【幸福否定の研究とは?】
勉強するために机に向かおうとすると、掃除などの他の事をしたくなったり、娯楽に耽りたくなる。自分の進歩に関係する事は、実行することが難しく、“時間潰し”は何時間でも苦もなくできてしまう。自らを“幸福にしよう”、"進歩、成長させよう”と思う反面、“幸福”や“進歩”から遠ざける行動をとってしまう、人間の心のしくみに関する研究。心理療法家、超心理学者の笠原敏雄が提唱している。
またも前回の更新から期間が空いてしまいましたが(二ヶ月強)、今回で、2年に渡って続いたこの連載も最終回となります。書き始めた当初の想定よりもずっと時間と回数がかかってしまいました。
理由のひとつとして、2年前から計5名の末期がんの患者さんを施術し始めたことがあります。その経験から得た知見によって新たに書き加えなければならないことが発生し、併せて全体の構想も変わっていきました。今回は、そういった点なども含めて、長期化した連載全体の内容を簡潔にまとめてみたいと思います。
理由のひとつとして、2年前から計5名の末期がんの患者さんを施術し始めたことがあります。その経験から得た知見によって新たに書き加えなければならないことが発生し、併せて全体の構想も変わっていきました。今回は、そういった点なども含めて、長期化した連載全体の内容を簡潔にまとめてみたいと思います。
幸福否定の理論、心理療法についてのまとめ
この連載をはじめた時期は、私が笠原氏の提唱する心理療法を施術に取り入れ、実際に心因性疾患の患者さんを本格的に診はじめてから約3年が経過していました。取り入れた理由は、「人格障害の患者さんにより適した治療法になるのでは?」というものでした。
それから2年が経過した今から振り返ると約5年前ということですが、5年のあいだで施術に関する認識の大筋は変化していません。むしろ確信は深まっていますが、一部に例外の発見もありましたので、もう一度、笠原氏の心理療法の追試、及び幸福否定の理論の検証結果を書いてみます。
まず、その元になった小坂療法(参照:幸福否定の研究-11)について。
『小坂療法』
- 心因性疾患の発症理由として、患者の記憶から消えている発症直前の特定の出来事を仮定。患者にそれを認識させると症状が無くなる、或いは軽減することを指摘。
*小坂療法の追試結果*
- 概ね正しい。但し、心理療法が進むにつれて症状が消えにくくなってくる(軽減が多くなる)。また、治療者が経験を積み、理解が深まるほど簡単には症状が消えなくなってくる。(この点を、小坂医師は“イヤラシイ再発”として記述。笠原氏も症状が消えにくくなることは著書で指摘しているので、それを含めれば、同様の結果を得たと言える。)
次に、私が行った笠原氏の心理療法の追試と、そこから導き出された『幸福否定』の理論についての私見です。
『笠原氏の心理療法』
- 「反応を目安に、記憶が消えている心因性症状が出現する直前の出来事を探り、指摘し、感情の演技を通じて抵抗に直面する。【結果】=統合失調症近辺(注1)の疾患をはじめ、様々な精神疾患で根本的な改善をしているので、肯定的な結果を得ている。
『「幸福否定」の理論』
- 筆者(渡辺)は、これまでの追試結果等から、心因性疾患の症状が「本人にとって”うれしいこと”が原因」という笠原理論の骨格は概ね正しいと考えている。
但し、笠原氏の理論に当てはまらない例外的な病気として、『がん』の存在が挙げられます。私が診てきた患者さんには共通する性格的傾向があることから、心がかなり関係していると想定はされるのですが、それでも以下のような疑問点があります。
- 症状が出ない…直前の出来事を探る事ができない。がんの進行にも心因性の要素が関係していることが多いと思われるが、症状が出ないためわからない。
- 半年以上感情の演技を続けた患者さんが数名いるが、がんの進行の速度が遅くなる、ということはなかった。笠原氏の著書『隠された心の力』にがんの症例が2例載っているが、多くのケースでは末期になって来院することが多いため、心理療法では間に合わない。心因性の要素が影響した症例は、かなり進行が遅いことが分かる。(つまり、ごく一般的な転移性のがん患者では間に合わない、ということ)
