧にさせる「極めて政治的意図の濃厚」(『差別の民俗学』、ちくま学芸文庫、2005、126p)な造語であった。



「そうした過程で私が職工となり、メーデーに参加し、争議に介入するようになったのは、正に歴史的必然というべきであろう」(299p)
 



・処女出版『東洋古代史講話』

 そんな中、1936年、すでに民俗学・考古学関係の論文を発表していた赤松は処女出版の機会を得る。『東洋古代史講話』である。発行所は左翼出版物ばかり出していた白揚社、発行部数は1000部である。



「本を出版するようになったのは、伊豆公夫、早川二郎などのすすめで白揚社の『歴史科学』に書いているうち、誰も東洋史を書くものがないので、一ぺん書いてみないかということであったと思う。東洋史関係では佐野袈裟美氏がいたのだが、同氏が入獄中でぼくが代打者に選ばれたというのだろう」(「『東洋古代史講話』の頃――私の処女出版記――」=『赤松啓介民俗学選集』第五巻収、244-245p)
 


 しかし処女作の喜びを十分に味わう余裕はなかったようだ。というのも、「入獄」の文字が暗示しているように、左翼出版活動は治安維持法の対象と当然なりやすく、その営みは余罪をひとつひとつ重ねていく作業でもあったからだ。



「『東洋古代史講話』は、日本の暗黒時代、ぼくの灰色の青春時代の思い出をのせている。嘘だと思うならあけてみたまえ、十分に気をつけたのだが、しかも諸処に……がある。つまり検閲で削除された部分だ。これが昭和十四年にはコミンテルンの、また日本共産党の目的達成を援助するためにした証拠になって、あしかけ五年まる四年の暗い生活を送る原因になった」(246p)
 



・インテリ教育者への不信

 「夜這い」論でのユニークな文体で語られる柳田派批判や近代主義批判といった、赤松のアンチ権威主義、学界への不信はこの辺りから形成される。つまり、危険と隣り合わせの研究生活からみたとき、非常時の時代に体制側へ容易に寝返るインテリは知を弄ぶ無節操、太鼓持ちと映るのだ。



「考古学、民俗学の巨匠、新進といった連中がほとんど軍事政権の強圧に屈伏し、日本精神文化だの、国民精神だのと太鼓を叩き始めたのだから、これまで声高に唱えていた自由主義だとか、科学性だとかは、弊履のごとく捨て去って恥としなかったといってよい。日本人、とくにインテリ(知識分子、いまの文化人)は信用できぬ野郎どもだと痛恨の思いをかみしめた。たとえ軽いものであろうと弾圧を受けて退却したり、降伏したのなら、まだわかる。そうではなくて体制の脅しに迎合して、自ら科学者としての節操を捨ててしまったのだから、もうどうしようもなかった」(『差別の民俗学』、120p)
 


 これは教育に対する不信とも結びつく。戦前の教育勅語的教育は、タテマエ論、ないしは人間の現実を無視した理想論でしかなく、さらには資本主義によって搾取の対象を制度化するメカニズムのひとつでしかないのだ、と。



「近親相姦はいかんとか、夜這いは弊風陋習だとかいって教育勅語を盾に弾圧した結果は、どうなったか。山奥の片田舎にまで銘酒屋、地獄屋を繁栄させて、酌婦、仲居、娼妓を激増させ、かえって花柳病の爆発的な流行を起こさせた。いわゆる教育勅語的性教育、つまり純潔教育というものは、実は売春産業を保護し、繁昌するほど巨額の税金が入った。夜這いを弾圧した真の目的は、国家財政にあったわけで、資本主義社会のオモテムキとホンネとのカラクリの一断面を見せつけている」(『差別の民俗学』、177p)
 


 村落内部で性交渉の循環をシステム化した夜這い習慣を肯定的に評価する赤松にとって、戦前の教育勅語的性教育も戦後の民主主義的性教育も欺瞞に満ちたものだ。性は教師や学者によって教わるものではない。自生的に立ち上げってくるシステムの秩序は童貞・処女のような性の悩みや性病といった諸問題を自然に解消する。このようなラディカルな知見が、援助交際の流行等によって性規範が問い質された90年代以降に大きな刺激を与えることになった。


