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【Suite Habana (March. 2006 / 2007】
"Buena Vista (H / Habana Libre)" Habana, Cuba



…実在する人々の人生の中の1日を通して映し出される、ある都市の24時間。

登場人物たちは、荒廃した国で希望を失わず生き延びる自分自身の日常をカメラの前で展開しています。偶然に選ばれたとはいえ、みんな同じように人生のゆがみを感じ、それでも、夢を手放さず、自分を再確認しながら、押しつぶされそうな現実を凌ぐ精神力を保とうと闘っているのです。

今や貧困と老朽化に支配されている美しい都市は、終わらない”偉大な夢”の酸に侵食された空間であり、そこでは、個人のささやかな夢で活路を開くしかありません。

《ハバナからの手紙》:マリオ・ピエドラ
初出:【永遠のハバナ】パンフレット 
 


◆ ピエドラのテクストをキーボードで入力しながら、久しぶりにフェルナンド・ペレス【永遠のハバナ】のサウンドトラックを聴いていた。この風変わりな映画を最初に観たのは、大学3年の長い春休みが終わった2005年4月の渋谷で、直前の3月は友人や彼女とずっとキューバ、というかハバナへ滞在していて、昼夜問わず歩き回っては音楽漬けになっていたのだった。

◆ ほとんど観客のいないミニシアターの小さなスクリーンに映し出されていたのは、社会主義という今や埋葬されたイデオローグを奉じるカリブ海の共和国、その首都で生きる市民たち、そして都市の24時間。

◆ 環境音以外の台詞やナレーションを排し、劇映画の手法を使って作り上げられた美しいドキュメントに現れたハバナは、日本で共有される粗雑なイメージ(陽気で楽天的な人々、貧しいがプライドを持った社会主義の国)とは全く異なったものであり、つい先日、わたし/たちが1万2千キロの彼方で(画面には映しだされることのなかった)彼彼女たちと暮らしながらほんの僅か共有した世界であり、目にしてきたものだった。

◆ 無論、当のキューバ人たるペレスが同胞たちとハバナに向ける視線の批評性、複雑な感情の襞は、閉ざされた彼らの日常へ無遠慮に入り込んだ単なる外部に過ぎないわたし/たち観光者とは大きく異なっているのだけれど、しかし同時に、かれの眼差しに強く共感する部分があったのも確かだった(東浩紀に依って、《弱いつながり》としての、と言ってもいい)。





◆ あれからもう9年以上の月日が経っている。わたし/たちは翌年の春休みもキューバに行き、また同じ居候先に陣取りながら音楽にまみれ、幻滅と歓喜のうちに3月の半分を過ごして帰国した。以後キューバを再訪したことはないが、いまもハバナの光景は異常に鮮烈なものとしてわたしを捉え続けている。

◆ わたしは底の浅いキューバン・ポップス・マニアではあるものの、ことある度にキューバを愛してやまないと公言するサルサやジャズのミュージシャン、ダンサーたちのような留学歴やキューバ人とのコネクションなどないし、反米反グローバリゼーションの希望を仮託する人々のような発想はむしろ激しく嫌悪しているし、さらにはスペイン語が喋れるわけでもラテンアメリカ文学の研究者でもなんでもないが、何ごとか表現しようとする人間の不可思議な執着とは、そういった状態からでも生まれ得るのだ。

◆ そんなわけで、わたしは大学に在籍していたあいだ当時の経験を元に300枚ほどの小説を2本書き、この春、震災を挟んで数年ごしでなんとか完成にこぎつけた短編でも彼の国をモチーフにしているのだけど、いまもイメージの参照先として、【永遠のハバナ】や自分がハバナで撮影してきた写真を見返すたび、結局わたしがこれまで書いてきたあれやこれやには、あの朽ちた都市が放つ名状し難い魅力が十分に、というか全然表せていないと感じてしまう。