- 『感情の演技』を極端に嫌がる患者が多いので、開始することさえできれば、効果は出やすいと考えたが(治癒、改善には間に合わなくても性格的傾向が変化する、など)、他の心因性疾患よりも、変化が早いということはなかった。また、がん患者は治療者に本音を悟られないようにしようとする傾向がある。心理療法においても、「自分の考え方や生き方が変わってきた」と生き生きと話をするので、変化が起きたと思いこんだ時もあったが、家族の話や行動を観察してみると、全く変わっていない事がある。この点は追試において注意が必要。
- 心理療法を受けに来ている患者さんたちの経過を追うと、がんになるタイプとは逆の方向に変化していくことが多いため、予防になる可能性は十分にある。(予防したこと自体は立証できないので、あくまでも仮説)
次に、笠原氏の心理療法の手続き(”反応を目安に、記憶が消えている症状が出現する直前の出来事を探る”、”感情の演技”の他にも、患者さんの症状改善に効果があると推測できる要素が分かってきたので、簡単に触れておきます。
『治療者の与える影響について』
- 表面的な治療手続きは変わらないのに、治療者が患者に無意識レベルで影響を与えている可能性がある。
- 一つの側面としては、治療者の理解の深さ。(理解が深くなると症状が消えにくくなる)
- もう一つの側面は、治療者が抵抗に直面しているか、いないか、など、生き方が患者の改善に影響している。
『今後の課題』
- がんの心理的メカニズムの解明。
- 治療者が患者に与える無意識レベルの影響
※ がんへの心理的メカニズムの影響は、患者が大勢来る病院などのほうが分析に適しているため個人の治療家が解明するのは難しい。治療者が患者に与える無意識レベルの影響は、科学的方法論を超えてしまうので(科学的証明はできない)、経験的にわかってくるまで追試を続ける。
社会の進歩に伴う心理療法の変化
(生活の安定から生きがいへ)
(生活の安定から生きがいへ)
次に、社会の変化という点から、心理療法の内容についてもその変化を考えてみたいと思います。笠原氏も著書やウェブサイト等で指摘しているように、主に先進国を中心に、一昔前の常識的な価値観(平穏無事に生活する)とは違った価値観(自分の能力や人格を高めたい、また、自分にとって本当にやりがいのある事を追求したい、など)を持つ人が増えてきました。
明日の生活(生存)の心配をしているような状況では『抵抗』に直面することは少なく、心因性症状も殆ど出現しませんが、生活(生存)の心配が少なくなり、自分の生きがいを追及する方向性に変化してくると、『抵抗』に直面しやすくなるため、心因性症状は出やすくなるのです。
また、生きがいを求めるという段階において、特に昨今の社会状況では、旧来的な常識で導ける『正解』が少なくなってしまうので、自分自身の本心に従って答えを出す必要に迫られます。例としては以下のようなものがあります。
- スポーツ選手が競技を続けるか?やめるか?
- (女性に多い悩みですが)仕事を取るか?結婚を取るか?
- 会社に残るか、やめるか?
かつて、これらの悩みには、常識的な回答がありました。スポーツ選手は成績が維持できなくなったらやめる、女性の一番の幸せは子供をつくることなので当然結婚する、友人知人に「会社をやめようか?」と相談されれば、「もう少し我慢しろ」と慰留する…。個人的な意志で何か決めるというより、ある程度以上、社会に支配的な規範意識、価値観によって答えが決まっていたのです。
その価値観が基盤としていたのは、”生活の安定” です。状況に応じて、平穏無事に暮らすための最善策を選ぶ、ということがなにより重要でした。
意味合いの変化
また、同じ事柄や関係性でも、“意味合い(文脈)”が違ってくる場合には、それに伴って抵抗の強さも変化します。
『夫婦』という在り方
- 子育ての時期…(協力して生活をしていくことが優先となる。生活共同体という意味合いが強い)
- 子育て後…愛情が優先されるため熟年離婚などが起こってくる
『余暇の使い方』…何かをしなければいけない、と、義務的に色々なカルチャーサークルに通うのと本質的に自分のやりたいことをやる、というのは違う。以下のようなケースが考えられる。
- 退職後、余暇の消化として絵画教室に入る。(義務的に時間を潰す行為。抵抗はほとんどないので、心因性症状は出にくい。むしろ、そのような時間の潰し方に疑問を持ち出すと症状が出やすい)