・戦後の著作群

 1941年、検挙されたものの非転向を貫き通した赤松は求刑四年を突きつけられる。釈放後は神戸市兵庫港の町工場で企画係や工務係などを勤める。敗戦直後は、朝鮮高等学院や神戸民主政治学校の講師を一瞬やるが、長続きしなかった。職のない間は女房や実母によって食わせてもらっていたようだ。

 1951年、赤松は『天皇制起源神話の研究』を刊行する。これは天孫降臨神話(てんそんこうりんしんわ、神々が地上世界に初めて降り立った神話)は天皇家だけでなく、物部、中臣、大伴など有力な豪族たちももっていたことを明らかにする著作で、戦前なら即治安維持法か不敬罪で検挙対象になるような出版物だったが、戦後となりやっと堂々と公刊することができたものだった。1960年には『民謡風土記』(のぢぎく文庫)を出す。ぼかして書かざるをえなかったが、後の『夜這いの民俗学』に通じるような新婚初夜や夜這いの風習を紹介している。

 1982年、『神戸財界開拓者伝』(太陽出版)。「こんな著書があるとは、お釈迦さまでも知るめえ」(「反戦回想録」=『選集』第五巻収、518p)という隠れた赤松本で、80人近くの人物を選出した伝記風記事を集めたものだ。

 そうして、90年代になると、同じ民俗学者の大月隆寛(1959-)の評価をきっかけとして、「夜這い」論の諸々の著作がヒットし、大きくクローズアップされていった。上野千鶴子がいう「赤松ルネッサンス」である(「解説」、『夜這いの民俗学・夜這いの性愛論』、ちくま学芸文庫、2004、315p)。


・未来の母系複婚制

 赤松啓介という在野研究者が面白いのは、研究活動と政治運動とその(反)教育論とが固く結びついている部分だ。後期赤松は、フリーセックスの流行や夫婦交換(さらにはエイズやイジメ問題にまで!)といった現今の社会問題に触れて、単婚制から複婚制への以降を提唱していたが、それは資本主義の拒否として表象されている。



「彼らの愛情関係の新しい展開から、未来の複婚制への展望、女系社会の創出を見たように、かれらの経済的な慣行のなかから、いまの資本主義を否定し、新たな経済社会を建設するための、一つの基盤を見出すこともできたと思われる。それはいわゆる「カエシ」の思想であり、慣行であった」(411p)
 


 「カエシ」は単なる等価交換ではない。それはむしろマルセル・モース的な「贈与」の連鎖だ。結婚祝いをするとそのご祝儀としてポチ袋をあげたり、また農業生産に必要な手間や物資を互いに交換する「ユイ」の慣習、またスラム街での相互援助の在り方。「カエシ」は困ったときの助け合いを保証するセーフティネットであり、このネットワークを通じてコミュニティを更に強くしていく。



「われわれが当面している資本主義社会体制の中でも、お互いに労力や物資を相互交換(ユイ)したり、相互援助(カエシ)したり、また資金もあるとき払いのイットキ借りで融通し合うなど、農村や部落の低階層、都市のスラム街、町工場街、廉売市場街などに古い澱滓のように生きている民俗があるということが明らかである」(418-419p)
 


 私有から共有へ。複婚制の発想もここに基づいている。つまり単婚制は夫による妻(女性)の所有を絶対化しているが、戦前であれ戦後であれ、それは教育勅語的なタテマエ論でしかなく、人間の自然に基礎づけられていない。「男は女に、女は男に開かれた対象であり、性的交渉と選択の自由は保証」(419p)しなければならない。「子供は母系社会に扶養され、その父を問われることはないだろう」(419p)。

 左翼の科学主義や進歩主義とは明らかに異なるが、右翼的な保守主義や倫理思想には認められないラディカルな提案がここに結実している。或いは、この「母系社会」構想は、早くに父を失って母子家庭を経験し、行く先々で多くの女性たちと関係をもってきた赤松の実人生を色濃く反映しているのかもしれない。

 私は、赤松のいう「夜這い」がそれほどいいものだとは思わないが(本当に女性の人権を脅かさない形で営まれていたのか? 本当にみんな喜んでやっていたのか?)、彼の残した研究成果は単に興味深い資料という以上に、研究対象としての赤松啓介、その論を取り組んでみたいような知的刺激を与えてくれている一つの達成であると思う。



※このエントリは単行本『これからのエリック・ホッファーのために: 在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年) に加筆修正されたかたちで所収されたました。