今月、「葉山嘉樹の建築術――プライヴァシーなき住環境の文学――」を書いた。狭苦しく、室の区別も曖昧で、どれも数十年住むことを計画していないような仮(借)宿しか登場しない葉山文学の住環境を材料に、近代文学が暗黙のうちに前提にしていたプライヴァシーの意識を炙り出す。文字数は25614字、原稿用紙に直すと64枚。長編過ぎる。目次は以下。
- 序、近代文学のプライヴァシー
- 一、禁じられた密室――『誰が殺したか』『それや何だ』『鼻を覘ふ男』『海底に眠るマドロスの群』
- 二、『恋と無産者』の住環境ギャップ
- 三、マイ・ホーム建築計画――『屋根のないバラック』『窮鳥』
- 四、書くことの特権性――『恋と無産者』『窮鼠』
- 五、『義侠』に於ける書くことの自意識
- 六、葉山嘉樹と埴谷雄高
・ネクスト・ステージの扉を開けた
今回の論文は、今年一番の傑作だと思う。「懐疑・無意識・伝染」も「くたばって終い?」もそれぞれ好きだが、これほどまでにブレイクスルー感を与えてくれたのは「葉山嘉樹の建築術」だけだ。これがッ…ネクスト・ステージから見える光景なのかッッ!!
たぶん、この高揚感は、論文の最後に「葉山嘉樹と埴谷雄高」を書けたことに由来していると思われる。このカップリングは意外なように思われるかもしれないが、埴谷雄高は若い頃、葉山文学を愛読しており、編集者として彼の宅を訪れたり、また後年に『海に生くる人々』の解説文を書いたりしていた。
私のお気にポイントは、埴谷の「自同律の不快」が、実は、葉山文学が描いていた脆弱な住環境に由来する雑然的自意識の在り方によって先取りされているのではないか、ということだ。ものを書く自意識は、自意識だけで充足していない。個室=私室のような静寂が保たれるプライヴェート・ルームによって初めて意識は統一=集中する。逆にいえば、ボロ家で伝わるノイズや振動は統一的自己意識を撹乱し、ひとつの自己へと焦点を結ばせない。
「精神の統一を妨げられちやあ、文学は分らなくなるんぢやないですか。たとへば私なんか、一日のうちで、文学に使へる時間と云ふものは、午前一時から三時まで、と考へてゐる位ですよ。詰り深夜ですね、寂として声なき時机に向つてゐると、何だか私でも偉大な文学を作り出せさうに思ひますね。その外の時は、文学的時間から云ふと屑見たいなものです。朝は馬が厠の板を蹴るし、鶏は鳴き立てるし、豚はぶうぶう唸るし、家鴨はがあがあ騒ぎまはるし、それに餌をやる前に、私の子も腹を減らして泣き立てるし、人間や家畜共の食事が済むと、もういろんな用件を持つた人間が押しかけるんですからね」(『義侠』)
拙著『多喜二と埴谷』では、多喜二のテクスト観を介して、ライブラリーの前提を自明視した埴谷を批判したわけだが、ここからどう展開していけばいいのか(或いはこのままでいいのか?)、少し迷うところがあった。今回のカップリングは、その迷路に一筋の光を与えてくれたように思う。とくに埴谷の抽象的発想を、空間や建築といった具体的=物質的な操作の帰結として捉える視点は、今後の私の研究にとって重要なものになっていく予感がする。THANKS HAYAMA(←いつも思ってたけどこれって山岳感あるよね、YAMAHAも同じ)。
・10月にトゥアン『個人空間の誕生』読書会
そういえば、「葉山嘉樹の建築術」序章で取り扱ったイーフー・トゥアン『個人空間の誕生』の読書会をやることになったらしい。場所は新宿、18時から(日にちは10月25日(土)くらいか?)。私の感想はTwitterで少々呟いた。いい本である。
初読者のために、簡単に要約しておくと、現代に生きる私達は「個人」という単位、或いは「プライヴァシー」の観念が自明なものだと思っているが、それは西洋近代が生み出した幻である。寝室を分けるという発想はそんな昔のものではないし、図書館は割とお喋りしてる場所だったし、演劇では観客が舞台上の役者に対して気軽に声をかける。
トゥアンの言葉を借りれば、空間を「分節化」(セグメント化)する以前の共同=共働的な集団性の位相からすれば、「個人」や「自己」のような考え方こそ奇異なものとして映る。トゥアンは「個人」という一見抽象的な観念や「自己」の意識といった精神的対象の根本に、空間の「分節化」(分けたり仕切ったり区別したりすること)の進展をみる。テーブルマナーや個室や劇場といった豊富な例示も、その肝さえ忘れなければ惑わされずに読了することができるだろう。気軽に御参加を。
・土田俊和「新感覚派の「短さ」と「断片」――中河与一『氷る舞踏場』を例に、一九二〇年代日本のモダニズム文学に関する考察――」
8月30日、國學院大學で行われた横光利一文学会に行った。そこでの、土田俊和さんの発表がなかなか面白かった。土田さんがいうに、新感覚派は革新的な表現の手段として、「コント」や「十行小説」といった「短さ」を武器にした文学形式を編み出したそうだ。中河与一は「掌編小説」という言葉の生みの親といわれているが、正に、そんな中河の新感覚派時代の代表作『氷る舞踏場』は、その思潮を代表するかのような「コント」的断片の組み合わせの短篇として読める、とのことだ。
興味深く思ったのが、このような「短さ」に対する先端的な意識は、少し後年に展開されたプロレタリア文学の「壁小説」の発想に近いということだ。「壁小説」とは全文が壁に掲示できるくらい短い小説のことを指し、読書時間を十分に持てない長時間労働者のために、工夫の施されたプロレタリア文芸である。
中河与一は「菊池〔寛〕氏は往々にして長篇小説の或る物は、それを読む人に不当な勢力と時間とを強要する事を述べていた」ことを紹介して、「長大すぎる小説の形式が栄えやうとは考えられない」と指摘していたが(「短篇小説論」『文芸春秋』1924・2)、これは「壁小説」の発想と極めて近い。面白いのが、普通、新感覚派(芸術派)とプロレタリア文学は対立的な主義主張として教科書的には紹介されるが、両者はもしかしたら、新しい表現の模索という点で構造的な収斂をみせていたのかもしれないという問題である。
例えば、小林多喜二は菊池寛の通俗小説を高く評価していた。多喜二には『父帰る』という壁小説さえある。既に中河は菊池の名を出していたが、彼は菊池と同じく香川県生まれの同郷人であり、『文芸春秋』への執筆の機会を度々もらっていた。まともに検討されてはないが、中河に対する菊池の影響力は決して無視できないものだ。こうした前提の上で、例えば、多喜二と中河のような何の接点もないような作家を、菊池寛という第三項を介入さすことで、新しい比較の地平を切り開くことができるのではないか。近代文学における菊池寛のポテンシャリティを考えること。
未だ妄想的なアイディアだが、極めて興味深い研究テーマになりうると思う。傾聴に値する刺激的な発表だった。