◆ 必要なのはとってつけた虚構などではなく、ペレスの映像のようにイメージそのものであり、さらには提示するイメージを飛躍させるテクストなのだ。

◆ その気持ちは、今年の5月に河出書房から再販されたM.ウェルベックの小説、【ランサローテ島】を目にしてさらに強まった。初翻訳となった池澤夏樹編纂の世界文学全集版では、原書に付されたウエルベック撮影のランサローテ島写真が排されてしまったが、河出からの完全版はイメージの付与によってウエルベックの思考が遥かに強く伝わるものであり、作品から切り離すことはできないと感じられた。


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(左画像出典)Amazonリンク→http://www.amazon.co.jp/dp/4309206514
(右画像出典)→u-lit Literatur Magazin


◆ 前置きが妙に長くなってしまったのだけど、今エントリから開始されるこの新しい写真とテクストのシリーズは、ウエルベックの本のように、ペレスの映像のごとく、わたしの視た/記録、撮影したハバナを複合的に記述しようという大それた試みを試みようとするものだ。

◆ 【永遠のハバナ】すなわち原題【Suite Habana(ハバナ組曲)】は、エドワード・ホッパーの絵画を目指したと語るペレスが描いた都市と市民の風景画であり、映像による無言の散文、言葉のない批評でもある。

◆ 〈映像は言葉よりも嘘をつかない〉パンフレットにはペレスのそんな言葉が紹介されていて、わたしには少しナイーブすぎるんじゃないかと感じられもするが、敢えて彼の言を借りて異論を提するなら、イメージと《嘘》を併置することで生み出されるオルタナティブな批評のパースペクティブというものは存在するだろう(たぶん、きっと)。

◆ それを実現するために、最近わたしはずっと、猫背と眼精疲労の猛烈な進行も厭わずモニタと睨み合い、デジタル処理によってハバナの断片を再イメージ化する作業に取り組んでいるのだった。デジタルカメラのCCDセンサーが変換し、固着させた光の像に事後的操作を加えることでイメージはより虚構性を強めるが、それは、わたしが受けた印象/表象をより正確に現前させる手段なのだ。


"Night view-Habana Libre(Color)" Habana,Cuba
【Suite Habana (March. 2006 / 2007】
"Night view-Habana Libre(Color)" Habana,Cuba



今や貧困と老朽化に支配されている美しい都市は、終わらない”偉大な夢”の酸に侵食された空間であり、そこでは、個人のささやかな夢で活路を開くしかありません
 


◆ 冒頭に引用したこの一文が含まれる、【ハバナへの手紙】を書いたマリオ・ピエドラはハバナ大学で映画史の教鞭をとっていたという。

◆ 《終わらない”偉大な夢”の酸》 フィデル・カストロによる歴史的な革命が数十年のあいだにハバナという都市へもたらした影響を、これほど的確に表した言葉をわたしは他に知らない。わたしがあの都市で生活したごくわずかな時間の中で覚えたモヤモヤを、正確に言い表されてしまったようにも思った。

◆ けれどもペレスが【Suite Habana】を撮影し、ピエドラが《ハバナからの手紙》を書いてからもう10年近くになるのだし、決定的な転期だった旧ソ連崩壊からは23年もの月日が過ぎた。2008年にフィデル・カストロが元首から退いたこともあり、《偉大な夢》も終わりつつあることを示唆する報道が相次いでもいる。遠くないうちにカストロ兄弟は現世から去り、ハバナも市民も、大きな変化を経験することになるだろう。奇妙な(本当に奇妙だ)邦題として示されたような【永遠】など存在しないのだ。

◆ わたしがこれから記述/描していくハバナも、《偉大な夢の酸》に蝕まれた都市の、ある一時期の一断面に過ぎない。それらの持つ特異な美しさは、《永遠》などとは関係がないからこそ見出しうるものなのだ(たぶん、きっと)。


"Habana Vieja-01(monochrome)" Habana, Cuba
【Suite Habana (March. 2006 / 2007】
"Habana Vieja-01(monochrome)" Habana, Cuba


(to be continued)
 ※ シリーズタイトルの【Suite Habana】は、ペレスへ敬意を払って同名を付すこととした。