- 退職後、昔からやりたかったが、仕事をやっていたときは時間がなく断念していた絵を始める。(できる範囲の好きな事をやる、それほど抵抗は強くない)
- 退職後、やりたかった絵を始め、自分の本当に画きたい絵を模索するようになる。(強い抵抗に直面しやすく、心因性症状が出やすくなる。他人と比較した上での自分らしさを求める場合は抵抗も弱いが、やりがいがない。やりがいを求めて、本当に自分の描きたい絵は何かを問い始めると、非常に強い抵抗に直面する)
私は、まだ笠原氏の心理療法と幸福否定の理論を勉強しはじめて10年も経っていないのですが、この10年でも、“意味合い”の重要性がどんどん大きくなっているように感じています。
素直な感情に従う
上記のように、社会や個人という概念の変化(進歩)に伴い、“自分の素直な感情に従う=やりがい、生きがいを探す”という方向に進むわけですが、そこには限りがなく、最終地点というものもありません。
また、従える感情は、”自分が自覚できる範囲の素直な感情”に限られるので、”感情の演技”などで『抵抗』に直面し、意図的にそれを弱くしない限り、自分の感情、表面に出てきていない本心などを把握、理解するのは困難です。
その点を踏まえると、”素直な感情”というのは、常に“現時点での”、ということになり、言い換えれば、”変化する余地がある”ということになります。
"素直な感情は常に変化する可能性がある"、と認識すると、そこには不確かさが付きまといます。ただし、『反応』が出るのは『抵抗』に直面し、自らが進歩する方向性を示しているので、“反応を目安にする”ことを一貫した生き方の指標にすることは可能です。
『反応』の出方を目安に、『抵抗』へ直面し続けながら、”素直にやりたいと思える事”(実際には、反応が強く出る行為や対象よりも本人の『生きがい』としては下位に位置する)を実生活で形にしていくわけです。
とはいえ、反応を目安にしながら生き方や取り組み方を決めていくのは、言ってみれば常に生みの苦しみを味わい続けるということなので容易ではありません。それは日々の心理療法でも実感することです。
ただ、現在の先進国社会では、あえて『抵抗』に直面し続けるという求道的な生き方を選ぶ人たちだけではなく、ごく普通の市民であっても何かしら『抵抗』に直面するのが避けられない状態でもあります。そうなったときに、”社会的、常識的な正解がないから、自分の素直な感情に従う”のではなく、“社会的、常識的な正解がないから、反応を目安に自分の取り組みたい事を探ってみる”という方法論の方が、より自分の本心に近づいて生きる事ができるのは確かです。
極一部の稀な例ですが、日常生活に支障をきたすほど強い抵抗に直面し続ける生き方を選ぶ人もいます。笠原氏も2013年4月の文章で、本当にやりたいこと(抵抗の強いもの)ではなく、比較的抵抗の弱い二番目以下の分野で能力を発揮し、成功したという例として、実在する人物(正岡子規)を挙げながら、現在の科学等では十分な説明のつかない生き方というものも存在するのではないか、と推測しています。
既存の『自己実現(抵抗に直面しない程度のやりたいこと=生きがい)』とは全く違う“意味合い(文脈)”が見つかれば、『人間』への理解が進むことになると思います。つまり、小坂医師から始まり、笠原氏が発展させた、“反応”という客観的な指標を追い続ける方法論には、現在よりもっと深い生の在り方へと迫れる可能性が秘められているのかもしれません。
さて、以上で『幸福否定の研究』について、全体のまとめは終わりです。当初は1年以内に終わるだろうと考えていましたが、冒頭でも書いたように諸々の事情があり、結果的に随分と時間がかかってしまいました。引用文献や病気などの記述についてはなるべく正確を期したつもりですが、至らない点も多々あったと思います。筆者自身で気がついた点は適宜修正をしていますが、不自然な点がありましたらサイトへのメール等でご指摘頂ければ幸いです。
ご精読ありがとうございました。
また、従える感情は、”自分が自覚できる範囲の素直な感情”に限られるので、”感情の演技”などで『抵抗』に直面し、意図的にそれを弱くしない限り、自分の感情、表面に出てきていない本心などを把握、理解するのは困難です。
