承前)  

 前回の末尾に「短歌とは、沈黙の空間である。」と私は書きました。
 今回は、この一文で何を言わんとしていたのかを説明します。

 では、まずは空間から。

 仮に音楽というものが時間のなかにあるとするならば、短歌とは空間のなかにあります。一つの例を挙げてみましょう。ハルカトミユキのハルカさんは福島遥名義で歌集『空中で平泳ぎ』を出していますが、そのなかにこんな歌があります。


少年がころした蟻を(ねえ踏んじゃだめ!)弔ってゆうやけこやけ

(「小学生讃歌」) 
 

 一方、成立順序はわかりませんが、ハルカトミユキの『未成年』という曲の冒頭にはこんな歌詞があります。

あの子が殺した蟻を一人で弔って 夕焼けこやけの鐘が鳴る

 この二つの歌と歌詞は同じ場面だと考えられます。では、違いは何でしょうか?一目してわかるのは、短歌には(ねえ踏んじゃだめ!)という括弧書きがあるということです。

 この歌はどう黙読、あるいは音読すべきでしょうか?
 
《少年がころした蟻を(ねえ踏んじゃだめ!)弔ってゆうやけこやけ》
 
 と読めば良いのでしょうか。それとも、括弧はとりあえず無視して外し、

《少年がころした蟻をねえ踏んじゃだめ!弔ってゆうやけこやけ》

 と読めば良いのでしょうか。はっきりしません。

 ところで、これは書かれた言葉でもあります。ですので、必ずしも何らかのリズムを伴って読む必要はありません。リズムとしての音を一旦括弧に入れ、この歌を物質的なものとして捉えてみます。そのとき、この括弧付けされた箇所は一つのスペース、つまり空間を持っていると言えます。

 《少年がころした蟻を》と、《弔ってゆうやけこやけ》との間に存在する、(ねえ踏んじゃだめ!)という空間。

 もちろん、これは黙読であれ音読であれ読んだ時間のなかにもあると言えるかもしれませんが、しかしながら、短歌には指定された《このリズム》という制約は存在していません(「黙読」という言い方は適切ではなかったかもしれませんが、「どう黙読~」、あるいは、冒頭の「沈黙の」で示したかったことは以上のようなことです)。

 では、『未成年』の方はどうでしょうか?こちらには、(ねえ踏んじゃだめ!)という空間は存在していません。

 しかし、歌詞というテクストを一旦離れてから『未成年』という曲を聴いてみると、あることがわかります。それは、《あの子が殺した》と、《蟻を一人で弔って》との間に数秒の間(ま)があるということです。歌詞としてのそれは、《あの子が殺した蟻を一人で弔って》と書かれており、そこにはいかなる空間も設けられていません。ですので、この間(ま)は音楽という時間のなかにだけあるものなのです。

 そして、これはあくまでも私の感覚でしかありませんが、《あの子が殺した》という歌い出しのリズム(音楽と短歌とが決定的に異なるのは、音楽では歌い手によって歌詞の《このリズム》が提示されるということです)から推し量ると、その時間はちょうど《(ねえ踏んじゃだめ!)》分だけ確保されているのです。

 もしかすると、話が上手すぎる、たまたまそこに時間が生じただけではないか?そう思う方もいるかもしれません。しかしながら、二番ではこの間(ま)はありません。ですので、私は制作者によって意図的にこの時間は設けられたと判断しています。

 とりあえず、今回は音楽との比較から短歌の空間性を説明してみましたが、実はこれだけではありません。
 
 次回は、『空中で平泳ぎ』という歌集のタイトルから考えてみたいと思います。

 杏ゝ颯太