その点を踏まえると、”素直な感情”というのは、常に“現時点での”、ということになり、言い換えれば、”変化する余地がある”ということになります。
反応を目安にする
"素直な感情は常に変化する可能性がある"、と認識すると、そこには不確かさが付きまといます。ただし、『反応』が出るのは『抵抗』に直面し、自らが進歩する方向性を示しているので、“反応を目安にする”ことを一貫した生き方の指標にすることは可能です。
『反応』の出方を目安に、『抵抗』へ直面し続けながら、”素直にやりたいと思える事”(実際には、反応が強く出る行為や対象よりも本人の『生きがい』としては下位に位置する)を実生活で形にしていくわけです。
とはいえ、反応を目安にしながら生き方や取り組み方を決めていくのは、言ってみれば常に生みの苦しみを味わい続けるということなので容易ではありません。それは日々の心理療法でも実感することです。
ただ、現在の先進国社会では、あえて『抵抗』に直面し続けるという求道的な生き方を選ぶ人たちだけではなく、ごく普通の市民であっても何かしら『抵抗』に直面するのが避けられない状態でもあります。そうなったときに、”社会的、常識的な正解がないから、自分の素直な感情に従う”のではなく、“社会的、常識的な正解がないから、反応を目安に自分の取り組みたい事を探ってみる”という方法論の方が、より自分の本心に近づいて生きる事ができるのは確かです。
"本当にしたいこと"にとり組む意味
極一部の稀な例ですが、日常生活に支障をきたすほど強い抵抗に直面し続ける生き方を選ぶ人もいます。笠原氏も2013年4月の文章で、本当にやりたいこと(抵抗の強いもの)ではなく、比較的抵抗の弱い二番目以下の分野で能力を発揮し、成功したという例として、実在する人物(正岡子規)を挙げながら、現在の科学等では十分な説明のつかない生き方というものも存在するのではないか、と推測しています。
子規は、俳句という分野を選んだおかげで、残された短い時間の中で、数多くの作品を作り、数多くの弟子を育て、非常に高く評価される結果になりました。短い人生の中で、中身の濃い生きかたができたわけです。短い人生の中で、中身の濃い生きかたができたわけです。では、子規が本当にしたかったらしい研究を実際に選んでいたとしたら、いったいどうなってい たのでしょうか。それは、表面的にはおそらく苦しみの連続で、あまり多くの業績はあげられなかったでしょう。したがって、それほどの評価は得られなかった かもしれません。しかし、本当の意味でとり組みたいことにとり組んだとは言えるでしょう。そして、そのほうが、私のいう“本心”に素直な生きかただったの はまちがいないと思います。
引用:『心の研究室ホームページ:抵抗の相対性について』
では、本当にしたいことにとり組むことの意味、あるいはそれが周囲にもたらす影響は、どのようなものなのでしょうか。それは、私にもまだわかりません が、いわゆる生きがいとか世間の評価とかとは全く別の次元の、何かきわめて重要なことに関係しているように思います。現在、それが何かを突き止めようとし ているのですが、今生でそれができるかどうかは、現在のところ不明です。
既存の『自己実現(抵抗に直面しない程度のやりたいこと=生きがい)』とは全く違う“意味合い(文脈)”が見つかれば、『人間』への理解が進むことになると思います。つまり、小坂医師から始まり、笠原氏が発展させた、“反応”という客観的な指標を追い続ける方法論には、現在よりもっと深い生の在り方へと迫れる可能性が秘められているのかもしれません。
おわりに
さて、以上で『幸福否定の研究』について、全体のまとめは終わりです。当初は1年以内に終わるだろうと考えていましたが、冒頭でも書いたように諸々の事情があり、結果的に随分と時間がかかってしまいました。引用文献や病気などの記述についてはなるべく正確を期したつもりですが、至らない点も多々あったと思います。筆者自身で気がついた点は適宜修正をしていますが、不自然な点がありましたらサイトへのメール等でご指摘頂ければ幸いです。
ご精読ありがとうございました。
注1:現在の診断基準における『統合失調症』では改善例が出ています。但し、昔の『精神分裂病』という診断名からは随分と拡大解釈されていますので、この点は区別が必要です。